双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

第2章

【1】お母さんの病

 ポンパルでコーヒーを飲みながら、私は今日の名クロを読んでいた。
 店は相変わらず庶民的な客層を中心に混んでいる。
 ポンパルは昨年からメニューに組み込んだサンドイッチがお客さんの間で大ヒットした。今日だってまだ午後四時だというのに、あたりは老若男女を問わず、サンドイッチを食べている人だらけだ。
 コーヒーを含むと、名クロの記事に目を戻した。

〈伊勢湾台風から二年〉
 大型台風の発生から今日で二年が経過する。終戦後最大となった自然災害は死者・行方不明者合わせ五〇四一名の命を失う結果となった。うち、名古屋市内は一八五一名、家屋の被害はおよそ十二万戸。被災後、市内は三週間にわたり三分の一が水没、特に被害の大きかった南区や港区ではいまだ収容所生活を送る人も多い。今後、激甚災害によって奪われた尊い命を忘れないためにも、さらなる災害対策の強化が求められる。
昭和36年9月26日(火曜日)

 私と同じ高校に進学した久美ちゃんは、二年前の台風で港区に住む親戚を亡くしていた。当時私たちと同じ十四歳の子で、正月や夏休みになると久美ちゃんはその子といっしょに魚釣りをして遊んだのだという。台風から一週間ほどして町から水が引いたあと、被災した現場へ電車で向かうと、小さな白いひつぎがいくつも並んでいた。――久美ちゃんは怒りのやり場がわからないと洩らし、何度もハンケチで目を押さえていた。
 二年前の台風の際、富江さんの長屋はなんとか倒壊をまぬがれた。けれど屋根が剥がれたり、雨戸や窓が割れたせいで、家のなかに雨水が入り込み翌日以降は掃除と修繕がたいへんだった。そして大須中の各通りには、ガラスの破片とあらゆる瓦礫が散乱している状態だった。
 富江さんは前にも増して髪が白くなり身体も少し小さくなったように見える。大事に守ってきた長屋が被害を受け、精神的な負担が大きかったのだろう。
「碧ちゃん、十六歳の誕生日おめでとう」
 名クロ記者の神谷さんが前の席に座った。小さく頷くと「なんだ、元気ないな」と、彼はつまらなさそうに肩をすくめる。
「伊勢湾台風の日が自分の誕生日って、あんまり喜べなくて」
 伊勢湾台風の記事の横には、三年後の「東京オリンピック」に関する大きな記事が載っている。東京オリンピック――。その日をめがけて日本全体が波にのまれるように変わっていく。その気配は大須に住んでいてもひしひしと感じられた。道路を占める自家用車の数はますます増え、市電は廃線を増やし、地下鉄が路線を拡大している。名古屋は今日本一映画館の多い都市だが、立ち見が続出するほど賑わっていた来客数がオリンピック放送に向けた家庭用テレビの普及を受け、少しずつ減っている。
 世間の動きはめまぐるしい。だが、あの台風からまだ二年しか経っていないのだ。今でも私は強風の声を耳にすると胸がざわつくことがある。台風が上陸するとニュースで流れるたびに、身体中の神経が逆立つ。時代の変化の速さに、気持ちはなかなか追いつかない。心だけが置いてけぼりをくらっている感じ・・・・・・。
 けれど記者という仕事柄なのかオリンピックの開催を心待ちにしている神谷さんは、うきうきした様子である。「それはそれ、これはこれだろう」と言って緑色のリボンで結んだ小さな車のおもちゃをテーブルに置いた。
「碧ちゃんにプレゼント。『スバル360』の模型だよ。これを男に見せれば相手がどんなものさしを持っているか、わかるって代物だ」
「ありがとうございます・・・・・・」
 おもちゃの車をてのひらに乗せた。外国の映画で見るような、ころんとしたお洒落な形をしている。
「これを見て神谷さんはどう思うんですか」
「かっこいい。すごく欲しい。隣に女の人を乗せて走りたい」
