双葉社web文芸マガジン[カラフル]

アンサーゲーム / 五十嵐貴久・著

©️ノグチユミコ

第4回

 里美、という嗄れた声が耳元でした。毅、と里美は精一杯大きな声で答えた。
「どこにいるの? どういうことなの? 助けて、お願い!」
「落ち着け」冷静になれ、と毅が言った。「どういうことなのか、俺にもわからない。今、そんなことを話している時間はない。無事なのか? 怪我はしていないか?」
 大丈夫、と涙を堪えながら里美は言った。毅も混乱しているのだろう。声に不安と恐怖が混じっていた。
「モニターでそっちの画像を見ていた。俺のことも見ただろう。二人とも下着しか身につけていない。そうだな?」
 うん、と里美はうなずいた。毅は怯えを意志の力だけで抑えようとしている。あたしもそうでなければならない。叫びだしそうになる口を右手で塞いだ。
 こっちの部屋を調べた、と毅が囁いた。
「隅から隅までだ。鉄板で造られた正方形に近い箱で、戸や窓はない。そっちはどうだ?」
 同じ、と答えた。やっぱりそうか、と毅が声を更に低くした。
「考えたんだが、たぶん輸送用のコンテナだろう。去年ドバイへ出張した時、資材部の連中と一緒に見学したことがある。改造しているのかもしれない。他に何か気づいたことは? 覚えていることはないか? ここまで、どうやって運ばれてきた?」
 あたしに聞かないで、と堪えきれずに叫んだ。パニックで頭が真っ白になっていた。
「そんなことどうでもいい。毅、助けて! どこにいるの? どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのよ!」
 頼むから落ち着いてくれ、と毅が怒鳴った。
「そんなことを話してる暇はない。わかってるのはピエロが俺たちについてよく知ってるということだけだ。どうやって調べたのかわからないが、ホテルや飛行機をキャンセルしたと言っていた。口ぶりから察すると、嘘じゃなさそうだ。一人じゃない。かなりの人数が動いている。表に出てるのはピエロだけだが、裏にもっと大勢の人間がいるのは間違いない。一人でこんなことできるはずがないからな」
 分析は止めて、と里美は首を振った。
「どうしてディスカッションボタンを押さなかったの? あたしは押した。答える前に話し合っていれば、回答を合わせることだってできたのに」
「あんな簡単な問題、正解はひとつしかない」怒ったように毅が言った。「ディスカッションは三回までだとピエロは言った。その一回を使うべきタイミングじゃないと思ったんだ」
 ため息が受話器から漏れた。毅も怒りを我慢しているのだろう。
 今、話し合わなければならないことは他にあると、里美にもわかっていた。聞いてくれ、と毅が声を高くした。
「俺たちは軟禁されている。目的どころか、場所さえわからない。ここを出るためには、奴らのアンサーゲームに応じるしかないようだ。ミスマッチを三回までに留めれば、解放すると言ってる。俺たちにできるのは、マッチングを成功させることだけだ」
 あと一分です、とピエロの声が割り込んだ。どうしたらいいの、と里美は叫んだ。
「質問そのものは簡単よ。だけど、求められているのはあたしたちの回答が同じになることで、そんなの無理よ。そうでしょ?」
 どちらかに合わせるしかない、と毅が言った。
「同じ設問でも、受け取り方や解釈が違えば、答えは分かれる。それを防ぐためには、どちらかの考え方に合わせるしかない」
 三十秒、と感情のこもらない声でピエロが言った。俺が合わせる、と毅が早口で言った。
「里美は自分の思う通りに答えろ。俺はお前の立場になって考える。それでいいな? 制限時間は三十分だとピエロは言った。ぎりぎりまで使え。その間に俺は出口を――」
 タイムアップというピエロの声と同時に、通話が切れた。毅、と叫んだが、答えはなかった。
 モニターにPHSを握ったまま立ち尽くしている毅がぼんやり映っていた。里美はその場に膝をついた。
 モニターが一瞬消え、再び画面がぼんやりと明るくなった。そこに映し出されていたのは、ピエロの顔だった。
