双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

第1章

【三】台風

 新聞騒動のあと、お母さんは喫茶店の仕事を早退した。
 いつもお母さんは喫茶店勤めを終えると、店の奥で少し休憩し、それからバーへ直行して働いている。けれど、それでは夜遅くなってからしか娘と話す時間が取れないだろう――たぶん、そんな風に事情を察したマスターが早退を勧めてくれたのだと思う。
 いつもきちんと襟足をカットしているマスターは、短く爪を切りそろえた手で、ぱぱッとサンドイッチを作り紙箱に納めると、「家でゆっくり食べやあ」と私にくれた。それは、これでも食べながらお母さんと話しなさいと言ってくれているようにも聞こえた。
 富江さんとお母さんと私は、長屋までの十分ほどの道を歩いていく。富江さんがいつものボヤキ口調で言った。
「神谷も山高も、どうしてこう記事にしたり学校に乗り込んだり、大騒ぎにするのかねえ。社会がどうとか学校がどうとか、まったく。いちいち大きな問題にすり替えすぎなんだよ」
「でも、神谷さんも山高さんも、私のことを考えてやってくれたんじゃないかな」
 その思いがありがたいと感じていた。お母さんがどう感じたのかはわからないが……。
 ちらとお母さんの顔を見ると、少し沈んだ表情で歩いている。
 実はさっき、名クロの記事で騒ぎになったあと、神谷さんがポンパルにやってきたのだ。なんだか普段より胸を張って、得意そうだった。
「コーヒー。濃い~やつね」
 と言ってから、店の温度がいつもと違うことに気づいたらしい。めがねのふちをつかむと、「あれ? どうしたの? ん……? あ、碧ちゃん?」と言う。
 私が泣きはらした目でじっと神谷さんを見ると、富江さんは彼に向かい、
「おまえはどうしてこうデリカシーがないことをするんだい? もっとやり方があるだろうに」
 と、非難しながら今日の名クロをテーブルに叩きつけたのだ。私の記事が上になっていたから、神谷さんはことの次第をすぐに理解したようだった。
「でもこれは碧ちゃん一人の問題じゃない。こんな言われよう、社会的な問題として制裁を加えないと……」
「たァーけ!」と富江さんが怒鳴った。
「おまえの正義感はそれで済むかもしれんけど、そんなら碧と信ちゃんの気持ちはどうなる? しょせん三流大衆紙だろうと読んどる人はようけおるんだわ。名古屋のぎょうさんの人に個人的なことを知られたら、女だけで住んどるこの二人が、これからどんなおそがい思いをして暮らしていかないかんのか……おまえみたいなご立派な記者さんが、そーんなこと考えもしなかったんかあ?」
 神谷さんの顔がたちまち後悔の色を帯びた。周囲の人たちは、興奮して名古屋弁がきつくなった富江さんの言葉に賛成したらしく、しきりに頷いている。神谷さんはすぐに言葉が出てこない。しまったという表情のままだ。
 するとお母さんが慌てて言った。「富江さん、私は平気です。新聞に載ったとはいえ匿名ですし、もう載ってしまったことですし……。それに今回の件は本来だったら、私がまず知らないといけないことだったんです。むしろこの子の話を神谷さんが聞いてくださったことに感謝しています。ありがとうございます」
「あ、あ、いえ……すみません。信子さんの気持ちも考えずに俺は……」
 やはり歯切れの悪い応答に、私はますますテテナシゴという言葉の謎が深まるばかりだった。
 お母さんはかすかに神谷さんに笑いかける。
「でも次から記事にするときは、ひとこと言ってくださいね」
「はいッ。もちろん、もちろんですよ、の、信子さん」
 汗だくの神谷さんは泣き出しそうな顔で、めがねを白く曇らせていた。

