双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

第1章

【三】台風(承前)

 がんもどきをおかずに夕食をとっていると、富江さんがやってきた。
 彼女が管理する長屋は、私たちの住んでいる家を含め、狭い路地を挟んで四軒ずつ向かい合って建っている。だから、さっきの校長先生たちとの会話は、このあたり一帯に暮らす人たちに筒抜けだったのかもしれない。
 けれど富江さんは、「食事中すまないね」と前置きし、何も知らないようなそぶりで私たちの顔を交互に確認すると言った。
「明日の台風がくる前に、町内会のみんなで協力して道路とドブ掃除をやろうってことになったんだけど、信ちゃん用意して出られるかい? 食事が終わってからでいいからさ」
「はい、すぐ出ます」
 そう返すと、お母さんはさくさくと食事を終えてしまった。汚れてもいいようなシャツとズボン姿になり、割烹着を着ると、肩ぐらいまである髪をひとつにまとめる。その上から手ぬぐいで姉さんかぶりをした。
「碧はゆっくり食べてなさい」
「うん。でも、どうして掃除をする必要があるの?」
「ドブや道路に葉っぱやゴミがたまってたら水はけが悪くなるでしょ? そうなると大雨で増水したとき、あっという間にあふれて水びたしになるからよ……。食べたあと、これを買ってきてくれる?」
 お母さんはペンで広告の裏に品目と数を書いていく。長めの釘、缶詰、乾パン、電池、蝋燭、大きめの板。――「板?」
「そうよ。小さいのじゃなくて、長方形で、リヤカーの荷台にだいたい二枚並べて置けるくらいの大きさがいいわね。リヤカーは富江さんから借りて堀川ほりかわ近くの材木屋さんへ行って」
 お母さんらしい大ざっぱな注文を聞きながら、不安に思った。堀川は昔から食品や木材を運ぶために使われている運河で、川沿いには材木問屋が多い。でも、リヤカーの荷台に積むような大きな板なんて、運べるかな? 
 引き戸を開けたところで、お母さんが振り返る。
下前津しもまえづから堀川へ下ったところにある『飯田屋』という問屋さんに行きなさい。でも――、無理だと思ったら引き返すのよ」
「わかった」
 食事を終えると私も家を出た。市電の下前津停車場から堀川方面へ向かう道は、急角度の下り坂になっている。しかもそれが二百メートルほど続く。思わず手前で立ち止まってしまった。
 こんな急坂をリヤカーで下ったら、きっと私自身が勢いづいたリヤカーにかれてしまうにちがいない。どうしよう……。
 街灯の点き始めた通りで困っていると、鉢巻をして地下足袋じかたびを履いた、腕の筋肉の盛り上がった男が二人やってきた。すかさず声をかける。
「すみません。飯田屋さんまで行きたいんですけど、お店はこの坂の下ですか」
 陽に焼けた肌をさらす男たちは私を見て、うはッ、と驚きの声をあげる。
「お嬢ちゃん、一人でこれ引いて飯田屋に行くの?」
「はい」
「こんな坂、あんたの体重でリヤカー引くなんて無理だって。危ないよ」
「ここから下りずにさ、もっと坂のゆるやかな、あっちの方から行ったら?」
「でも、かなり遠回りになりますよね?」
 まだこのあと買い物がある、時間が足りない。私はドキドキしながら、腹を決めると、勇気を振り絞ってみる。
「あの、下まで行くんですか?」
「……うん、そうだけど」
「すみません、でしたらちょっとでいいですから……手を貸してもらえませんか」
「ええッ」二人は迷惑そうに目を合わせつつ、迷っているようだった。
 が、結局一人がリヤカーの持ち手をつかみ、私ともう一人が前へ行きすぎないよう後ろから支える格好で急坂を下りた。
 飯田屋の前にたどり着くと、やった! という気持ちでいっぱいの私は、「ありがとうございます、ありがとうございます」と二人分お礼を言った。
「気をつけなよ」
 二人は外した鉢巻で汗を拭くと、白い歯を見せながら行ってしまった。

「お母さーん」
 リヤカーを引きながら、手を振った。私の後ろからは飯田屋の職人さんが二人で押してくれている。
「すみません、家まで運んでもらっちゃって」
 掃除をしていたお母さんが、姉さんかぶりを脱いで頭を下げた。飯田屋の職人さんは「いくらなんでもこの子一人に引かせるのは気が引けましてねえ。またお店の方、行かせてもらいますよ」と苦笑いを浮かべ、料金を受け取ると帰っていった。お店というのは、お母さんの勤める夜の店のことだろうか。
 前掛けにヘドロを飛び散らし、雨靴を履いた富江さんが言う。
「信ちゃん、いくらなんでも碧にこんなことやらせるなんて、えげつない教育だねえ。大怪我でもしたらどうするんだい?」
「いいえ、そんなことありません」とお母さんはきっぱり言う。「碧はできないときはできない、と言ってきます。でも……ちゃんと運べたのね?」
「うん。いろんな人に声をかけて、助けてもらった」
「それでいいのよ」
「ふうん」と息を洩らし、富江さんは難しい顔で私たちを眺めている。
 その後、私は朝のメモをもとに商店街で買い物を済ませた。
 お母さんや富江さんや長屋の住人たちは、暗くなっても懐中電灯を照らしてドブ掃除を続けていた。最近は側溝に生活用水が混ざり込み、臭いがひどく、糸ミミズも出てきて、どろどろになっている。そのせいで苦戦しているようだった。
 お母さんは私の買ってきた板と釘を使い、長屋のなかでも雨戸が壊れたり、ゆるんでいる家を中心に修理を始めた。釘を口にくわえて金づちを使う。その手際のよさ、釘を打つ角度と、力の入れ方の正確さに私も長屋の人たちも驚いた。
「こういうのを舌を巻くって言うんだよ」と富江さん。
「お母さん、すごいね」
「別にすごくないわ。女中は家を守ることが仕事なんだから、大阪ではなんだってやったもの。ご主人の留守を狙って強盗が入ったときなんて、包丁をとって奥さまと坊っちゃんたちを守ったことだってあったのよ」
「えッ」そんな話、初耳だった。
「そりゃあ勇ましいね」
 と、同じ長屋に暮らす高齢の上田さん夫婦がにこにこして寄ってきた。二人とも竹ぼうきを持っている。お母さんは照れくさそうに首を振った。
「碧、あなた先にお風呂へ行って宿題してなさい」
「お母さんたちは?」
「もう少しやったら終わるから」
 私は家に入ると手を洗い、お茶をいれた。湯のみは少ししかなかったから、セルロイドのティーカップなど、ありったけの器にお茶を注ぐと、「どうぞ」と懐中電灯を頼りに作業する住人たちのそばに、買いだめしていた梅ジャムとともに置いていった。
 しばらくすると外のみんなは銭湯へ行ったようだった。
 表がしんとして、その静けさに誘われるように、湯上りの頭が重くなる。布団に横たわると、二の腕を中心に、身体中がぎしぎしと痛んだ。リヤカーを引いたせいだろう。あと、丸太を踏んづけたから。
 寝返りを打ったとき、校長先生の表情に乏しい顔と、わざとらしく眉を下げた担任の顔、それに毒々しい赤い空――、それらが目の奥で渦を巻き小さくなっていった。
 そうそう、明日は私の誕生日なんだけど、みんな忙しいから忘れちゃってるよね。まあ仕方がないか……。
 そう思ったとたん、すとんと意識が途絶えた。