 残念ですがトークタイムは終了です、とピエロが言った。里美はゆっくり立ち上がり、椅子に腰を下ろした。
 とにかくあなた方はお互いの無事を確認し、コミュニケーションが取れたわけです、とピエロが笑みを浮かべた。
「先ほどは私の誤解もあって、言ってみればノーヒントの出題となってしまいましたが、ここからは違います。そんな辛そうな顔をせず、ポジティブに取り組みましょう。ネガティブな思考をしていても、いいことはありませんよ。ポジティブシンキングで行きましょう!」
 お願いです、と里美は両手を組み合わせて額につけた。
「もう止めてください。こんなことをして、いったい何の得があるの? せめて水をください。喉が渇いて、何も考えられません」
 同情します、とピエロが深くうなずいた。
「ですが、世界中にはもっと苦しんでいる人間がいます。貧困や飢餓にあえぐ子供たち、不衛生な環境、あるいは病気。戦火の真っ只中にいる人たちのことを考えてください。たかが数時間、水が飲めないぐらいで、死ぬことはありませんよ」
 喉が痛いんですという訴えを無視するように、派手な音楽が流れ出した。
「さあ、気を取り直していきましょう。ネクストステージです。セカンドクエスチョンはこちら!」
 モニターの画面が切り替わり、そこに文字が映し出された。
『最初のデートはどこでしたか?』
 そのまま文字が画面の下にテロップとして流れ始めた。大写しになったのは、30:00という数字だった。
 では、ただ今よりセカンドクエスチョンのスタートです、というピエロの声と同時に、数字が29:59に変わった。カウントダウンが始まっていた。
 しっかりして、と里美は手を強く握った。五分間、毅と話せた。それが心の支えになっていた。
 毅の言う通りだ。ピエロの正体を考えたり、自分たちをここへ連れてきて閉じ込め、馬鹿げたゲームを仕掛けている連中が誰かを探っても無駄だ。そんな時間はない。
 今できることは二つ、ひとつは自力でこの部屋から脱出するためのルートを調べること、もうひとつはアンサーゲームをクリアすることだ。
 里美自身、この部屋の中はできる限り調べたつもりだった。部屋というより箱だし、更に正確に言えば、檻だった。
 四方の壁と床は鉄板で、どこにも隙間はない。天井には手が届かない。
 頑丈な造りで、床に固定されたパイプ椅子、そしてトイレ以外何もないのだから、自分の力ではどうすることもできないだろう。
 俺が部屋を調べる、と毅は言っていた。道具になるような物は何もないはずだったが、体格がよく腕力もある毅なら、壁や床に僅かな割れ目や隙間を見つければ、そこを壊すことができるかもしれない。
 檻からの脱出に成功すれば、助けを求めることも可能だろう。そこは毅に任せるしかない。
 ならば今やらなければならないのはアンサーゲームをクリアすることだ、と里美はフリップを見つめた。モニターの明かりで、手元だけは見えた。
 考えなければならない。最初のデートはどこだったか。
 ファーストクエスチョンと同じだ。デートの定義が曖昧で、個人の主観によるところが大きい。どう解釈していいか、わからなかった。
 ただ、アンサーゲームの意図については、わかったつもりだった。問題に対する正解はない。
 求められているのは、
 時間をぎりぎりまで使って考えよう、と里美はモニターを見つめた。五分しか経っていない。まだ二十五分残っている。有効に使わなければならない。
 このセカンドクエスチョンを含め、あと九問残っている。単純計算で二百七十分、四時間半だ。
 その他にディスカッションや、問題と問題の間にインターバル的な時間もあるだろう。少なくとも五時間の余裕がある。
 五時間あれば、毅が脱出ルートを見つけてくれるのではないか。彼を信じよう。必ず、あたしを救いに来てくれる。
 もう一度モニターに目をやった。最初のデートはどこでしたか。
 それほど難しくない、と里美はうなずいた。「最初に会ったのは、いつ、どこで」というファーストクエスチョンより、条件が限定されているためだ。
「会う」というのは解釈に個人差があるが、「デート」となると二人の意志が大きく関わってくる。意識と言ってもいいだろう。
