双葉社web文芸マガジン[カラフル]

未来職安 / 柞刈湯葉・著

イラスト/座二郎

第9回

5章 未来雇用(前編)



 時計がなくても朝は来る。でも時計を見るまで信じない。
 カーテンの隙間から漏れてくる光は明らかに早朝のそれではない……というか、なんだか方向がおかしい。ふつう太陽光というものは上から来るはずで、こんな全方位からしみ入ってくるような太陽はわたしの住んでる惑星には存在しないはず。つまりこの状況から判断されることはひとつ。通勤すべき職場のあるわたしにとって、ちょっと不都合な事実だ。
 羽毛布団をかぶったまま起き上がり、カーテンの隙間から外を覗くと、世界は上から下まで真っ白だった。雪です。
 わー素敵、とわたしは半目でつぶやく。窓のサッシに寝癖が映る。
 雪はまあまあ降る街だけど、一晩でこんなに積もるのはちょっと珍しい。CO₂排出量が減りはじめてからずいぶん経ったので、地球がちょっとずつ冷えてきてるとニュースでよく見る。
 夜の間に歩道除雪車がちゃんと動いていたらしく、道路にはカンナで削ったような道ができていた。露出したアスファルトの真ん中には黄色の点字ブロック。子供たちがその脇で雪を投げて遊んでいる。足元に掴める雪がなくなると、車道まで乗り出して雪を拾い出そうとするので見ていてヒヤヒヤする。いくら技術が進歩しても氷は滑るんだよ君たち。
 雪で喜ぶのは犬と子供だと相場が決まっているけど、今時の犬猫は機械式なのであまり雪が好きではないらしい。関節の防水がちゃんとしていない安物もある。雪好きは人の子の専売特許になってしまった。
 子供は災害が好きだ。言い方は悪いけどそれは間違いない。わたしが子供の頃も、大雪でも台風や雷でもみんな大喜びした。ただ地震だけは例外で、学校で大きな揺れが起きるとみんな出来るだけ感情を押し殺したような顔をしていた。ここで盛り上がったりすると全校集会が開かれて「お爺さんやお婆さんが怒るから喜んではいけません」と先生に指導されるからだ。
 教科システムではなく人間の先生がわざわざ言うのだから、それが重要な事だというのは皆が理解していた。高齢者は「地震で人が死ぬ時代」を覚えているのだ。
 でも、そう言われるとかえって喜びたくなるのが子供の性でもある。わたしも家で弟と二人でいるときに地震があると、「3だよ」「4でしょ」とニュース速報に出る数字を予想していた。大きな災害が自分たちのあまり大した事はない日常からどこか別のところへ運んでくれる事を期待していたのかもしれない。
 大人はそうでもない。少なくとも生産者をやってるとそうはならない。できるかぎり現状の日常が続いてくれる事を祈っている。わたしも(現時点では)そう願っている。そう願えるのはきっと幸せな人生。