 歩きながら上を向くと、水色の空にはうろこ雲が広がっている。風が吹き、道の表面の土がわずかに舞い上がり、さびたトタン屋根の端がカタカタ上下した。地面に牛乳瓶が転がっている。拾って近くの木箱に戻してやった。
「きれいな空。空なんて見たのは久しぶり、もう夏も終わりね」とお母さんが呟いた。
「あんたは手元ばかり見ていないで、もう少し上を見る余裕が必要なんだよ」
「そうかもしれません」
 私は富江さんとお母さんの会話を聞きながら、もしかしたら今回の事件のおかげで、お母さんは少し荷が降りたところもあったのかもしれないと思った。詳しいことは知らないが、お母さんは何かを隠している。隠しごとをするのは苦しいことだ。だけどたぶん……私の周りの大人たちは、きっと、私以上に私やお母さんのことを知っている。だけど大人だから、みんな知っていても言わないのだ。言わないけれど、彼らなりに考えをめぐらし、手を伸ばそうとしてくれているのだ。私の様子を気にしてくれた紅玉さんに山高さん、神谷さん、富江さんだってそうだ。それに喫茶店のマスターも。
「このサンドイッチ、何?」
「たぶん美味しいやつよ。来年からメニューに本格的なサンドイッチを組み入れる予定なんだって。その試作品」
 長屋に着くと富江さんが自宅に招き入れ、お茶を出してくれた。「神谷は名誉棄損で訴えられてもおかしくないよ」と、まだボヤいている。
 紙箱は温かい。開けると、驚くほど豪勢なサンドイッチが入っていた。揚げたてのエビフライと卵焼きとキャベツが、焼き目を入れたトーストにたっぷり挟まっている。
「すごい、これなら高級洋食店で出してもおかしくないよ」
「高級洋食店なんて行ったことないくせに、なに言ってるの」
 手を伸ばすと、「碧、手」の声が飛んできた。はいはいと答えて手を洗った。
 サンドイッチはパンより具が厚く、顎が外れそうなくらいがあるので、食べているそばからぽろぽろと中味が落ちてくる。
「タレが甘酸っぱくて美味しい。これ、絶対売れると思う」
「店長に言っとくわ」
 と、お母さんがハンカチを差し出してくれた。すると、「そんなきれいなの、もったいない」と言って富江さんは汚れたボロ布の切れ端にぺッとつばをつけ、私の口の周りを拭こうとする。
 さすがに遠慮して自分で口をぬぐった。小さい頃はあの「ペッ」でよく富江さんから顔を拭かれたものだ。
 そう思うと少し不思議な気がした。日常のなまなましい記憶はお母さんよりも富江さんとの方が、多いのかもしれない。お母さんは私が小さい頃からいつも外で働いていたから。 
 お母さんはサンドイッチには手をつけず、ため息をついていた。無意識だったのか、富江さんの視線を受け、「あ、ごめんなさい」と弁解して姿勢を正す。今度はこめかみを押さえている。きっと疲れたのだろう。
「碧……あのね、あなたのお父さんのことだけど」
 いきなり切り出され、ぐッとのどが鳴った。
「みーどーりーちゃーん」と声がした。外を見ると久美ちゃんが立っている。
「久美ちゃんがきてる。お母さん、顔色悪いから少し休んだら?」
「うん、それがいい。夜の仕事も行くんだろう? ずっと働きづめなんだから、少し横になりなさいな」
 富江さんは手際よく布団を敷き始めた。ありがとうございます、と言ってお母さんは素直に横になり、そのままの姿勢で言った。
「碧、晩に帰ってきたら話そう」
 うんと返し、私は逃げるように外へ出た。
 あー、緊張した。お母さんと真剣な話なんてしたことがないから、どういう顔をしたらいいのかわからなくて困ってしまった。
「あれ? まだ着替えてないの?」
 と言った久美ちゃんは、黄色のシャツに緑色のスカートという個性的な配色の私服姿だった。
 行きつけの駄菓子屋で久美ちゃんは粉末ジュースと黒棒と紙風船を買っていた。粉末ジュースはお店で借りたコップに入れ、水道水を注いで飲む。私が買ったのはよく冷えたラムネ。栓抜きを使ってキャップを外すと、瓶の内側に落ちたカッチン玉がカラカラ鳴った。
 店のすぐ横の石階段に座り、あたりに茂ったオシロイバナの黒い種をつぶしながら、久美ちゃんが話してくれた。
「あのあとね、山高さんと校長先生の周りに交番のおまわりさんや他の先生や、山高さんの劇団仲間の人たちかな? ふんどし一丁で『アニキィ』なんて言って駆けつけてきてね。それから最後は、目の上を腫らした血だらけの白装束のお化け役の人までやってきたから、結局全員腰を抜かすほど驚いてた。『おまえ、もう少し考えた格好でこいよ』って山高さんが言ったらね、『考えてきた格好がこれでやんす』だってさ」
 私は声をあげて笑った。久美ちゃんの話は聞いていて、その場の情景が浮かんでくる。
「久美ちゃんって声の使い分けがうまいよね。女優さん? ううん、落語家さんみたい」
「やだー。女優って言ってよ」と言いつつも、結んだお下げを解いて前にたらし、両手もたらし「うらめしや~、おもてそばや~」と低い声で迫ってくる。
「ぎゃはははは、こわーい」
 久美ちゃんの芸のおかげで私は、湿った気持ちがたちまち乾いていくようだった。たわいもない話をしているうちに、いじめられたことなんて忘れてしまう。
「ほら、あたしどう? 白くてきれいでしょう?」
 と芝居がかった言い方の久美ちゃんが、オシロイバナの種の中身を塗った手の甲を見せてくる。久美ちゃんも直接言葉にはせず、こうして私の気持ちを察して、彼女なりのやり方で私をはげまそうとしてくれているのかもしれない。
「久美ちゃんの方が私よりずっと演出上手、監督らしい」
 えー、なんでよ、と言って久美ちゃんは笑っている。
 もういいや。別にお父さんなんていなくたって。楽しいからこれでいいんだ。
 紙風船を下から叩くと、空気の弾ける軽やかな音がした。