「デート」という意識を持って、二人が会った時のことを考えればいい。時間的な範囲が限定されているから、条件の絞り込みも容易だ。
 里美は六年前永和商事に入社した。それまで毅との接点はなかった。
 つまり、考えればいいのは自分が営業部に異動した二年前以降に限定していい。記憶もはっきりしていた。
 正確に言えば二年二カ月前の四月一日付けで、営業部への異動を命じられた。営業部には五つの課があり、配属された営業部第一課に毅がいたのは偶然だったのか、それとも必然だったのか。
 異動は、自分と一年後輩の島崎杏が一緒だった。そして彼女と二人で、四年先輩の毅の下についた。
 その後、秋には二人とも営業部員としてそれぞれ担当を持つようになったから、毅の下にいたのは半年ほどだ。最初の一、二カ月は取引先への紹介がメインで、場合によっては一度に二十人ほどと引き合わされ、名刺を交換して、顔と名前を覚えるように言われたこともあった。
 毅はそれなりに厳しかったが、同時に営業部の他の課へ異動した者と比べれば恵まれていた。優しい先輩だったのは間違いない。
 無理な残業はなかったし、他社との会合があっても、頃合いを見計らって先に帰してくれた。
 さりげない気遣いができる人だと思ったのは、最初からそうだったかもしれない。意識するようになり、魅かれていったのは自然な流れだった。
 異動後しばらくの間は、毅の仕事を見て学ぶこともあった。遅い時間になった時には、杏と三人で食事をしてから帰ったこともある。だが、あれをデートとは言わないだろう。
 その時点で、里美は毅に好意を抱いていたし、毅の方もそうだったと後で聞いた。だが、社内的な立場もあり、簡単に事が進んだわけではなかった。
 仕事を覚えなければならないという意識があったから、あえて毅のことは先輩社員として考えるようにしていたし、仕事に慣れていくと、食事に行くことも増えたが、三人でなければ行かないという暗黙の了解があった。
 待って、と里美はフリップを取り上げた。二人だけで飲みに行ったことがある。七月に入ったばかりの暑い日だった。
 会社でプレゼン用の資料を作っていて遅くなった。あの日、杏はプライベートな用事があって、先に帰っていた。
 夜九時過ぎ、ようやく資料作りを終え、毅と二人で社を出た。その時、初めて二人だけで食事に行った。
 あの時、あたしはサインを出していた。誘ってほしい、という目をしていたかもしれない。
 それまでも三人で食事に行ったことはあったから、その延長と考えれば不自然じゃない。ですよね?
 想いが通じたのか、毅がイタリアンレストランに誘ってくれた。二人でワインを飲んで、それなりに盛り上がったけど、でもやっぱりあれはデートじゃない、と首を振った。
 二時間ほどしかいなかったし、次の店へ行こうということにもならなかった。地下鉄の改札で別れ、それぞれの自宅に帰った。それだけだ。
 あらかじめ約束して会ったわけではないし、何か特別な話があったわけでもない。あれをデートとは呼ばない。
 直接毅から誘われたのは、七月の終わりだった。暑気払いということで、営業部全員でビヤホールへ行った帰りに、前を歩いていた毅がさりげなく近づいてきて、今度の日曜は空いてるの、と耳元で囁いた。鳥肌が立つような感覚を、今もはっきり覚えている。
 観たい映画があるんだ、と毅がさりげない風を装って言った。
「よかったら、一緒に行かないか?」
 一瞬迷ったふりをしてから、あたしはうなずいた。意外と陳腐な誘い方だなと思ったのも本当だけれど、嬉しさの方が大きかった。
 その週の日曜、待ち合わせて二人で渋谷へ映画を観に行った。あれが初めてのデートだろう。どう考えてもそうだ。
 だけど――。二人で映画を観て、それだけだった。お茶の一杯も飲まなかった。
 翌日の月曜から出張で札幌へ行く予定だった毅が、先方の都合で日曜中に現地に入らなければならなくなり、急遽取った飛行機の便が夕方発だったためだ。
 会った時、毅は事情を説明して謝ってくれたし、仕事なら仕方ないと里美も納得していた。それでも、エンディングロールが流れるのと同時に、映画館を飛び出していった毅の背中に、デートじゃなかったのとつぶやいている自分がいた。