 自分が欲しいものをプレゼントするなんて……、神谷さんの周りに異性の影が見えない理由はこれかな? そんな意地悪なことを考えながら私は新聞に視線を移した。「ちょっと、もう少し反応してよ」と、神谷さんは騒いでいる。
「あの……昨日の名クロの大須の欄に『空き地で子犬の死体が四匹見つかった』って載ってましたけど、あれっていつのことですか」
「ああ」
 神谷さんはマッチでたばこに火を点けて煙を吐き出すと言った。
「二週間くらい前かな?」
 名クロはたまに街の最新地図を載せる。街の変化に親しみを持ってもらうための工夫なのだろう。手書きで描かれた地図には、「新しくできたお店」とか「女性ばかりがやってる店」という説明書きがあって、おもしろい。その大須の地図のなかの「空き地」と書かれた場所に、「子犬が四匹死んでいた」と小さく補足されていたのだ。
 私は顔を上げると、おかっぱ頭の横の切っ先を耳にかける。
「私も三日ほど前に、大須の別の空き地で子猫の死体を見つけたんです」
「え、ほんと」神谷さんは身を起こす。「それは警察に届けたの?」
「はい。子猫は土に埋めてあげたんですけど……よくよく思い出すと子猫が泡を吹いて死んでいたのが気になって、念のため交番に届けました」
「なんて言われた?」
「『気の毒な子猫だったねえ』って、それだけ」
 ああ、と声を洩らした神谷さんは片手で頭を抱える。「俺は直接見たわけじゃないんだが、子犬は箱に四匹入れて捨てられていたそうだ……。だけど妙なものを食べたらしい。身体はころころしてるのに四匹そろって死んでいた。外傷なんてひとつもなかった」
 手で穴を掘って子猫を埋めたときのことを思い出し、目が潤んだ。今もまだ爪の奥には黒い土が残っている。お墓に供えたコスモスと、にぼしのしっぽが風にゆれていた。
「ところで昭和三十年頃に大須観音の境内に猿舎さるしやがあって、そこで飼われていた猿のことはおぼえてる?」
「はい、なんとなく」
 昭和三十年というと私は十歳だ。確かその頃、友達と大須観音の猿舎を訪ねた記憶がある。当時は名古屋中の人がやってきて、すごい人だかりだった。それにしても寺の境内で猿を飼うなんて……いかにも「ごった煮の街」らしい大らかさである。
「猿舎では三匹の猿が飼われていた。だがある日、突然一匹が死んで、残りの二匹が重体になった。それについては?」
 慌てて首を振る。「おぼえてません。気づいたときには猿舎がなくなってた気がする」
「人気者の猿たちはどうやら、投げ込まれたネコイラズを食って死んだようだよ」
「……」
 神谷さんは笑い声の満ちる店内を目だけでぐるりと見回した。
「大須は伊勢湾台風でも、他の水没した地区に比べれば被害が少ない方だったし、映画館の客も多いから景気の方はまだマシだ……。しかし、その裏にはそういった状況を好ましいと思わない人間もいるのかもしれない」
「でも猿の場合は事件として扱われて警察も動いてくれたのかもしれませんけど、捨て犬やノラ猫が死んだくらいでは、交番のおまわりさんだって動かないし……」
「うん。でも俺は猿も犬も猫も同じことだと思ってる。小さい生きものの命を奪うようなやつは、いずれは大きな事件を引き起こす。オリンピック景気に浮かれている裏で、世間を恨んで何かたくらんでるやつが潜んでる気がするんだよね。これは記者としての直観だけど」
「そんなの私、許せない……」
 子猫の遺体を思い出して思わずうつむいてしまった。
「あ、ごめん。誕生日にこんな話して」
 首を振って、かつては飲めなかったコーヒーの残りを飲んだ。いつの間にかこのドス黒い液体の苦味にも慣れて、今では少し美味しいとさえ感じるようになっていた。
 レジでお金を払うときに振り返ると、「また何か見たら俺に教えて」と神谷さんが声をあげていた。その向こうに接客中のお母さんがいる。家では気づかなかったが・・・・・・お母さんのブラウス越しの背骨が、不自然に浮き上がっているように見えた。

