双葉社web文芸マガジン[カラフル]

アンサーゲーム / 五十嵐貴久・著

©️ノグチユミコ

第15回


 馬鹿じゃないのか、と毅は吐き捨てた。
 これほど無意味な質問はない。結婚を決めてから浮気をしたことがありますかというのは、プロポーズをした後と考えていい。厳密に言えば、正式に婚約を交わしてからということになるかもしれないが、それはどちらでもいいだろう。
 このアンサーゲームが始まってから四つめのクエスチョンは『わたしは浮気をしたことがある』だった。イエスかノーで答える二択の問題だ。
 今考えると、解釈の余地がある。無意識のうちに、里美と交際を始めてからという意味だと受け取っていたが、あのクエスチョンはそこまで限定されたものではなかった。過去を振り返って、いわゆる浮気をしたことがあるか、というようにも考えられる。
 だが、このナインスクエスチョンは『結婚を決めてから』という条件がついている。事実がどうであれ、そんなものは関係ない。回答はノーだ。
 もしおれが、あるいは里美が、結婚すると決めた後に浮気をしていたとしても、認めるわけがない。このナインスクエスチョンについては、解釈をする必要もない。フリップに〝ノー〟あるいは〝いいえ〟と書けばそれで終わりだ。ピエロたちには、そんなこともわからないのか。
 浮気とは何を指すのか、それは個人によって考え方が違う。
 夢の中で自分の彼氏が他の女と楽しそうに喋っていたというだけで、一日中責め立てた女を知っている。笑い話のようだが本当だ。自分の夢の話なのに、何で浮気をしたのかと彼氏に詰め寄ったのだ。
 これは極端な例だが、独占欲の強い者は男でも女でも一定数存在する。そういうタイプの人間は、自分の恋人が異性と話していただけで、あるいはテレビドラマに出ている役者に向けて、きれいだなとか、カッコイイねとか言っただけで、浮気だと怒り出すことがあるかもしれない。
 もちろん、異性と二人だけでお茶を飲むことなど絶対許さないし、立ち話をしているだけでも激怒するだろう。私的なメール、LINE、電話などでのやり取りも厳禁となる。それは浮気だ、と彼ら彼女らは断言するはずだ。
 だが、全体的に見れば、それは少数派と言っていい。学生ならともかく、社会人になれば仕事の相手が異性であることも珍しくない。
 連絡を取ったり打ち合わせをしたり、場合によっては食事を共にしたり酒を飲みに行くこともあるだろう。それは仕事の一環だ。
 おれも里美も、その常識を身につけている、と毅はうなずいた。
 里美が他社の男性と二人で打ち合わせをしていても、おれは何とも思わない。ましてや、浮気だなどと考えるはずもない。仕事を進めていく上で必要な手順だとわかっているからだ。
 それは里美も同じで、おれが社内、あるいは他社の女性社員と楽しそうに話していても、二人で笑いながらお茶を飲んでいたとしても、当然のことだと理解してくれるはずだ。
 仕事にはコミュニケーションが必要で、会話や笑顔もそれに含まれる。苦虫を噛み潰したような顔で、はいといいえしか言わない相手と、誰が仕事をしたいと思うだろうか。
 現実の話をすれば、おれは婚約した後に、里美が昔の男とホテルへ行ったことや、秘書課長の東山と短い間だがそれまでの不倫関係を継続させていたことを知っている。
 直接見たわけではないし、里美が不審な行動を取っていたわけでもない。だが、噂は聞いていたし、前から東山とのことは薄々わかっていた。
 責めるつもりはない。なぜなら、おれも別の女と関係を持っていたからだ。おれに里美のことを非難する資格はない。
 東山との関係は、その後終わっている。婚約した後、一度や二度奴と寝たからといって、文句を言うつもりはない。
 里美もおれと先輩の妻、奈々とのことは感づいていたかもしれないが、あれはお互い割り切った関係だった。だから許されるという話ではないが、それは里美と東山も似たようなものだろう。言ってみればフィティフィフティだ。
 だが、もう一人いる。そして、あの女こそ、絶対に口外できない相手だった。
 一度だけの関係だし、二人とも酔っていた。事を済ませた後、ラブホテルを出て別れた。だが、それでは済まない問題があった。