 あの時のことは、その後二人の間でも何度か喧嘩の種になった。喧嘩というより、二人だけのジョークと言った方がいいかもしれない。
 毅って冷たいよねとからかい、そうじゃないんだと毅が言い訳する。そのやり取りが楽しかった。
 結局、二人だけで会うようになったのは九月に入ってからで、その時にはあたしも毅も、お互いの好意がはっきりとわかっていた。
 九月とはいえ、まだ残暑が厳しい日だった。二人で美術館へ行き、バルで飲み、家まで送ってくれた。本当の意味でのデートとは、あの時のことを言うのではないか。
 違う、そうじゃない。考え過ぎてる、と里美は思った。
 映画に誘われた時、あたしはデートと思って了解した。毅もそのつもりで誘ったはずだ。出張の予定が変更になったのは前日の土曜で、誘った時点では毅もわかっていなかった。
 彼はデートのつもりで誘い、あたしもそれをわかっていて二人で会った。やっぱりあの時が初デートだ。
 でも、とマジックペンを握ったまま、里美はもう一度だけ考えた。
 一番最初、七月の頭に二人だけで食事をした時、あたしの中であれはデートだった。心の中で毅に想いを訴え、誘ってほしいと願った。
 約束も何もなくても、あの時あたしは毅と一緒にいたいと思った。あれはデートではなかったのか。
 毅はあたしに合わせて考えると言った。では、自分の気持ちに従って、あの時のことを初めてのデートと答えるべきじゃないのか。
 これではどこまで行っても堂々巡りだ。シンプルに考えよう。
〝里美に合わせる〟、毅はそう言っていた。人の心を推し量る能力は誰よりも高い人だ。
 ましてや他人ではない妻のあたしが何を考えているか、毅ならすべてをトレースできる。
 だって、あたしたちは愛し合っている。誰よりもお互いのことを深くわかり合えている。
 迷う必要はない。思った通り書けばいい。それで回答はマッチングする。
『渋谷で映画を観に行ったのが初デート』
 そうフリップに書いたが、ボタンは押さなかった。タイムリミット寸前まで待った方がいい。毅もそう言っていた。
 フリップを床に伏せて、里美は静かに目をつぶった。
 出口はどこだ、と毅は壁を手で探りながら部屋中を歩き続けた。
 光源はモニターから漏れてくるぼんやりとした光だけで、ほとんど何も見えない。触れる以外、探しようがなかった
 その間も、頭は目まぐるしく回転していた。この悪意しか感じられない悪戯を仕掛けた者が、複数であることは間違いない。ピエロも含め、最低でも四、五人、もしかしたら十人ということも有り得る。
 根拠はいくつもあった。まず、奴らは俺と里美をホテルから拉致した。一人では絶対に無理だ。
 入念な下準備をしていたことも、確信があった。ホテルのセミスイートルームに置かれていたワインやシャンパン、そして冷蔵庫の中のドリンク類、更にはケーキや菓子の中にも睡眠薬を仕込んでいたのだろう。
 披露宴や二次会で、二人ともかなりの量のアルコールを飲んでいたし、酔っていたのも確かだが、あんなに突然眠気に襲われるはずがない。シャワーを浴びてからベッドに入ろうと思っていたが、それさえできなかったのは、睡眠薬を飲まされたからだ。
 友人からのプレゼントということで、ワインやシャンパンを部屋に運ばせることは難しくなかっただろう。ケーキや菓子についても同じだ。
 俺たちが酒やケーキに口をつける保証はなかった。結婚式と二次会を終えた新婚カップルのほとんどが、精神的にも肉体的にも疲れ切っているのは常識だ。酒なんかいらない、と思うのが普通だろう。
 実際、二人ともひと口シャンパンを飲んだだけで、ワインには口もつけていない。どれほど強力な睡眠薬が入っていたにしても、あれほど深く寝入ってしまうとは思えなかった。
 だが、アルコール類に口をつけなくても、何かは飲むはずだと奴らは考えた。だから冷蔵庫のドリンク類すべてに睡眠薬を混入させた。そんなことが簡単にできるはずもない。
 ホテルマンを買収し、冷蔵庫の中味を総入れ替えした。あるいはホテルマンがこの悪戯に関与しているのか?