 とある映画館の横の細い路地を進むと、藍色の暖簾をさげたきしめん屋さんがある。私はこの店で夕方の五時から十時頃まで週五日ほどアルバイトをしている。働き先をここに決めた理由はまかないが出るからだ。食費が一食分浮くというのは大きい。
「おはようございます」
 店に入るとすぐに、かつお出汁の香りに包まれる。調理場を担当する三十代の一平いつぺいさんが「おはようさん」と返してくれた。私が店を手伝う直前までは彼の奥さんが調理補助と給仕をやっていて、私は奥さんが子供たちのために帰るのと入れ替わりで仕事をする。セーラー服の上に白い上っぱりを着て姉さんかぶりをした。
 カウンターの内側で下準備をしていると「碧ちゃんそんなのほかっといて、こっち手伝って」と一平さんが強い口調で言った。一人目のお客さんが入ってきたのだ。すると立て続けにお客さんがやってきてたちまち店は忙しくなった。
「はい、きしめん定食お待たせしました」「えび天きしめん、もうすぐ出ます」「お茶ですね、少々お待ちください」
 大人びた言葉を口にしながら私はきしめんを運ぶ。調理場に戻るときは手ぶらではなく空いた器など持ち帰るものがないか確認し、無駄な動きを省かなければいけない。会計だってやる。そして、どんな店でも同じだろうが、お客さんはいい人ばかりではない。
 いつもにこにこしていた常連の男がある日の会計の際、「渡したのは千円だろう。お釣りが違うがや。どうなっとるんだおい!」と人が変わったように凄んできたときは怖くて、チビりそうになった。きしめんの価格は五十円とか六十円。五百円札を受け取った私がレジにお札をしまったところを狙って、男は「渡したのは千円だ」と言いがかりをつけたらしい。だがレジに入れてしまったものはもう証明できない。
 閉店後、やっぱりだまし取られたのだとわかったときの悔しさといったらなかった。どんなに親しいお客さんであっても、会計がすべて済むまでお札は見えるところに置いておかないといけないのだ。身銭を切って得た痛い知恵である。盗られたお金は私の一カ月分のお給料の大半を占めるような金額だったが、責任を取って、私は給与からその分を引いてもらうことにした。一平さんも優しいだけではやっていけない商売人である。「悪かったなあ。銭はしっかりもらっとくわ」と言ってその金額を抜いていた。
 前半戦の客がすべて出たのが夜八時。店はひと段落といった感じで急にガラ空きとなる。近くの映画館がらみの客ばかりなので上映前と上映後が極端に混むのだ。
 引き戸が開いた。「こんばんは」
「あ、平野さんコンバンハ」と、私はつい意識して声が高くなってしまった。
「次郎ちゃん、ようきてくれたねえ。今日もあれでいいかあ?」
「はい、あれで。あと、おむすびの梅と昆布」
 平野次郎は市電の運転手だ。仕事帰りで私服姿の彼は、いつも大きな風呂敷を結んで鞄代わりにしている。顔が小さくて背が高い。切れ長の目も鼻もくちびるも、こぢんまりして品がいい。「次郎ちゃんは働き者のタフガイだが優しすぎてインパクトがない顔だに」なんて、ヤクザ映画ばかり観ている一平さんに流行語を交えて陰口を叩かれていたが、それは彫りの深い銀幕俳優と比べているからだ。
 カウンターに座った平野さんを見ていると、市電を運転しているときの真剣なまなざしや、引き締まった表情を思い出し、にやにやしてしまった。
「なにやっとるんだ、麺が伸びてまうぞ」
 一平さんに言われ、慌ててきしめんに薬味を乗せた。二個で四十円のおむすびは注文を受けてから私がにぎる。ご飯は親の敵のようににぎってはいけない、口に入れるとほどけるくらい優しくにぎるべし、と一平さんから指導を受けていた。
「お待ちどうさま。いつもの『きつねころ』におむすびです」
「今日も美味しそうですね。いただきます」
「ころ」というのは冷たい出汁のことだ。甘く煮含めた油揚げを花かつおの踊る出汁といっしょに食べると、甘辛くて本当においしい。
 器に手を添えた平野さんは薬味ごと出汁を口に含んだ……。ああ、なんてうらやましい薬味たち。私は頬に手をあて、うっとりと彼を眺めた。私も薬味になって平野さんの体内に「おじゃまします」とあがっていきたい。うずうずする。