 空き家の庭の雑草みたいに四方八方に伸びた寝癖に蒸しタオルをあてて、朝支度をしながらテレビを見ると、今日もまた基本金の不正受給問題をやっていた。県内だけで数百件という。
 秋の政権交代以来、すごい勢いで基本金の不正受給がニュースを賑わせるようになった。生きている限り誰でも貰えるお金でどうして不正受給があるんだろう、なんて思っていたわたしは想像力がだいぶ足りなかったらしい。
 不正受給の問題で最初にわっと出てきたのが、
「既に死亡した人物が生きていると偽り基本金を受給」
 というものだった。これはまあ分かる。家族が死んでワタワタしている時に、収入の減る手続きを後回しにしてしまう事は普通にあるだろう。
「生活拠点をオランダに置きつつそれを報告せずに、日本とオランダの基本金を二重受給していた疑い」
 これも分かる。基本金の受給基準は「日本国籍を持ち生活拠点を日本におく者」なんだそうだけど、生活拠点ってなんか意味がよく分からないし、役所に細かい生活事情を報告するのって面倒なので、たいして罪の意識がなくてもやっちゃう気がする。
「ひとりの子供を双子と偽って基本金を二人分受給」
 これはちょっと分からない。というかかなり病気っぽい。怖い。
 報道によると、DNAは双子なので問題ないとして、指紋などの生体データを右手と左手を使い分けてクリアしたらしい。そこまでやるのか、というのと、そんなんで通るシステムなのか、という驚きが半分ずつ。まあ3人家族で4人分の基本金が貰えれば収入が3割増しなので、思いついたらやっちゃうんだろう。コメント欄の方で「小学校に入ったらバレるだろ」「それまでに使っちまえば返済能力なしで済む」といった事が書かれている。
 基本金の不正受給は財政に負担をかけるので、納税者たる生産者としてはもちろん迷惑だ。でも、わたしの見ている限りだと、怒ってるのはむしろ消費者の方だ。自分たちが正規の金額だけで我慢してるのに、一部のやつらがズルをして多めに受給するなんて許せない、と。
 人口の99%は消費者なので、消費者の支持が集まれば選挙は通る。というわけで、この秋に26年ぶりの政権交代を果たした新政権が、公約に掲げた不正受給の問題に切り出したわけだった。
 一月ほど前にわたしの家にもヒョウタン型の警察(かわいい)が現れて、
「この家にお住まいの方は目黒奈津めぐろなつさんですね。基本金受給のための生体データの認証をお願いします」
 とわたしの顔写真とか指紋とかDNAサンプルを採っていった事がある。国がそういう検査に本腰を入れたことは知っていたし、一人暮らしで慎ましく一人分の基本金を貰っているわたしに一抹の不正要素もなかったので、何も疑わずにホイホイとサンプルを渡した。その翌日に、
「東京都で警察を名乗り生体認証データを採取していた業者を詐欺容疑で逮捕」
 というニュースが流れたのでお茶を吹きこぼしそうになった。大慌てで市役所に連絡すると、県内でそのような詐欺は報告されていない、市役所にあなたのデータはきちんと届いている、という事が確認できたので一安心。
 大塚さんはああいう警察機械にきちんと対応できるんだろうか。偽物が来ても困るだろうけど、本物の電源を切って公務執行妨害になるほうが心配になる。