 そう推測できるのは、奴らがセミスイートルームに侵入していたからだ。部屋はオートロックで、ドアを閉めれば自動で施錠される。外部から開けることはできない。
 奴ら、いや、犯人と呼んだ方がいいだろう。犯人はマスターキーもしくはスペアキーを準備していた。だから簡単に部屋に入ることが可能だった。ホテルマン以外、そんなことができる者はいない。
 犯人たちは熟睡している俺と里美を、何らかの方法で部屋の外に運び出した。たとえば大型のスーツケースに入れたのかもしれない。それなら他人が怪しむことはないだろう。
 そこから車で移動した。徹底的に調べて確信を持っていたが、今いる檻はある種のコンテナで、そんな物が町中にあるはずもない。会社などの建物の中にあるとも思えない。
 コンテナがあっても不自然と思われない場所なのだろう。例えば港とか、資材置き場とか、そういう場所だ。
 ただ、どうしてもわからないのは、犯人たちがどうやって自分と里美をこの檻、コンテナに入れたかだった。何らかの形でドアがなければならないが、それが見つからないのはなぜなのか。
 しかも、ピエロが嘘をついているのでなければ、アンサーゲームをクリアすれば、自分たちはこの檻から出ることになっている。どこから出すつもりなのか。
 所属していた営業部第一課が主に取り扱っているのは、石油や天然ガス、石炭などエネルギー関係で、仕事柄コンテナの類は何度も見たことがあった。構造にもよるが、ある一面全部が開くタイプのものも多い。壁そのものがドアの役割を果たしているということだ。
 だから、四つの面については、特に念入りに調べていた。構造上、そこには必ず隙間がなければならない。完全に密着していれば、壁にしてもドアにしても、開閉できないからだ。
 だが、何度確かめてもそこに隙間はなかった。どうなってると腹立ち紛れに壁を蹴ったが、つま先を痛めただけだった。
 モニターに目を向けると、9:59となっていた。残り時間十分を切っている。ドアを調べるのは後にしよう、と毅は椅子に腰を下ろした。
『最初のデートはどこでしたか?』
 畜生、と口の中で毒づいた。犯人たちの狡猾さがよくわかった。
 簡単なクエスチョンだ、と誰もが思うだろう。酒の席で友人たちからそんな質問をされたら、二人ともあっさり答えるだろうし、回答が同じになるのは間違いない。
 だが、置かれている状況が違う。今の自分たちは、物事を普通には考えられない。それだけ異常なシチュエーションの中にいる。
 ピエロたち犯人の狙いはそこにあるのだろう。精神的なプレッシャーをかけ、混乱させ、簡単に出せる答えを別の方向にねじ曲げようとしている。
 根底にあるのは悪意だ。間違いない。憎悪と言ってもいい。
 これほど自分に強い敵意を持つ人間に、心当たりはなかった。小学生の頃から大学卒業まで、クラスの中心的な存在だったし、トップとは言わないが、そこそこ人気があったと自負している。
 友人も多かったし、交際範囲も広かった。世の中に、そういう人間を妬む者がいるとわかっていたから、付き合いにはバランスを取ることを心がけた。
 もちろん、誰かをいじめたこともなかった。そういうことは嫌いだったし、そんなことをする理由も必要もなかった。
 会社に入ってからもそれは変わらなかった。サラリーマンの嫉妬は強烈だと知っていたから、スタンドプレーは絶対にせず、チームで成果を上げることを目指した。
 配属二年後、加わっていたプロジェクトチームが大きな取引をまとめた。難航していた交渉を打開したのは、自分のアイデアだった。
 それに対する評価は高かったが、ある種のビギナーズラックだと毅自身思っていたし、そういう側面があったのも事実だ。だから、調子に乗るようなこともなかったし、自分の手柄だと自慢したこともない。
 その後も与えられた仕事を順調にこなし、困難な場合でも熱心に取り組んできた。それは努力であり、贔屓されているとか、運がいい男だというのはお門違いだろう。
 本社には千人の社員がいる。全員に好かれているとは思っていないし、嫌っている者もいるかもしれない。
 だが、ここまで強く憎悪を胸に秘めている者などいるだろうか。考えられなかった。
 それは里美も同じだ。父親は都銀の支店長、母親は教師で、裕福な家庭に育ち、容姿にも恵まれていた。