 その夜、お母さんが帰ってきたとき、私は布団から出ずにいた。静かにふすまが開いて光の帯が太くなり、私の顔にかかると、
「碧、寝たの?」
 と声がする。私は布団をかぶって、むにゃむにゃと寝たフリを続けた。
 お母さんはバーの仕事へ行く前に夕食をとっている。だから、もう寝ようと思えばすぐ眠れるはずなのだが……またちゃぶ台の上でペンを動かし、勉強をしているようだった。
 私は目を開ける。ペンが走ったり、考え込むように止まったりする気配を感じると、今の自分がふがいなくて仕方がない。
 それに私はお母さんの話を聞くのが怖くなっていた。お父さんのことを知りたいと思ったことは何度もある。教えてくれないお母さんにいらだちを感じたこともあった。けれど今は過去を知ることで、自分自身がゆらいでしまいそうで怖かった。今私の目に見えていることや信じていること、それに自分の足場そのものが崩れていってしまうような気がして、怖かった。
 もう過去なんてどうでもいいじゃないか、今があるんだから――。
 でもお母さんはたぶん、少しでも今の状況を打開しよう、改善しようとペンを走らせている。やっぱり私はふがいない。過去を打ち明けようというお母さんの決意を感じたとたん、今度は私の腰が引けてしまうなんて……。
 