 碧、逃げて。早く逃げなさい、お願いだから――。
 お母さんの切羽詰まった声が私を追い立てる。私はバラックに挟まれた路地を走っていた。オンボロの屋根と屋根の間からのぞく空が細くて狭苦しい。
 逃げる? いったい何から? 誰から?
 まだ小さな私は速く走ることができない。屋根の先に開けた場所が見えた。あそこまで行けば大丈夫。そう思って必死に腕を振って走ると、突然、一軒のバラックの陰から和装にモンペ姿の皺だらけの女が出てきて、私の前に立ちはだかった。女は私の腕をつかむと、バラックの方へ力まかせに引っ張っていく。やだ、やめてと叫んでいるのだが、なぜか声が出ない。必死に足をふんばり抵抗したが、ずるずると引きずられてしまう。
 女は、近くで見ると目の上に傷がある。地肌よりそこだけ白っぽくなっているから目立つのだ。彼女は私を壁際に追いやると、血走った目を開き、ツバがかかるほど顔を近づけ、吐き捨てるように言った。
 ――今度くるときはおまえを連れて帰ってやる。忘れるんじゃないよ。
 私は恐ろしくてやはり声が出ない。のどに力を込めるが、ひゅうひゅうと苦しそうな息が洩れるだけだ。

 い、い、い、嫌だ―――ッ。
 叫ぶ自分の声の大きさで目が覚めた。やっと声が出た。そう思ったとたん力が抜けて、目から涙がぽろぽろ落ちた。
「どうしたの、碧」
 すでに起きていたらしいお母さんが、私の両肩をつかんでゆすっていた。私は胸に手をあて呼吸を整える。
「変な夢見た、怖い夢……」
「ずいぶんうなされてたけど」
「今度くるときはおまえを連れて帰る、忘れるんじゃないって……言われたから」
「なに? それは夢の話? そんなこと誰が言ったの?」
「……たぶん夢のなかで、目の上に傷のある怖いおばあさんが言ってた」
 母の顔がさッと白くなり、緊張が走った。
「実際にそんなこと、言われたことがあるの?」
「わかんない。でも夢のなかで……たいてい周りはオンボロのバラックが建ってて」
「碧、それはよく見る夢なの?」
 私は頷いた。疲れた日やテストの前など、精神的に追い詰められたときに見ることが多い夢だった。外はもう明るくなっている。ごうッ、と風のうなり声が聞こえた。時計は十時を指している。
「いけない、起きるの遅くなっちゃった」
 慌てて身を起こすと、お母さんが私を止めた。「いいのよ。昨日はいろいろあったから疲れてるかと思って、起こさなかったの。さっき広報の放送で流れてきたけど、今日は学校が休みになるそうよ。私の仕事の方も休み。さっき店で聞いてきたわ」
 ほっとして布団をたたんでいると、お母さんが言った。
「さっきの夢に出てくるおばあさんっていうのは――、たぶん私の母ね」
「え?」
「私の母親よ。福井で農業と金貸しの仕事をやっているの」
「お母さん……確か、もう親はいないって言ってたよね?」
 お母さんはめったに身内のことを話さない。だからこそ、私もしつこく質問してお母さんとの関係を壊したくないという思いがあり、いないというのだから今は「いない」のだろうと、それ以上詳しく聞いたことがなかったのだ。
 お母さんはうつむきながら話す。「……私のなかではいないも同然の人たちだから。実際、母が今どうしてるかなんて知らないわ。生きてるかどうかもわからない」
 木の枝がたわむ影が小窓に映った。まるで手招きされているようだ。
 私の頭にまた、夢で見た世界が蘇る……。焼け跡の残るむき出しの地面に、まばらに建つバラック。まだ片づけられていない瓦礫がれきの山。
「私、もしかして……お祖母ばあちゃんに会ったことがあるのかな?」
 お母さんは立ち上がると、「着替えてきなさい。朝ご飯用意してあるから」と言った。
 着替えたあと私は外へ出た。上空は風が強いらしく雲がぐんぐん流れている。顔をなぶる生温かい風が、夢に出てきたお祖母ちゃんの息を思い出させた。
 ぬか漬けにおみおつけ、ご飯といった簡単な朝食を済ませると、お母さんは昨晩の疲れが取れないのか、目の下にくまを浮かべたまま言った。