 箱入り娘のお嬢様育ちで、それが気に入らないという者もいるだろう。だが、里美が人間関係を上手にコントロールできることを、毅は知っていた。
 フレンドリーで、誰に対しても優しく明るい態度で接する里美には友人も多く、男女の区別なく年上の社員から可愛がられていた。どういう意味合いであっても、敵視する者などいないだろう。
 あえて欠点を挙げれば、里美の入社が縁故採用だったことだ。それを不快に思う者もいるだろうが、コネ入社があるのは永和だけのことではないだろう。
 そんな二人が結婚した。美男美女のカップルと噂され、面と向かってからかわれたこともあるが、うまくかわしてきたつもりだ。
 舌打ちする者ぐらいはいただろうが、これほど明確に敵意を持つ者がいればさすがに気づいただろう。思い当たる節はなかった。
 タイムリミットが五分を切っていた。今は問題に集中しよう。まだ時間はある。考えるのは後でもできる。
 初デートとは何を指すのか。それは自分と里美の認識の問題だとわかっていた。
〝今日はデートだよ〟とお互いに意志を確認してからデートするカップルは、めったにいないだろう。言わず語らずで通じ合う何かがあれば、それこそがデートだ。
 自分のことは考えるな、と毅は頭を振った。初めて二人で食事をしたのは、仕事帰りにイタリアンの店へ行った時で、自分としては里美に好意を持っていたが、二人になったのは、私用があった島崎杏が先に帰ったためで、意図していたわけではなかった。
 あの時は食事をしただけで別れたが、結婚が決まった後で、もっと早く付き合えたのに、と里美が言ったことがあった。
「もう一軒行こうって、誘ってくれると思ってたのに、何も言ってくれなかった。すごい寂しかったんだから」
 だったらそっちが誘えばよかったじゃないかと言うと、オンナゴコロって微妙なんだよと笑っていたが、つまり里美にもデートという気持ちがあったということなのだろうか。
 モニターの数字が2:40になっていた。集中しろ、と毅は自分の頬を張った。
 その後、七月に営業部全体の飲み会があった時、帰る途中に映画に行かないかと誘った。毅としてはデートの誘いだったし、里美もそれはわかっていたはずだ。
 二人で渋谷へ映画を観に行った。普通に考えれば、あれが最初のデートだ。
 ただ、あの時は急な出張を命じられて、映画館を出た後すぐ羽田空港へ向かわなければならなかった。話す時間もほとんどなかったし、里美には言わなかったが、予約していた店もキャンセルしていた。あれをデートと考えていいのだろうか。
 出張から戻ってしばらく経ってから、二人で飲まないかと改めて誘い、休日に美術館へ行き、スペイン風のバルで終電近くまで飲み、里美の自宅がある千駄ケ谷まで送った。本当の意味でのデートとは、あの時を指すのかもしれない。
 残り時間一分です、とピエロの声がした。自分のことはいい、と毅はフリップを見つめた。問題は里美がどう考えているかだ。
 二人で食事をしたことがある。二人で映画を観に行ったことがある。美術館に行き、バルで一緒の時間を過ごしたことがある。里美はどれを初めてのデートと考えているのか。
 判断がつかないまま、マジックペンを握った。10、9、8とカウントダウンが続いている。
 歯を食いしばるようにして、毅はフリップに回答を書き殴った。
(第5回へつづく)

バックナンバー

五十嵐 貴久Takahisa Igarashi

1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2001年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞しデビュー。以降、ミステリーや警察小説、青春小説、恋愛小説など、幅広いジャンルで話題作を発表する。07年『シャーロック・ホームズと賢者の石』で第30回日本シャーロック・ホームズ賞を受賞。08年『相棒』で第14回中山義秀文学賞候補、11年『サウンド・オブ・サイレンス』で第28回坪田譲治文学賞候補。著書多数。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop