双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

第1章

【二】名古屋クロニクル
(承前)

 三年前、紅玉さんと出会った頃のことを思い出しながら、控え室の畳の隅で寝転んでいた私は、昔の癖が戻ったのか爪を噛んでいた。時計を見ると三十分以上たっている。
 じりじりしたあげく私は部屋を出た。入ってはいけないと言われていたが、受付のおばちゃんの目の届かない隙に、舞台につながる扉をそっと押し開けてみる。
 すると、舞台から扇子を広げたような形で放たれた光がまぶしくて、思わず手をかざした。少しずつ周囲の暗さに目をならしていくと、ピンク色に変わった照明のなか、お尻のかたちと背中から腰への丸みのある曲線が浮かんでくる。
 舞台の上に真っ裸の女の人が横たわっていた。
 民謡に似た、懐かしい感じがする変な音楽に合わせ、ゆっくり振り返ったその人は、長い髪をおろした紅玉さんだった。ガタガタ音がする人力らしい円型の舞台がまわり始めると、紅玉さんはわずかに上半身を起こし、片膝を立て、その間が見えるように、曲げた足を上に伸ばしていく。舞台に手が届きそうなほど近い席も、それ以外も、客は男ばかり。ざっと見渡すと、もう性欲など頭髪とともに抜け落ちているだろうと思い込んでいた八十近いヨレヨレのたばこ屋のじいさんまでいたから驚いた。若い人も年寄りも関係なく、客席全員の発するビリビリするような期待と緊張のなか、紅玉さんの足の間がこちらに向き、もろに見えたところで、
「あ、Vの字」
 と私は声を発してしまった。高い声のせいか、思った以上に場内に響き渡った。
 客の頭がいっせいにこちらを振り返る。
 うっとりした表情の紅玉さんだったが、たちまちお化けでも見たような顔になると、
「あッ、碧!」
 と叫んだ。横のたらいに入っていた海女あまさんの衣装をたぐり寄せて立ち上がる。
「なんだ、なにしとるんだァ?」
「どうなっとるんだ、おい!」
「隠すなら銭返してくれェ」
 飛び交う罵声とヤジを前に立ちすくんでいると、舞台裏の暗がりから派手な開襟シャツを着た目つきの悪い男が出てきてこちらに向かってくる……。やばい。
私は手足を必死に動かし劇場から飛び出した。また商店街のなかを転がるように走りだす。――いけないものを見てしまった。いけないものを見てしまった。いけないものを見てしまった!
 ストリップって、まさかあんなところまで見せるなんて知らなかった。そこは大事なところだからお風呂に入る前にちゃんと洗うんだよというお母さんの言葉がなぜか蘇る。
「わ―――ッ」
 さっき見たことを自分のなかで消化できない私はまっすぐ走れない。途中でぶつかった人たちから迷惑そうな声が飛び、舌打ちされたりした。
 ふと横をみると、細く暗い路地が続いていて、その向こうに切り取った絵のごとく朱色の鳥居が見えた。――そうだ、こういうときは神だのみだ。
 電気の消えた赤ちょうちんが並ぶ路地は、アンモニア臭がたちこめ、たまに罠のごとく地べたに嘔吐したものがこびりついている。それらを飛び越えていくと急に視界が広がった。
 民家の背に囲まれた小さな土地に神社が立っている。鳥居をくぐってほこらの前へいくと手を合わせた。神さま仏さま、どうか助けてください。もういじめられたくない。テテナシゴなんて先生に言わせないで……。
 必死にお願いしていると、もやもやと紅玉さんのVの字が浮かび上がり、そこへどろどろと梅ジャムが流れ込んでくる……。うう、余計なことは考えるな、私。
 必死に頭を振って雑念を払い、きつねの神さまに頭を下げた。
 すると――路地の入口の方から男女の声がする。
 どうやらこちらへ向かってくるようだった。あたふたしながら祠の陰に隠れた。
「やだァ、もう、なんでこんなところにくるのよう?」
 と、女の甘ったれた声がする。
「こんなところもなにも、がまんできねェのはおまえの方だろう?」
「うふふ」
 男の声は……どこかで聞いたことがある。ひょいと祠から顔を出した。
 背丈の低い笹が茂る向こうに、三十代くらいの女とその女の腰を抱き寄せている黒ずくめの男が見えた。こちらに背を向けている。顔がよく見えない。
「めんどくせえなァ。とっととやっちまおうぜ」
「ええ、ここでェ? 私もずいぶん安く見られたもんじゃない?」
 女は大きな宝石のついた指輪をはめた手でベレー帽を直しながらこちらを向いた。きれいに化粧をした女の人で、仕立てのいいツーピースを着ている。大須ではまず見ないタイプだ。「ござァます族」といわれる、覚王山かくおうざんあたりに住むお金持ちの人かもしれない。
 背の高い、山高帽をかぶった男はマントを広げると、女をさらうようにしてその身体をすっぽりと抱き込んでしまった。
「もう、いやだってばァ」
「じゃあもう亭主のとこに帰るか? ん?」
「それは言わないで。あんな男、金にものを言わせて……」そう吐き捨てると、女は男の首筋に艶めかしい動きで手をあてがった。「ねえ、私がいやって言えないのわかってるくせに」
 すると、しめたといった表情で男は横を向き、女のあごをすくってくちびるを重ね、深く吸った。唾液があふれるほどに……。
 男の手はマントの下で奇妙な動きをしている。
「いやだ、もう、あたしもう、隆……」
 ぷッ、と思わず吹き出してしまった。隆なんて呼ばれている。
「誰だァ?」
 マントをひるがえし、こちらを向いたのはやはり山高さんだった……。やばい。
 私は祠の裏から弾丸のごとく飛び出すと、
「汚い!」
 と叫び山高さんに思いきり体当たりした。帽子を飛ばし、足首をひねって路地の壁に叩きつけられた山高さんは「痛ッ」と叫び女も悲鳴をあげていた。私はかまわず路地を駆け抜ける。
 あれが、ひきずりの晩に山高さんが言っていた「財布女」の正体だ。
 大人って汚い。汚い汚い汚い!
 でも走りながら私はひとつの答えにたどり着こうとしていた。
 大人だからって、どんな職業に就いているからって、百パーセント正しくてきれいなことしかしない人なんて、きっといない。先生だってそれは同じだ。いくら聞かれたからとはいえ男子たちに私の数学の点を勝手に教えるなんて。やはり先生の方が間違っているのかもしれない――。
 私はどこへ行くともなく走った。
 走ることに疲れ切った頃には、日が暮れかかっていた。
 窓に灯りを浮かべた市電は、私の隣をゆっくり走って行く。
 風に煽られる髪を耳にかけながら、夕陽が落ちて夜になったあとも家に帰る気が起こらず、私は停車場で何台も市電を眺めていた。
「やっと見つけた……、見つけたぞう」
 と言って誰かが私の肩を叩く。振り返ると、名クロ記者の神谷さんがいた。彼は肩で息をし、汗だくで、めがねまで蒸気で白くなっている。

 神谷さんは私を、名クロの事務所が入っているビルに近い喫茶店へ連れて行った。ここなら私の知っている人は誰も来ないからという理由だった。
 神谷さんが注文してくれたレモンケーキと紅茶に、私はなかなか手をつけられない。すると神谷さんから切り出した。
「碧ちゃん、何があったの?」
「え?」顔を上げる。
「少し前に紅玉さんと山高さんが俺のとこへやってきて、碧ちゃんを知らないかって言うんだよ。ふたりとも、今日は碧ちゃんの様子がおかしい、変だったって言うんだ。何かあったんじゃないかって。俺も同じようなことを少し感じていたから、腕を怪我していたかなあって話したら、『やっぱりおかしい。なんでおまえはその場でもっと話を聞いてやらなかったんだ』って……ふたりから散々責められた」
「……ごめんなさい」
「碧ちゃんが謝るこたァない。大須で暮らす人たちを筆で書き起こす記者のくせに、この観察眼の鈍さは命取りだな」
 神谷さんは頭をかくと、声を潜めた。「もう一度聞くけど、何があった?」
 口ごもっていると神谷さんは、「失礼」と断ってからマッチを擦り、たばこを吸った。
「きみのお母さんの信子さんはがまん強い。弱音を吐かない……。でも、だからってきみがそれを真似する必要はない。碧ちゃんはまだ子供なんだから、言いたいことは言ったらいいんだ。紅玉さんの劇場にも行ったんだろう?」
 紅玉さんの舞台を思い出し、私は耳が熱くなった。神谷さんは笑っている。
「心配していたよ、紅玉さん。『いつもは控え室で待っているはずなのに、今日は舞台に来たから変だ、おかしい』とね。そんな風にまわりの人たちをやきもきさせるほうが、ずっと罪なことだと思わないかな?」
「……」
「確かに、ときにはがまんが必要なことだってある。でも、ひとりでいろいろしょいこむのは間違っている場合もある。しんどい思いをして本来の力を出せずにいるのだとしたら、それは非効率的なことで……いや、違うな。子供に説明するのは難しい」
「私、子供じゃないです」
「そういうところが子供なんだ。もっといろんな人に頼っていいんだよ。俺だって判断に困るときは上司や仲間に相談する。特につらいことは抱えこまず、他の人に話して分かち合うことで前に進める場合もある」
 ふいに富江さんの言葉が思い出された。つらい思いをした人ほど昔のことを話したがらないものだ――。それなら話したがらない人は、たとえばお母さんは、どうやって自分のなかの消化できない問題を処理しているのだろう? 
 でも私は、私のまわりで今起こっていることを、過ぎ去った「昔のこと」にしたくないと思った。神谷さんの言うように、前に進みたい。覚悟を決めて言葉を押し出した。
「……学校で、嫌なことがあったんです」
 神谷さんはたばこの先を灰皿に押しつけた。
 そして私の話を聞き終えると、くちびるを噛んで眉の間に皺を刻む。
「テテナシゴっていうのは、まずいな。それは父親がいないっていう意味だけじゃない。人を見下す言葉なんだよ。碧ちゃんがみじめな思いをしたのは当然だ……。そんなことを教師が言うなんて信じられない。これはもうきみ一人の問題じゃないぞ」
 神谷さんの話を聞いて、私はいろいろと心に落ちる思いがした。急に胸のふたが取れたようになる。冷めてしまった紅茶を飲み、レモンケーキを口に入れると爽やかな風味が自然に広がった。
「これは大問題だ。碧ちゃん、この件は俺に預けてもらっていいかな」
「別にいいですけど……?」
「よし。それなら俺は会社に帰るから、ゆっくり食べていって」
 礼を言うと、立ち上がった神谷さんは私の頭にぽんと手を置いた。
「もう安心したらいい、全部まかせとけ。今日はゆっくり寝るんだぞ」
「……神谷さん、お父さんみたいな言い方ですね」
 どうしてそんなことを言ったのか、変な感じである。が、神谷さんはまんざらでもなさそうで、「お父さんか、ふふふ」と嬉しそうにしながら行ってしまった。
 