「はいこれは碧ちゃんのまかないね。きつねころ、きしめん二倍と!」
 一平さんがどんと平野さんの隣に器を置いた。つい白目をむきそうな気持ちで言い訳する。「二倍って、いつもは一倍なんですけど……」
「一倍ってなに言っとるの? 碧ちゃんは三倍の麺だってぺろっと食っちまうんだで」
 平野さんはにこにこしている。結局私は平野さんから離れた席で、麺が二倍のきつねころを食べた。この際おむすびだってもらう。
 食べ終わると温かいお茶を出しながら聞いた。「お仕事の方は、どうですか?」
 うんと言った平野さんの顔に影が差した。「順調……とは言い難いかな。乗客の数が右肩下がりなんです」
「まだ乗っとる人は多いように見えるけどねえ」と一平さん。
「それが全盛期に比べると全然だめなんですよ。市電は元々走るスピードが遅いうえに、最近は道路に車があふれかえっているせいで時刻表通りに到着できないことが多くて……。それに大気汚染の影響で郊外へ引っ越す人も増えているから、都市部の乗客は減る一方なんです」
 へえ、と一平さんが残念そうな感じで眉を下げた。
「でも僕は小さい頃から市電の運転手になることが夢でしたから・・・・・・」
 落ち込んだ様子の平野さんにはとても「スバル360」のミニカーなんて見せられないな、と思った。それから彼は私たちに一枚ずつ紙をくれた。今年の花電車が運行される日程と、主な駅に到着する時間が載っている時刻表だ。
「花電車ってのは祭りって感じがしていいねえ。やっぱりスポンサー次第ですか? 華やかさの違いは」
「そうですね。大手企業はいろんな意味で強くなってますから」
「うちらみたいな個人の店はこれからの時代、生き残れるかなァ……」
「いや、この店の出汁と麺は人の手じゃないと作れません。大手とか機械とか、まったく違う次元の話ですよ」
 そうです! と私も平野さんの言葉を後押しした。「このお店は先代の頃からきているお客さんと新しいお客さん。二種類のお客さんによって微妙に出汁を使い分けてるんです。そんなことオートマチックではできません」
 古参のお客さんには醤油の強い濃い出汁で、平野さんのような若いお客さんには少し甘さを加えた色の薄い出汁を出す。逆がいいと言えばもちろん変更可能。お得意さんを大事にしつつも、新しいお客さんにも受け入れてもらおうとする細やかな対応に、私は映画作りにも通ずるヒントがあるような気がしてならなかった。
「碧ちゃんよう見とるなァ。さすが大須の立役者たてやくしや・山高さんのお弟子さんだわ」
「ちょっと、なんで山高さんが出てくるんですか」
 でも私だって大須商店街を右肩下がりにしたくない。だから少ない脳を振り絞って自分なりにいろいろ考えているのだ。
「まあ戦争のすぐあとに比べれば今はお客さんも多いから、しばらくは安泰だに」
 そう話す一平さんの横で私は、なぜか安心できない気持ちを抱えていた。市電の利用者が減っていることを平野さんが意識しているのと同じように、私も大須から少しずつ人が遠ざかっているような気がしてならなかった。映画館の来客が減るにしたがって、この店のお客さんも減っているような感じがする……。大須が映画館に寄りかかって生きている街であることは否定できない。
「いいお手伝いさんですね」
 と平野さんが言った。「ところで碧ちゃんはまだ花電車に乗りたいと思ってるの?」
 私が深く頷くと平野さんは腰を上げる。「そうか。僕も乗せてあげたいのはやまやまなんだけど、花電車はスポンサーあってのものだから……。ごちそうさまでした」
 会計を済ませた平野さんは消沈したように出て行ってしまった。「次郎ちゃん、何かあったんかな?」と一平さんが不思議そうにつぶやいた。

(第9回につづく)

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麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

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