「碧、さっきの話の続きだけど」
「うん」
「あなたの言う通り。母はあなたが四歳のときに一度だけ大須へやってきたことがあるの」
 そうなんだ、と私は納得する思いだった。
 夢でくり返し見た世界は私が四歳のとき目にした――昭和二十四年の、終戦から街がまだ復興する手前の大須の姿なんだ。空襲を受けた名古屋市内は、多くの場所でビルが破壊され、民家は燃え尽き、ほとんどさら地のようになってしまったという話は私も聞いたことがあった。
「私には九人のきょうだいがいたの。だけど、そのうちの六人は女で、姉や妹たちはみんな母と父の取り決めで、女中や、奥さんを亡くした男の人の後妻に出されたりしたの。たいてい相手はお金持ちで、十五も二十も上の人だったわね」
 お母さんは痛みを抑えるように、片手で頭を抱えると、「私に優しくしてくれた、いちばん上の姉は赤線に売られてしまって……」
 と言い、押し黙ってしまった。くちびるを噛みしめ、畳の一点を見つめている。
「どうして自分の子にそんなひどいことができるの?」
「別にひどいことじゃないの……。母は自分の子を労働力としてしか見ていないから、男の子ならともかく、女は力仕事もできないから家では使えないって……、私もそんなふうにお金と引き換えに大阪へ女中に出されたの。男は戦争に駆り出されて、女は親の道具として身売りされる……。まったくありふれた、どこにでもある話なの。もちろん優しい親もいるだろうけど、子は親を選べないからね。とにかくそんな母だったから、きっと何かお金で困ることがあって……私からむしり取ろうとして、戦争から戻った兄たちを引き連れて大須へやってきたのね」
「女ボスみたい」
 お母さんは少し笑った。
「そうねえ、そんな感じ。借金を作るのはたいてい父だったけど、その父も怖がっていたくらいの人だったから……。たぶん母は福井の、私の知り合いから私たちのことを聞き出したのね。それで、『このあたりに福井からやってきた亭主のいない、子連れの二十代の女を見なかったか』とか、そんなことを聞き回ったらしいの。母が私を捜しにきてるって富江さんから聞いて、私はあなたを連れて逃げた……。でも、当時の大須は今みたいにお店もないし、住宅がみっちり建っているわけでもなかったから、碧は私が目を離した隙に、あの人に見つかっちゃったのね。結局私からお金をとれなかったから、たぶん負け惜しみに脅したのよ、今度はおまえを連れて帰るなんて、恐ろしいことを……」
「でも、ただの夢かもしれないよ。詳しくおぼえてないし」
 お母さんは首を振った。「あの人なら言いそうな気がする」
「お祖母ちゃんの目の上の傷はどうしたの?」
「自分の父親がお酒を飲んで暴れたときに、何か固いものを投げられたって、言ってたけど」
 私は、おもちゃのパチンコで正面から石をあてられ、目元を手で押さえるお祖母ちゃんの姿を思い描いた。指の隙間からどくどくと赤黒い血が流れている。
 背筋が寒くなり、両手で自分の身体を抱きしめた。
「またくるかな? 怖いお祖母ちゃん。私を連れ帰って身売りするつもりなのかな」
「まさか。あれから十年もたつんだから、あの人もいい年でしょうし」
 そう呟くお母さんの声は突き放すように冷たい。
 私はお母さんのことが好きだけど、お母さんはお祖母ちゃんのことを好きでいさせてもらえなかったんだ。そう思うと、家族やきょうだいと離れ、ひとりぼっちでいるお母さんのことが気の毒になった。でも、お母さんはそんなことを気にする様子もない。
「碧、それで、あなたのお父さんのことだけど……」

(第7回につづく)

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麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

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