 里美はあの女のことに気づいているだろうか。そんな素振りは見せなかったが、もしかしたらわざと見逃しているのかもしれない。
 相手が相手だ。道義的にも法律的にも、してはならないことをおれはした。
 もし里美が気づいていたとしても、言えばおれは破滅する。だから、決して言わない。だから言うはずがない。だからイエスとはフリップに書けない。畜生。畜生畜生畜生畜生畜生。
 何であんなことをしたんだ、と毅は両手で混乱する頭を抱えた。
 ノーと書くしかない、と里美はモニターを見つめた。
『あなたは結婚を決めてから、浮気をしたことがありますか?』
 そんな質問に、イエスと答えることはできない。それは毅も同じだ。アンサーゲームの正解は事実と関係ない。
 二人の回答がマッチングするか否かがすべてで、どちらかが浮気をしていたとしても、それを考える必要はない。
 考えていたのは別のことだ。毅と話さなければならない。しかも、できるだけ早く。
 エイスクエスチョンの際、ヒントと称してピエロが見せた映像のことが頭から離れなかった。
 ピエロたちが監視していたのは、あたしだけではなく、毅の行動も追っていた。毅の過去についても調べたのだろう。
 自分と友人たちのグループLINEの一部が流出していること、そして毅が友人との電話であたしのことを笑っていたこと。両方の映像を見せたが、それはピエロの誘導によるものだった、と気づいていた。
 あたしのグループLINEは編集され、前後が切り取られていた。あの後、あたしは全部冗談だとLINEでみんなに伝えている。毅のことを誰よりも愛し、信じていると書いたが、その部分はすべてカットされていた。
 毅があのLINEを見れば、誤解するのは当然で、それこそがピエロの狙いなのだろう。毅と友人との電話も同じだ。男の人同士の会話の中で、自分の恋人についてわざと下げて話すのは、ある種の謙遜だし、ポーズでもある。
 きっと、あの電話の映像にも、続きがあったのだろう。そうは言ってもいい子なんだとか、そんな感じで話を終わらせるのがマナーだからだ。
 でも、ピエロたちはその部分を意図的に削除した。狙いはひとつしかない。あたしと毅の間に不信感を植え付けようとしている。
 このまま放っておけば、ピエロたちの思い通りになってしまう。それを防ぐためには、二人で話して誤解を解くしかない。
 あたしのディスカッション要請を毅は拒否した。ナインスクエスチョンの後にするべきだと考えたようだ。
 冷静になって考えると、毅が正しい。まだクエスチョンは二つ残っている。ディスカッションのチャンスは一度だけだ。
 最後の問題が何であれ、その直前に意思統一するべきだ、というのはその通りだろう。
 そして、ナインスクエスチョンは事実がどうであれ、ノーと答えるしかない問題だった。毅との結婚を決めてから、一度だけ東山と寝たが、そんなことはどうでもいい。毅がしたことを考えれば、罪は軽い方だろう。
 モニターに目をやると、残り時間は十二分を切っていた。
 里美はフリップを取り上げて、浮気なんかするはずない、と書いた。
 里美と婚約し、結納をしたひと月後、大学のサークルの友人たちと飲み会をした。
 結婚することになったと伝えていたから、その祝いでもあったし、バチェラーパーティーという意味もあった。
 男だけで羽を伸ばし、羽目を外す。そんな夜があってもいいだろう。
 金曜日の夜で、全員が酔っ払っていた。男だけだったから、遠慮も何もない。
 二軒飲み屋をハシゴし、カラオケで二時間ほど歌っているうちに、誰かがクラブへ行こうと提案した。
 大学の頃は週に一、二度通っていたが、社会人になってからはその機会もなくなっていた。あの時、おれたちはセンチメンタルでノスタルジックな感情を共有していた。
 サークルの部長だったおれが結婚してしまえば、ますます青春が遠ざかっていく。そんな感傷があった。
 だから、全員で昔よく通っていた六本木のクラブへ行き、音楽に体を預けて踊った。誰かが三人組の二十歳の女子大生をナンパして、一緒に飲むことになった。
 そこまでは記憶もあるが、その後のことはよく覚えていない。気がつくと、少し茶色が入ったロングヘアの女の子と二人きりになっていた。