 スエードの冬靴がキュッキュと濡れた地面に音をたてながら、モーゼよろしく雪を割った道を歩いて職安までたどり着くと、わたしが来る時間を予測して動き出したヒーターが部屋を温めていた。温度差でちょっとクラッとする。
 所長(生猫。茶トラのスコティッシュ・フォールド、オス三歳)がヒーターの前でムササビを裏返したような格好で寝そべって、「猫はこたつで丸くなる」という作詞者の期待をおもいっきり裏切っている。「植物の葉は光を受ける面積をできるだけ広くするように成長します」という教科システムの記述を思い出す。
 大塚さんが来るまで暇なのでテレビニュースを見る。応接用のテーブルの上に置かれた大きめのテレビで、わたしと大塚さんのどちらのデスクからでも見えるようになっている。
「東日本と西日本の広い範囲で初雪」
 というニュースをやっている。全部じゃん、とツッコミをする相手もいないので黙って見る。
「不正受給特集:海外にもあるの? 基本金不正受給。こちらをフォーカス」
 と画面の隅のウィンドウに書かれているので、そこをじっと見ると画面が変わる。
「二重人格を主張する男性が両方への基本金支払いを求めて州を提訴」
「肉体は死亡したが、ネット上の仮想人格がまだ SNS で活動している」
 ずっと見てるとなんだか「人間とは何か、生きるとは何なのか」と妙に哲学的な気持ちになってくる。
「生猫にも生命の尊厳があり人間同様に基本金受給の権利があると主張」
 あー、所長にも基本金が受給されたらうちとしてはとても助かる。ただ、そうなったら街中が生猫であふれるだろう。
 そんな関連ニュースをだらだらと見ているとようやく大塚さんが現れる。
「おはよう、目黒。今日も寒いな」
 いつもの派手なスーツの上にロングコートと赤いマフラーをしている。肩のあたりに溶けかけた雪がちらちらと光っている。
「大塚さんって雪とか好きですか」
「日本の雪はちょっと困るな。多すぎる」
 と言って壁のハンガーを手にしようとして、ヒーターの前で干物になっている所長をみつけて、黙って3秒くらい見下ろしたあとコートかけを再開する。
 窓の外を見ると、出勤時は止んでいた雪がまたしんしんと降り出している。風はないので、窓枠の縦方向に沿って正しくしんしんと降りてくる。
「今日は誰も来ないかもな。寒いし」
「ですよね。雪ですし」
 と無内容な会話をする。
 職安に来る人というのは色々なタイプがいるけれど、切羽詰まっている人というのはそんなにいない。雪の日にわざわざ来る施設ではない。借金を抱えて返済期限が迫ってる人はいるのかもしれないけど、消費者にはそもそも貸してくれる人があまりいない。昔は「消費者金融」または「サラリーマン金融」というものがあったらしいけど、この2つが同じものを指すというのがイマイチ理解できない。サラリーマンは生産者じゃないのかな。
 誰も来ないほうが楽でいいんだけど、あまりに誰も来ないとこの職安に収入が入らず、ひいてはわたしの給料が入らなくなってしまう。
 この職安は書類上は大塚さんが「雇用主」でわたしが「従業員」という形になっているので、大塚さんはわたしに最低賃金を払わなければならない。といっても最低賃金を払えるほどの利益が発生することはほとんどないし、そもそも最低賃金自体が数十年前に改訂されたきりなので、今の物価からみると高すぎる。
 というわけで、職安の利益はわたしと大塚さん(あと所長)の2人+1匹で分け合う仕組みになっており、わたしが貰いすぎた分は「自主返納」するという決まりになっている。わたしが決めているわけではないけど「自主返納」である。
「おい目黒。暇だから、今日どんな客が来るか当てるゲームでもするか」
 と大塚さんが欠伸交じりの声で言う。温度差のせいか眠そうだ。
「午後に20%、と書いてありますね」
 と端末に表示された予想値を読み上げた。ノリが悪い。
「それ、どういうやつが来るのかまで予想できないのか?」
「そういうのは無理みたいですね」
「プライバシー条項か」
「天気その他のデータを用いて統計的に出してるだけなんで、そもそも人数以外のことが分からないのかもしれません」
「ふーむ」
 といって大塚さんは窓の外を見た。雪はさっきよりも激しさを増しているように感じる。荷物を持った渡し鳥がすーっと白い空を飛んでいくのが見えた。太陽が出ていないから充電が大変そうだ。
「じゃ、おれは子供が来ると見た」
「職安に子供が来てどうするんですか」
「さっきから外歩いてるのが子供しかいないからな。となれば職安に来るのも子供だろう」
「そんなコンビニ感覚で来る店じゃないでしょう」
「なるほど、それは一つのアイデアだな。コンビニ感覚で行ける職安。よさそうじゃないか」
「4階というのがネックですね」
 このビルの1階はデイケアロボの駐屯所になっていて、介護が必要だけど自前の介護機械を置けないお年寄りのところに向かっていく。デイケアロボの稼働率がずいぶん高い事は見ているだけでわかる。ちょっと前までは高齢者は貯金やら退職金やらを使って自前のロボを所有する事が多かったんだけど、最近の高齢者はずっと消費者だった人が結構いるので、レンタルを頼む事が多い。

 そんな無駄話をしていたら、端末に来客のサイン。
「すみません」
 と入口ドアのカメラの向こうに顔が映る。本当に子供が来た。男の子だ。
 というのはちょっと言い過ぎた。ドアが開いて入ってきたのは、ギリギリ少年と言っていい歳だろうか。背丈はわたしよりも高いし、肩幅もちゃんとある。顔にあどけなさが残っているので、カメラで見ると子供に見えたのだ。うちの弟よりも少し年下だろうか。顔立ちもちょっと弟に似ている。
「あの、ここに来れば仕事を探してくれると聞いたのですが」
 彼がそう言うと、大塚さんは椅子からおりて立ち上がり、業務用の笑顔を見せる。
「その通りですよ。うちは職安ですので。失礼ですが、お幾つでしょうか?」
「17歳です。高2です」
「17歳ですか。実は、未成年に職業を仲介すると法律上の問題が少々ありましてね。実際に仲介できるのは18歳になってからという形になるでしょうが、それでも宜しいでしょうか?」
 というと、少年は少しがっかりしたような顔をしたあと、
「あ、はい、でも春には18歳になりますし、卒業してからの話になると思いますので、それで大丈夫だと思います」
「わかりました。ではお話を伺いましょう」
 と大塚さんは言った。未成年にもきちんと敬語を使うのがちょっと可笑しい。

