双葉社web文芸マガジン[カラフル]

アンサーゲーム / 五十嵐貴久・著

©️ノグチユミコ

第6回

 毅が浮気していたことは知っていた。
 交際を申し込まれたのは、一年半前の七月の終わりだった。営業部へ異動した時から、あたしは彼を意識していたし、それは彼の方も同じだろう。
 八月いっぱいで研修期間を終え、あたしは営業部員として独り立ちすることになっていた。そのタイミングで、別の部署の男性から好意を伝えられ、どうしたらいいと思いますかと毅に相談すると、ぼくと付き合ってほしいと彼は言った。
「教育係を担当していたから言えなかったけど、ずっと君のことが好きだったんだ」
 そしてあたしたちは付き合うことになった。絵に描いたような話だけど、実際あたしは下書きをしていた。あたしに好意を持っている男性を利用する形で、毅に交際を申し込ませるように仕向けた。
 最初から毅との結婚を意識していた。毅の方も同じだ。はっきり言葉にはしていなかったけれど、暗黙の了解があった。
 交際がスタートしてひと月ほど経った頃、初めて毅の部屋に泊まった。その時、お互いに過去の恋愛の話をした。
 あたしは小学校五年生の時の初恋から、高校、大学、会社に入社してからの四人について告白し、毅は中一から今日までの七人について名前をあげた。
 本当は、あたしが過去に関係を持った男は九人いる。一回だけという相手も含めると、もう少し多い。
 毅の方も、七人という数は怪しかった。十人を超えているのは確実で、他の男性社員からそんな話も聞いていた。
 本当のことを告白しようと約束していたけれど、それは建前だ。どうしても言えない相手や、言う必要がない過去もある。それはお互い様で、あえて触れないのが大人の知恵だ。
 確かめたかったのは、その時点で過去に交際していた人達と連絡を取っていないことだった。結婚を前提にした交際なのだから、そこは明確にしておかなければならない。
 あたしたちはそれぞれのスマホを見せ合って、該当する人の連絡先を消していった。あたしの方は二人しか残っていなかったし、毅も三人だけだった。別れた相手の連絡先を残しておく習慣は二人ともなかった。
 でも、その時から違和感があった。それは女の直感で、証拠がなくても根拠がなくても、わかるものはわかる。
 毅があたしに交際を申し込んできた時、彼には他にも付き合っている女がいた。それを言わなかったのは、二人の関係を壊したくなかったからだ。
 毅が本気であたしと結婚するつもりだったことはわかっていた。彼としては、その女と別れてからあたしと付き合うつもりだったのだろう。
 でも、うまく話がつけられなかったのか、他に事情があったのか、あの時点では別れていなかった。
 他にあたしを好きだと言っている同じ会社の男性がいるとわかり、フライングであたしに告白した。そうするしかなかったのだろう。
 すぐにでも、その女との関係は終わるとわかっていた。だから、何も言わなかった。
 あたしは毅と結婚したかった。ルックスはもちろん、営業部の若きエースとして評価も高く、将来の役員候補とも噂されている彼を逃す手はない。
 他に女がいるのは確信していたけど、確証があったわけじゃない。どんな女だとしても、絶対に勝てる自信があった。
 その後、デートを重ね、週末は一緒に過ごした。二人でいることが自然になり、毅がスマホをその辺に置いたまま一人でシャワーを浴びたり、自分だけ先に寝てしまうこともあった。
 奈々、という女からLINEが入っていることに気づいたのは、その頃だ。
 毅のスマホはLINEのメッセージを着信すると、ロック画面にその内容が表示される設定になっていた。
〈今度、いつ会える?〉
〈水曜、旦那が出張でーす〉
〈昨日は楽しかったよ〉
 そんな感じのメッセージを何度も見ていた。奈々が結婚していることや、年上なのもわかった。
 それでも何も言わなかったのは、最終的に毅が選ぶのはあたしだと確信していたからだし、奈々のLINEに毅が返事をする様子がなかったからだ。無理のない形で別れようとする時に使う常套手段で、あたしも経験がある。
 ここで奈々の話をすれば、あたしたちの関係が悪くなる。その方が怖かった。