 そこからは成り行きに身を任せるしかなかった。色っぽい雰囲気で、ルックスが好みだったこともあったし、酔っ払っていたのも本当だ。クラブを出て、二人で芋洗坂にあるラブホテルに入り、関係を持った。
 おれの中に里美に対する罪悪感があったが、こんなことはもう二度とできないという気持ちもあった。
 永和商事に勤務しているエリートサラリーマンが、クラブでナンパした二十歳の女子大生と寝るなんて、結婚してしまえばできるはずがない。
 自分を正当化するわけではないが、男なら誰でも似たような感情を持つことがあるだろう。こんなことをするのは、今日で最後だという思いがあった。
 深夜一時を廻った時、女が家に帰ると言った。泊まっていけばいいじゃないかと言ったおれに、ムリだって、と笑いながら女がシャワーを浴びるためバスルームに入っていった。
 何となく女の笑い方が気になり、バッグを探ると学生証が出てきた。渋谷聖恵女子学院、二年A組、川合秋江とそこに記されていた。
 高校生だとわかった瞬間、冷や汗が全身を伝った。高校二年生ということは、十六歳、もしくは十七歳で、どちらにしても未成年だ。おれがしたことは、明らかな淫行だった。
 そして、川合という名字にも覚えがあった。永和商事の副社長は川合政雄、名門渋谷聖恵女子学院に娘が通っていると何度も酒の席で聞いていた。おれが抱いた女は、副社長が溺愛している高校生の娘だったのだ。
 すぐに背広の襟につけていた永和のバッジを外した。こんなことが副社長の耳に入ったらどうなるか。
 二十歳の女子大生と本人が言っていたし、どこから見てもそうとしか思えなかったと弁解しても、通るはずがない。社会的制裁を受けることは間違いなかったし、川合副社長がどんな報復をするかを想像するだけで、全身の血が凍りつくようだった。
 好々爺然としてはいるが、川合副社長は三協銀行から送り込まれた筋金入りのコストカッターだ。子会社への出向や、地方に飛ばすぐらい平気でやるだろう。
 川合副社長が役員である里美の叔父に話す可能性もある。里美への不実を責められ、婚約は破棄され、社内の誰もがおれを見放すだろう。
 おれの味方になって、得することは何もない。どういう意味合いであれ、社会人としての樋口毅は終わる。
 最悪なのは、秋江がおれのことを永和の社員だとわかっていたことだ。口にはしなかったが、永和の人なんだ、と顔に書いてあった。
 名前は言っていないし、秋江もおれのことを両親に話すはずがない。女子高生がクラブに通っていること自体、親や学校に知れたら大問題になる。
 もっと言えば、秋江は過去に何人、何十人の男と寝ているはずだ。お嬢様学校の聖恵女子学院の生徒とは思えないほど、彼女はすべてに慣れていた。
 お互い黙っているしかないし、実際におれも秋江もひと言も誰にも話していない。もし、あの一夜のことが漏れていたら、結婚式どころではなかっただろう。
 二人とも沈黙を守り、おれは里美と結婚した。だが、心のどこかに小さな棘が刺さったままになっていた。
 そこまで考えて、毅は顔を両手で覆った。
 ピエロ、そしてそのバックにいる連中は、おれの行動を監視していた。盗聴、盗撮はもちろん、尾行もしていただろう。おれがどこで何をしていたか、奴らは把握している。
 川合秋江とのことも、知っているだろう。そして、それを里美に伝えていたとしたらどうなるか。
「残り時間、三分です」
 ピエロの甲高い声がした。モニターの数字が刻々と変わっている。 
 気がつくと毅は泣いていた。どうすればいいのかわからなかった。
 タイムアップ、とモニターのピエロが陽気に宣言した。
「いかがでしょう、回答は書き終えていますね? フリップは伏せたまま、モニターにご注目ください」
 待って、と里美は片手を上げた。
「もし、このクエスチョンがミスマッチだったらどうなるの?」
 ゲームオーバーとなります、とピエロが答えた。そういう意味じゃなくて、と里美は首を振った。
「そんなことはわかってる。ゲームオーバーになったらどうなるのか、それを聞いてるの」
 すべて終了です、とピエロが恭しくお辞儀をした。