「勉強をする意味がよく分からなくなったんです」
 と職探し少年、渋谷しぶたにくんは言った。
 もうすぐ高校卒業で受験を控えているのだけれど、自分の成績では「職訓」くらいしか行けそうにない。それだったら今の段階で就職先を探したほうがいいんじゃないか、と思ってネットで調べると、世の中に職安というものがあることを知った。ほかは大体ネット上の対応だったけれど、ここは実物の事務所があると聞いて興味を持って来た。という事だった。
 職業につける可能性がほぼ無いけど「職業訓練大学」、略して職訓。これはわたしの「自主返納」と並ぶフシギ日本語のひとつだ。
「なるほど。たしかに今どき職訓に行くよりも、若さと特技を活かして仕事を始める方がいいかもしれませんね」
 と大塚さんは頷いた。渋谷くんは大塚さんに事情を説明しながらも、ちらちらとヒーターの方を見ていた。そこに広がっている熱風を受けている謎の生物(所長)が気になって仕方ないようだった。
「では、何か得意なことはありますか」
 と大塚さんが尋ねると、
「計算が得意です」
 と渋谷くんは自信ありげに答えた。あまりに子供らしい答えにちょっと笑いそうになった。小学校のクラスにひとりはいた気がする。暗算がものすごく得意な男子。円周率を100桁言えるとか、地下鉄の駅の名前を全部言えるとか、そういうのが好きな子が必ずいた。なんでか知らないけど大体男子だった。
「どのくらい得意なんですか?」
「かなりすごいと思いますよ」
 と少年らしい笑顔で言うので、実際に見せてもらうことにした。
 端末で教科システムの一般公開版にアクセスし「計算練習」のページを開く。官製らしい古びたページデザイン。トップページの謎の動物キャラクターを見ると懐かしさが溢れ出してくる。わたしも受験の頃に何度もアクセスしたものだ。
「はい、それじゃスタート」
 とわたしが言う。
「42×27」
 と画面に表示されるやいなや、渋谷くんは「たたたっ」とテンキーを叩く。
「1134」
 という数字が入力欄に現れた。「正解」の文字が出る。
「619×128」
 たたたたっ。
「79232」
「7の7乗は」
 少し手を止めてから、
「823543」
 と打ち込んだ。音がリズミカルで、聞いてて気持ちいいほどだ。
「ちょっとストップ」
 と大塚さんが言って、端末をわたしの手に渡した。
「目黒、読み上げてくれ」
「え? はい」
 すると渋谷くんが、
「書くものがないと無理です」
 というので、大塚さんは自分のデスクの上に載った紙とペンを渡す。
「えーと、3万9915 かける 9万7229」
 とわたしが読むと、渋谷くんはそれを紙に書き留めて、
「3880895535」
 と書き取る。どうやら数字を見ないと解けないらしい。
「44億410万2979 は何で割りきれる?」
 彼はその数字を紙に書いたあと、ちょっと空中を見るような目をして、
「51827, 84977」
 と紙に書いた。正解だ。大塚さんも感心したように頷いた。
「どうしてそんなにすぐ分かるの?」
 とわたしは話しかけた。相手が子供なのでなんだか敬語が出ない。弟に似てるし。
「頭の中でこう、碁石を並べるんです。それで、掛け算だったら縦に何個、横に何個って並べて、全部でいくつかを見るんです」
「44億個でも見えるの?」
「はい」
 と渋谷くんは当然のように頷いた。たぶんわたし達の考える「見る」とはだいぶ違う行為をしてるんだろう。
「学校の成績はいいの?」
「いえ。普通ですが」
 といって渋谷くんは自分の端末で、教科システムの成績表を見せてくれる。数学がちょっと良いけど他は、なるほど確かに「今のままでは職訓くらいしか行けそうにない」というかんじの成績だ。
「とはいえ、この計算力はちょっと外国でも見たことないクラスですね」
 と大塚さんは言った。さり気なく自分が海外事情にも精通している事をアピールしている。消費者が海外に行ける機会はまずないので、海外を知っている人に日本人は弱い。
「本当ですか!?」
 と渋谷くんは嬉しそうに言う。
「では、こちらでその能力を使った仕事を見繕っておきますので、今日のところはご挨拶という事で、もし興味があればまた来ていただけますでしょうか」
「そうですね。ありがとうございます」
 と渋谷くんはお礼を言って帰った。

「すごい子でしたね」
 とわたしは言うと、
「ああ。確かにすごいが」
 と大塚さんは言う。
「計算力じゃ仕事にはならないな」
「まあ、今ならホジョコンもありますもんね」
 とわたしは言った。テレビCMで見ただけで実際に使った事はないんだけど、頭の後ろに大きめのヘアバンドみたいな器具をつけると、計算内容を考えるだけで答えが聞こえてくるらしい。入出力にはちょっとした練習が必要らしいけど。個人で買うにはまだ高い。記憶力の外部化もできるので、業務で使う人は結構いるらしい。
「でも珍しいですね。大塚さんだったら、どんな特技でも何かこじつけの仕事を用意して紹介していたじゃないですか」
「もちろん案はあるぞ。計算能力はパッと見で伝わるし絵になるから、テレビに出れば人気者になれるだろう」
 なるほど、たしかに人気にはなりそうだ。見た目もかわいいし。
「で、ある程度知名度が出たら、次に教育界に行く」
「ああいう能力って、他人に教えられるようなもんなんですか?」
「無理だろうな。だが、何かの教材に名前を貸す事ができる。頭の悪い人間は、頭の良さといえば計算力か記憶力だと思ってるからな」
 なるほど、中学時代のわたしだったら買いそうだ。真面目に将来のための勉強に取り組み始めた頃のわたしは、ネットで怪しげな「画期的な勉強法」を色々と試してすべて失敗して、結局フユちゃんのように普通にこつこつ勉強するのが一番いいと気づいたものだ。
「ほとんど詐欺じゃないですか」
「ああ。だから高校生向けじゃない」
 大人ならいいのか。
 まあ確かに渋谷くんの成績を見ると、頑張れば(そして運が良ければ)わたしと同じ県庁の交通課くらいには入れそうな気がする。ああいう部署で「責任をとるための人間のストック」をやるためには、経歴が綺麗であることが求められる。ここで変な職安を経営する変な男の口車に乗せられてはよくない。
「ま、ああいう子供は単に勉強に悩んでるだけだろう。計算ができるのになんで成績が上がらないんだろう、教育が間違ってるんじゃないか、とか悩んでるんだろう。だったら、計算ができる事を肯定してやれば、後は適当に自分の道を見つけるだろうさ。本当にまた来たら相手してやるがな」
「来ないと思いますか」
「だろうな」
 時刻は15時。予報によると今日また依頼人が来る可能性はほぼゼロ。適当に時間をつぶそう。わたしは教科システムの計算練習コースを開いた。
「31×29」
 という数字が出てきたので、試しに横に29個、縦に31個の碁石を並べてみた。ほぼ正方形の形ができたけど、「いっぱいある」というイメージしか湧かなかった。
 ちょっとレベルを下げよう。
「22×7」
 縦の7個は正確にイメージできたけど横の22個が無理だった。真ん中のほうに靄がかかっている。
「大塚さん。22かける7っていくつだと思います?」
「え? 22かける7はだな……140と14だから154」
 ほー、と思って少しレベルを上げる。
「48かける61は」
「50かける60で、3000より少し小さい」
 答えを見ると2928とある。嫌なやつだ。渋谷くんくらい超越的だと頭の出来が違うんだと納得できるけど、大塚さんにこういう小技で解かれると、わたしが頭悪いみたいじゃないか。
「5の6乗は」
 というと、大塚さんは少し黙ったあと、
「もういいだろ。そんな事よりニュースでも見ようぜ」
 と言い出した。よし、と机の下でガッツポーズしてニュースをつける。ソファの上に置かれたテレビが映る。
「たびかさなる基本金の不正受給問題。内閣府は今後もこの問題について追及していきたいとしています」(ジャーン)
 と音声が流れる。ニュース音声はいつも人が喋っているように感情がこもっている。というより、演技が効きすぎて人間らしくない気がする。
「続いてのニュースです」
 といって字幕が出る。
「荻原政権、生産者の雇用問題についても大鉈」
 画面が切り替わり、首相の顔が映る。26年ぶりの政権交代を果たしたこの首相はまだ40代で、今世紀最年少らしい。ふっさりした綺麗な髪は毛根細胞施術を受けたものだと選挙中に話題になったけど、投票への影響はなかったらしい。有名人なら結構やってるし。
「不正な基本金受給を根絶することは、消費者の平等な権利を守るために必要なわけですが」
 とカメラに向かって首相が喋る。画面がパシャパシャと光って艶やかな髪にハイライトが入る。あれは昔写真を撮るために必要なものだったらしい。今でも演出としてやっている。
 首相というのはまだ人間の仕事だ。というか、多分これはいつまでも人間の仕事だと思う。SF映画みたいに最高権力者がコンピュータになるなんて事は国民が納得できないだろう。少なくとも形だけは、トップが人間であってほしいはずだ。
 ただ今回の首相は自分で仕事をしたがるタイプらしい。色々な問題に積極的に口出ししている。「親政だ」というコメントを時々見る。
「消費者のみならず、生産者の権利も守らねばならないと私は考えています。皆さんのよく知る大手企業が、支払った給料を自主返納させており、労働法を無視した雇用がまかり通っているのです」
 ……ん?
 とわたしは大塚さんを見る。
「つまり、給与を自主返納と称して返還させ、形式的な雇用形態を結ぶ事で経歴のロンダリングに使われ、また企業側の法人税対策に使用されているわけです。法律で定めた最低賃金が守られず……」
 待て待て。
 どういう事?
「こりゃまずいな、目黒」
 と大塚さんは言った。
「うちの事じゃないか」
「うちは勤務実態がちゃんとあるじゃないですか」
 とわたしは言った。だからこそわたしは、ちゃんと雇用契約書にあるとおりに朝9時に来ているのだ。
「だが自主返納はしているからな。やばいな。この首相はやると言ったことを本当に実行するタイプだな。適当にマニフェストに掲げて当選したら満足すりゃいいのに」
 と大塚さんは無表情で言った。いつもだったらピンチでも半分笑ってるのに。
「でも、わたしの自主返納は本当に自主じゃないですか」
 とわたしは言う。わたしに選択権があるわけじゃないんだけど、わたしに最低賃金を払ったら職安の経営が成り立たなくなってわたしが困るから返している、という意味では自主である。
「本人の意思ってのはアテにならないんだよ。そういうのが違法な労働形態の口実にされてきた歴史があるもんでな。昔は有給休暇だって任意だったんだぞ。知ってるか」
「いえ」
 有給休暇の存在は県庁時代から不思議に思っていた。なぜか年間数十日にわたって、県庁に立ち入りを禁止され、コンピュータにもアクセスできなくなる日があるのだ。
「あれは元々、好きな日を選んで年間20日くらい休んでいいよ、という制度だったんだよ。ところが、なぜか会社員が使おうとしない」
「みんな仕事が好きだったんですか?」
「いや、制度上は取れるんだが、会社の圧力で取れないようにしていたらしい。で、仕方ないから国が動いて、強制的に休ませる事にしたんだ。ところが、今度はなぜか、休みの日なのに自主的に会社に来る社員がいる。だから今度は会社の立ち入りを禁止にしたんだ。有給休暇の日は社員証が無効になって入り口を通れなくなり、無理やり入ったらセキュリティアラートが鳴るようにして、コンピュータのリモートログインも拒否しないといけない、というルールになったんだな」
 つまり、わたしがいくら自分のために自主返納をしていると言っても、国がそれを信じてくれず、わたしを不当に搾取されている労働者扱いしてしまう、という事らしい。判定するのは機械なので、そういうところの融通は利かない。
「じゃ、どうなるんですか? わたしの雇用は」
 と聞いたが、大塚さんは無表情のまま何も答えなかった。
(第10回へつづく)

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柞刈 湯葉Yuba Isukari

福島県出身。大学勤務の研究者。2016年『横浜駅SF』(カドカワBOOKS)で小説家デビュー。既刊に『重力アルケミック』(星海社FICTIONS)など。

個人サイト http://yubais.net/

Twitter @yubais

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