 あの頃、あたしは毅との交際を周囲にしらしめるようにふるまっていた。既成事実化ではないけれど、結婚に向けて、退路を断つつもりで叔父にも報告し、同期の女子社員には、ゼッタイ誰にも言わないでよと念押ししてから、二人が付き合っていることを話した。〝誰にも言わないで〟は、〝言っていいよ〟の意味であることは言わずもがなだ。
 結果、噂は営業部内はもちろん、同期が所属している部署にも広がった。毅も周りから聞かれれば、それを認めるようになった。
 両親やあたしの友人にも会わせたし、彼の友人とも積極的に会うようにした。それからの展開は早かった。
 交際半年でプロポーズされ、もちろんあたしはイエスと答えた。すぐ両親や上司に報告した。
 そうこうしているうちに、奈々という女からのLINEが入ることはなくなっていた。二人の関係は終わったのだ。すべて計算通りだった。
 ただ、付き合い始めた最初の一、二カ月、毅があたしと奈々に二股をかけていたのは本当だ。それは浮気だろう。
 でも、気づかないふりをした。何も知らない純情な女の子を演じた。だから、彼は浮気をしていないことになっている。
 問題が二つある、とフリップを見つめた。毅はあたしが奈々の存在に気づいていたことを、本当は知っていたのではないか。
 そしてもうひとつ。あたしが浮気をしていたことは知っているだろうか。
 あれは失敗だった、と毅は天井を見上げた。
 里美に交際を申し込む数カ月前、スマホの機種変更をした。データの移行や手続きに、四、五時間はかかっただろう。 
 誰でもそうであるように、途中で面倒臭くなり、設定については携帯ショップの店員にすべて任せた。メールやLINEの内容がロック画面に表示される設定になっているとわかったのは、すべての手続きを済ませて携帯ショップを出た時だった。ご丁寧に履歴も出る。それはそれで便利な機能だし、あえて変更しようとは思わなかった。
 会社の先輩のホームパーティに招かれ、奈々と知り合ったのはそのすぐ後だ。彼女は先輩の妻で、俺の四歳上、少し吊り上がった目に、独特の色気がある女だった。
 その場の流れで、パーティに参加していた全員がLINEのIDを交換した。それだけのはずだったが、数日後、奈々からLINEが入った。
 先輩とのことで相談があるという話だったが、それが口実なのはわかっていた。細かいことは覚えていないが、その日のうちに寝た。
 人妻とセックスするのは初めてじゃなかったが、先輩の妻と寝ていると思うと、それだけで興奮した。
 奈々も同じだろう。先輩はおれより十歳上だ。年下の若い男に興味があっただけなのではないか。ひと時のスリルを味わいたい、それだけのことだ。
 それからも、時々会うようになった。付き合うということではない。要するにセフレだ。
 だが、そんな関係にはすぐ飽きがくる。他の男性から交際を迫られている、と里美から相談を受けたのは七月の終わりだった。
 奈々との関係はまだ続いていたが、どうせ別れるとわかっていたし、俺自身も里美と付き合うつもりだったから、その場で交際を申し込んだ。
 三十歳を目前に控え、そろそろ身を固めなければならないと考えていたし、結婚相手にふさわしい女は里美しかいなかった。
 入社前から、田崎里美という新入社員のことは噂になっていた。大学のミスキャンパスという肩書を持ち、何度かファッション誌に載ったこともある。最初からその存在は有名だった。
 しかも叔父が役員で、田崎家は永和を創設した市川家とも繋がりがある。
 ルックス、育ちの良さ、家柄、誰からも愛されるキャラクター。結婚相手としての条件は完璧だった。
 里美の方も俺に好意を持っているのは、異動してきた時からわかっていた。他の男の話は、俺の背中を押すための口実だとわかっていたが、別に構わなかった。
 すぐに俺たちは付き合うことになった。お互い、結婚を意識していた。俺も結婚を前提に交際を申し込んでいたし、里美の結婚願望が強いことは前からわかっていた。
 だから、里美が社内の女性社員たちに自分たちのことを話していても止めなかった。同僚たちから、最近ずいぶん仲がいいじゃないかと冷やかし交じりに言われても、そういうことだと俺も答えた。
 両親を紹介したいと言われれば、すぐ会いに行ったし、学生時代の友人とも会った。それは俺も同じだ。結婚が前提だから、話は早かった。
 唯一、計算違いがあったのは奈々だ。里美に交際を申し込んだ後、すぐ奈々と会って、関係を終わらせたいと話したが、もう少しだけ続けようよと彼女は言った。その目に危険な光があるとわかり、それ以上何も言わなかった。
 無理に別れれば、奈々は自暴自棄になって先輩に俺のことを話すだろう。過去にもそういう女と付き合った経験があったから、地雷を踏むのはまずいとわかっていた。
 先輩は、社内的なトラブルに発展させるような人ではないが、事が事なだけに、どうなるかはわからない。失敗できなかった。
 対処法はひとつしかなかった。徐々に距離を取ることだ。
 こちらから連絡を取ることは一切しないと決め、奈々からの連絡にも、返事をするまで一定の時間を置くようにした。
 完全に連絡を断てば、奈々は暴発する。だから、段階的にLINEやメールの返信を遅らせるようにした。
 三日後に返信が届くようなことが続けば、彼女も意味はわかるだろう。三十四歳の大人なのだ。
 奈々も頭が悪いわけじゃない。夫に俺との関係をぶちまけることのリスクは十分わかっていたはずだ。
 それまで週に一度は会っていたが、月に一度会うか会わないか、そんなふうにシフトしていった。電話には出ないし、会った時には、そろそろこの辺で、というニュアンスを交えて接するようにした。
 二カ月で決着がつくだろうと思っていたら、ほぼその通りになった。
 ただ、その二カ月が里美との交際と重なっていた。その間、奈々とは三回会い、流れでセックスもした。それは里美に対して不誠実な行為であり、浮気と言われればその通りだが、気づかれていなければ、何もなかったのと同じだ。
 奈々との関係は里美に話していなかったし、注意もしていたが、一緒にいる時、スマホを置いたまま席を外したことは何度かあった。
 レストランで食事中トイレに行ったり、ホテルに泊まって先に寝てしまったりとか、そんなことだ。肌身離さずスマホを持ち歩くことなどできないし、シャワーを浴びたりトイレに行く時もスマホを持ち込んでいたら、その方が怪しまれる。
 会社でもそうだ。上司と短い打ち合わせを済ませてデスクに戻ると、画面に奈々からのLINEの履歴が残っていたこともあった。里美は隣の席だったから、画面に浮かんだ表示を見ていたかもしれない。
 指紋認証だし、パスコードは信頼の証としてお互い教えていない。だから、LINEの全文を読んだはずもないが、最初の一文に〈今度いつ会える?〉とあれば、一体誰なのかと思うだろう。
 もし、里美が奈々の存在に気づいていたとしたらどうなるか。里美と付き合っている間に、他の女と親密な関係にあった俺を、浮気をしていたと考えるだろう。
 そうであるなら、フリップにはイエスと書くべきなのか。里美が俺のしていたことを知っているなら、その方がマッチングの確率が高くなる。
 そしてもうひとつ、もっと重大な問題がある。毅は何も書いてないフリップを見つめた。
 里美が浮気していたことを、俺は知っている。
 9:55。モニターの数字が十分を切っていた。
 毅はあたしが他の男と寝たことを知っているだろうか、と里美はため息をついた。
 毅にプロポーズされた時、喜びより先に安堵感があった。これですべてが丸く収まる。
 奈々という女のことが気にならないわけではなかったが、交際を始めて二カ月ほどで、奈々からのLINEが入ることはなくなっていた。うまく別れたのだろう。他の女と連絡を取っている気配もなかった。
 毅は男性として本当に魅力的で、彼のような男と付き合い、そして結婚する以上、女性の影がちらつくのはある程度やむを得ないし、奈々という女性との関係について責めなかったのは、そんなことをしても何の得にもならないとわかっていたからだ。
 自分にも言っていない過去がある。奈々のことは忘れてしまえばいい。
 そう思っていたが、プロポーズの後、親や会社、友人などへの報告がひと通り終わり、結婚について具体的な話が進んでいくにつれ、心の中に澱が溜まっていくのを、止められなくなった。
 過去の女性についてとやかく言うつもりはなかったが、自分に交際を申し込んだ時点で、他の女と関係を持っていたのはどうなのか。
 それほど深い仲だったとは思えない。それは毅の態度を見ていればわかった。体の関係だけ、ということなのだろう。でも、それなら身辺をクリーンにしてから、交際を申し込めばよかったのではないか。
 自分だけ損している、そんな気がしてならなかった。ある種のマリッジブルーだったのかもしれない。
 連絡先を消していた大学の時の恋人からメールが届いたのは、今年の二月だった。
 結婚すると聞いたよ、おめでとう。そんなことが書いてあった。
 こちらが消去していても、相手には自分のアドレスが残っている。調べる必要さえなかっただろうし、昔付き合っていた女が結婚すると聞いて、懐かしくなってメールした。それだけの話だ。
 ありがとうと返信したのは礼儀だったが、お祝いしてよと書き添えたのは、自分の中に別の思いがあったからだ。
 何度かやり取りがあり、二週間後に会うことになった。毅には大学の仲間がお祝いしてくれることになったと言って、外苑前のイタリアンレストランで彼と二人だけで会った。
 大学を卒業してから五年ぶりの再会だ。懐かしさもあり、いつもよりハイペースでワインを飲んだ。
 そのまま、昔よく行った南青山のバーで飲んだところまでは覚えているが、三軒目へ行こうと立ち上がったところで、記憶はぷっつり途絶えている。
 目が覚めると、円山町のラブホテルにいた。十二時を回っていた。
 隣でいびきを掻いていた男を叩き起こし、タクシーで自宅へ帰った。車中でスマホを確かめると、毅から電話が一度、LINEが三件入っていた。
 メッセージは残っていなかったし、LINEにしても、楽しんでるかとか、飲み過ぎるなよというような内容で、思わず安堵のため息をついた。
 すぐにLINEを返した。友達のお祝い攻めが凄くて、LINEを見ている暇がなかったと書くと、既読がついたが、それに対する返信はなかった。
 翌日出社すると、毅の態度はいつもと変わらなかった。結婚式を四カ月後に控えていたが、だからといって社内でべたべたするようなことはしない。
 午後から出張が入っていた毅は、午前中の会議が終わると、そのまま東京駅へ向かった。あたしが部の同僚と社員食堂でランチをしていたら、昨日青山にいたよな、と突然先輩社員が話しかけてきた。
「おれと大河内と樋口の三人で残業してたら、急に課長から電話があってさ。表参道で飲んでるから、ちょっと出てこいって。タリア石油の役員が一緒だっていうから、行った方がいいだろうってことになって、三人でタクシーに乗ったんだ。途中、青山通りで信号待ちしてたら、君がオシャレな店に入っていくのが見えたよ」
 大学の友人と飲んでいました、と答えた。声はいつもと変わらなかったが、背中に冷や汗が伝っていた。
 いいねえ若者はと言っただけで、すぐに先輩は他の社員と別の話を始めたが、あたしは食べていたオムライスの味もわからなくなっていた。
 先輩があたしに気づいたということは、一緒にタクシーに乗っていた毅もあたしを見ていたのではないか。その時、男が一緒だったのはわかっただろうか。
 青山のオシャレな店、というのは例のバーのことだ。一軒目のイタリアンでかなり酔ってしまい、支えられなければ立っていられないほどだった。そこからバーへ行くまでも、男と手を繋いでいたか、腕を組んでいたか、どちらかだっただろう。
 バーに入る時はどうだったか。男が先にドアを開けた気もするが、はっきりしない。手を繋いだまま、二人で入っていったかもしれない。それを毅が見ていたとしたら、どうなるのか。
 先輩社員に、あたしが男の人と一緒だったのを見ましたか、とは聞けない。それは毅に対しても同じだ。
 見ていない可能性もある。タクシーの信号待ちなんて、数十秒だろう。見ていたとしても一瞬のはずだし、それで何がわかるというものでもないはずだ。
 スマホを取り出し、昨夜毅から着信があった時間を確かめると、夜九時十一分だった。男とレストランで会ったのは六時半だ。二軒目のバーに移動したのは、九時前後だっただろう。
 このタイミングで電話が入っているのは、やはり毅もあたしのことを見たのではないか。婚約者が他の男と手を繋いでバーに入っていくのを見て、黙っていられるはずがない。
 大学時代の仲間と会う、と毅には伝えていた。女性の友人というニュアンスで話したし、毅もそう受け取っただろう。あの男は誰だ、と思ったはずだ。
 ただ、仲間というのは複数の意味あいもある。女性の友人をメインに、男性もいたということにすれば、言い訳は成立するかもしれない。
 酔ったあたしを、その男性が支えてくれたと説明すればいいと思ったが、薮蛇になる恐れもあった。
 毅は勘が鋭い。表情や雰囲気で、どういう関係か察してしまうかもしれない。そして、その後何があったかも。
 だけど、とランチセットのサラダをつつきながら思った。毅だって、他の女と関係を持ちながら、あたしに交際を申し込んだ。それも、結婚が前提でだ。そんな不誠実な話があるだろうか。
 あたしはそうじゃない、とまたフォークでサラダを何度もつついた。あの男と寝るつもりはなかった。そうなったのは、流れとしか言いようがない。
 酒のせいでもある。あたしの責任じゃない。責任というなら、それは毅にあるだろう。毅さえ、他の女と関係を持っていなかったら――。
 毅に問い詰められたら、どう答えればいいのか、そればかり考えていたが、結局何もなかった。
 福岡出張に行っている三日の間にも、いつものようにLINEや電話が入っていたし、あたしもLINEを送った。
 帰ってきた土曜には、東京駅まで迎えにいった。おみやげの明太子を忘れたと笑った毅の顔は、いつもと同じだった。
 でも、彼はあたしが他の男と寝たことを知っている。
 しかも、結婚式まであと四カ月という時期に。
 そして、毅が二股をかけていたことを、あたしは知っている。
 しかも、結婚を前提とした交際を申し込んだ後も、その関係を続けていた。
 お互いがお互いの浮気を知っている。そして知らないふりをしている。
 何もなかったようにふるまい、結婚式と披露宴を済ませ、両親、親戚、友人、会社の人達から祝福された。
『わたしは浮気をしたことがある』
 モニター下にテロップが流れていた。あたしは浮気をしたことがある。そして毅も浮気をしたことがある。
 つまり、答えはイエスだ。
 でも、とあたしは思った。アンサーゲームに正しい答えはない。二人の回答がマッチングすることが正解なのだ。
 イエスかノーかの二択です、とピエロは言っていた。チャンスタイムです、とも。
 チャンスじゃない、とあたしは涙を拭った。これは究極の二択だ。どう答えるべきなのか。あたしが他の男と一緒にいるのを見たはずなのに何も言わなかった毅は、何と答えるのか。
 毅は何も言わなかった。追及しなかった。それは大人同士の暗黙の了解だ。下手に責め合えば泥沼にはまるだけで、場合によっては婚約解消ということにもなりかねない。
 式を四カ月後に控えたあの時点で、そんなことはできるはずもなかった。親も、会社も、友人も、誰もが祝福の準備を始めていたのだ。
 本気ではなく、体だけの浮気だ。誰にだってあるだろう。なかったことにすればいい。それでよかった。
 だが、二択という形で問題を突き付けられると、そこにあるのは本質だけだった。他の女、あるいは男と関係を持ったら、それは浮気だ。
 しかも、お互いがその事実を知っている。だとすれば、答えはひとつ、イエスしかない。
 顔を上げると、モニターの数字が00:49になっていた。もう時間はない。左手でフリップを持ったまま、回答を書いた。
 残り時間十秒です、というピエロの声が響いた。
(第7回へつづく)

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五十嵐 貴久Takahisa Igarashi

1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2001年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞しデビュー。以降、ミステリーや警察小説、青春小説、恋愛小説など、幅広いジャンルで話題作を発表する。07年『シャーロック・ホームズと賢者の石』で第30回日本シャーロック・ホームズ賞を受賞。08年『相棒』で第14回中山義秀文学賞候補、11年『サウンド・オブ・サイレンス』で第28回坪田譲治文学賞候補。著書多数。

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