「あなたたちお二人に与えられるのは罰ゲームで、それ以外何もありません。シンプルな罰ゲームですので、あえて説明する必要もないでしょう。ひとつ付け加えれば、そういうネガティブな考え方はよろしくない、とわたしは思います」
「ネガティブ?」
 ゲームに勝つことだけを考えていればよろしいのです、とピエロが微笑んだ。
「負けたらどうしようと考えれば、かえって悪い結果を招くことになるのが世の常です」
 それではお互いにフリップをオープンしてください、とピエロが両手を開いた。里美はゆっくりフリップをモニターに向けた。
「ナイスマッチング!」安っぽいファンファーレと共に、ピエロの声が響いた。「素晴らしい、お二人とも結婚を決めてから浮気はしていない、そういうことですね。もちろん、当然のことではあります。お互いに結婚の意思を固めた以上、式を挙げていなくても夫婦と同じですから、他の異性と関係を持つことはモラル的にも許されません。とはいえ、こういうご時世です。嘆かわしいことですが現実には――」
 お願いだから黙って、と里美はフリップを床に放った。
「これで九問目が終わったということね? クエスチョンはあと一つ、それをクリアすればここを出ることができる。それでいいのね?」
 おっしゃる通りです、とピエロが大きくうなずいた。
「もちろん豪華賞品、そして合わせて二千万円の賞金もあなた方のものとなります。ぜひファイナルクエスチョンをクリアしていただきたいと、わたしは心から願っております」
 その前にディスカッションを、と里美はボタンを押した。賢明な判断です、とピエロがまたうなずいた。
「ファイナルクエスチョン出題後でも、ディスカッションの権利は行使できますが、具体的な回答を相談したと判断された場合、こちらは問題を変更します」ゲームにおける当然のルールでしょう、とピエロが先を続けた。「つまり、今の時点でディスカッションするしかないのです。言ってみれば、作戦会議ということになりますでしょうか。それは樋口様も理解されているようです。たった今、ディスカッションの申請がありました」
 既に説明済みですが、とピエロが空咳をした。
「ラストのディスカッションは三分間です。今までは三十秒でしたが、その六倍の時間を与えます。スペシャルサービスとは、まさにこのことではないでしょうか」
 三分、と里美はモニターに目を向けた。三分あれば、お互いが持っている情報を伝え合い、意思の統一を図ることができるだろう。
 冷静に、と里美は奥歯を噛み締めた。感情的になってはならない。一秒たりとも無駄にはできない。
 三分間、百八十秒ですべてを話し合い、ファイナルクエスチョンをクリアする。それしかない。
 ディスカッションタイムを始めてもよろしいでしょうか、とピエロが声をかけた。
「それとも、考えをまとめるための時間をお取りになりますか? 長くは待てませんが、数分ということでしたら、許容範囲内ですが」
 樋口様はスタンバイに入っておられます、と言ったピエロの声と同時に、モニターが左右に二分割され、右側に毅の顔が映し出された。正面を向いている。表情は固かったが、目に迷いはなかった。
 二分、と里美は言った。
「二分後、ディスカッションを始めると彼に伝えて」
 了解致しました、とピエロが答えた。モニターに2:00という数字が浮かんだ。
(第16回へつづく)

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五十嵐 貴久Takahisa Igarashi

1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2001年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞しデビュー。以降、ミステリーや警察小説、青春小説、恋愛小説など、幅広いジャンルで話題作を発表する。07年『シャーロック・ホームズと賢者の石』で第30回日本シャーロック・ホームズ賞を受賞。08年『相棒』で第14回中山義秀文学賞候補、11年『サウンド・オブ・サイレンス』で第28回坪田譲治文学賞候補。著書多数。

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