 翌日、おとなしそうな男の先生が教室にやってくると、言った。
「担任の新島にいじま先生は体調を崩されたので、しばらくこのクラスは私が受け持つことになりました」
 生徒たちはざわついたが、十分もすると忘れてしまったようで、普段通りの教室に戻っていった。私にからんできた三人の男子たちは何事もなかったように話している。放課後になり、私がじっと彼らを見ていると、その視線に気づいたようで、結局全員そろってバツが悪そうな顔で「ごめん」と言った。
「本当に反省してるの?」
 と久美ちゃんが追い打ちをかけると、「謝っただろ」「これで怪人との約束は果たしたからな」と残し、三人そろって逃げてしまった。
 それから数日はおだやかな日が続いた。
 いやがらせを受けている最中はつらくて、視野が狭くなり、とにかくこの世から逃げ出してしまいたい思いもしたが……終わってしまえばこんなものなのか。あっけない気がした。映画を観ていると、「はやまってはいけません」というセリフがよく出てくるが、まったくその通りだと思う。
 金曜の夕方は空全体が鮮やかすぎるほどの夕焼けに染まっていた。雲の隙間から血がにじみ出しているような色だ。公園で赤ちゃんに乳を含ませていた若いお母さんや、木登りをしていた子供たちまで手を止めて、ぼんやりと空を見上げている。
 私の名を呼ぶ声がした。普段着姿のお母さんが夕陽を背負って歩いてくる。
「どうしたの? 仕事は?」
「店に学校から電話があったから、夜の仕事は休むことにしたの」
「どうして学校から……? それより休んでいいの? 休むと他の人に仕事とられちゃうって、いつも言ってたよね?」
「いいのよ。大事なことだから。さ、ご飯にしよ」
 長屋に入るとお母さんはエプロンを着け、ありあわせのもので夕飯を作り始めた。ご飯を炊いている鍋がぐつぐついって、醤油の甘辛い香りがする。
「がんもどきの煮つけ?」
「そうよ」
「私ね、お母さんが作ったがんもの煮つけがいちばん好き」
「あんたはどうしてそう手のかからない料理が好きって言うの? もっと他にもあるでしょう?」
 そう言ったあと、お母さんは考え込むように口を閉じた。
「台風がくるって、ラジオで言ってたよ」
「……うん、そうね。お店からも、明日は天気次第では自宅待機するようにって言われてるの。いろいろ準備もしておかないと」
 それから唐突にお母さんは呟いた。「手のかからない料理が好きなのは、私がそういうものしか作る時間がなかったからなのよね」
「え? ところで学校から電話ってなんの……」
 引き戸をノックする音がした。きっと富江さんだ。しかしガラス戸に映る影はふたつある。
 不安を感じて振り返ると、台所の火を止めたお母さんがやってきた。
「たぶん校長先生よ」
 ためらうことなく戸を引いたお母さんの前には、校長と担任の五十代の女の先生が立っていた。彼女を見たとたん、先日の悪意に満ちた表情と声が頭をよぎり、どきッとした。
「お時間をいただき申し訳ありません」
「ええ。どうぞあがってください」
「いえ、今日はこちらで……」
 と校長は遠慮するように言い、担任の先生はうつむいている。ふたりともお通夜に行くような黒っぽい服を着ていた。
 このたびは……と校長が言いかけたとき、担任の先生が突然腰を折り、がばりと頭を下げた。
「このたびはたいへん失礼なことを口にしまして、申し訳ありませんでした」
 玄関に立っているお母さんは黙って、しばらく担任の先生を見下ろしていたが、ふと、よく通る声で言う。
「先生、顔を上げてください」
 担任が遠慮がちに顔を上げると、お母さんが続けた。
「先生は謝る相手を間違えているんじゃないですか?」
「……え?」
「私に言ってどうするんです? ひどいことを言われてつらい思いをしたのは碧ですよ。碧に謝ってくれませんか」
 ぎくりとした様子の担任は肩がゆれ、首から顔にかけて赤くなった。校長先生は小さな目をきょろきょろさせて黙っている。
 お母さんが横によけると、その後ろに立っていた私は担任と差し向かいになった。
「野坂さん……野坂碧さん。あの……、私が間違っていました。とてもひどいことを言いました。申し訳ありません」
 先生が頭を下げている。彼女の頭頂部の毛の薄さ、根元の白さがみじめさを誘った。
 が、私は無性にむかむかしてきた。謝罪するくらいならどうしてテテナシゴなんて言ったんだろう? ――どうせ新聞に載らなかったら、謝ろうなんて思わなかったくせに。
 なにより私はお母さんを見下され、傷つけられたのが悔しかった。「碧は悪くないのに」というお母さんの言葉は裏を返せば、「悪いのは私だ」と言っているようにも取れる。もしかしたら本当の意味で傷つけられたのは、私よりお母さんの方なのかもしれない。街の人たちの大げさな反応や、お母さんに気遣っていた様などを見て、それくらいのことは私にだって想像できる。
 先生をひっぱたいてやりたいと思った。
 でも、がまんする。
 担任の横には校長先生がいる。私の隣にはお母さんがいる。山高さんの騒ぎもあったから、担任の先生は校長からすでにいろいろ言われているだろう。
 三対一で明らかに不利な相手をそれ以上こらしめるのは、あの坊主頭の三人と同じであまりに幼い。私はまだ大人ではないが、少なくとも目の前の五十代の先生よりは、広い心で物事を判断できる人になりたいと思った。――だけど、そう思いつつも、やはり悔しいものは悔しい。
 感情をこらえるよう、その場で何度か強く足踏みをした。でも、がまんできない。私はお母さんと先生たちの横を通り越し、長屋の裏まで行くと、ゴミ捨て場に立てかけてあった丸太を、ドスッ、ドスッ、ドスッと三べん踏みつけた。そうして、つかつか先生たちの前に戻ってくると、さらに歯を食いしばり、ぎりりと音がするほど上下の歯をこすり合わせた。
 奥歯でもって覚悟を決める。
「はい」
「の……野坂さん、先生を許してくれるの?」
 私は目をそらし、黙って頷いた。
 担任は困ったような表情になり、校長をうかがう目つきで仰ぎ見る。
 そうしてまた頭を下げると、ふたりの先生は手みやげを置いて帰って行った。
「碧、ごめんね」
 とお母さんは呟き、かすかに眉を寄せ、複雑そうな表情をにじませる。目を細め、少し驚いているようにも感じられた。私はなんと言っていいのかわからない。
 お母さんの向こうに見える空は、下の方だけ赤色を強くし、風を受けたときの炭火のようだった。

(第6回につづく)

バックナンバー

麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

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