 週末が終わり、月曜日になった。
 私は教室の椅子に座ったままため息をつく。「俺にまかせとけ」なんて先週、名クロの神谷さんに言われたものの――、あまりその言葉をあてにしていなかった。担任の先生はしれッとした顔で教壇に立ち続けている。
 もしかしたら今日も学校の帰りに男子たちから、からまれるかもしれない。だけど久美ちゃんを巻き込むわけにはいかない。先に帰ろうとすると、久美ちゃんの方から教室に入ってきた。
「碧ちゃん、なんで先週帰っちゃったの?」
 憤然とした顔をしている。彼女とはクラスが違うのだ。
「うん、ごめん。実はね……」
「碧ちゃん顔色が悪い。何かあったの?」
 疑問を浮かべて詰め寄る久美ちゃんを前に、もたもたしていると、鞄を持った男子が教室に走ってきた。
「おい、外に大須の怪人がいるぞ!」
 すると数人の男子たちが嬉しそうに騒ぎながら駆けて行く。
 大須の怪人? 
 私と久美ちゃんは目を合わせ、互いに黙って眉を寄せた。
 久美ちゃんと並んで校門に続く道を歩いていると、後ろから、
「テテナシのズロース女ァ」
 と声が飛び、振り向く間もなく右ひじに強い衝撃を受けた。
 例の坊主頭の三人が私の横を駆け抜けていく。擦りむいた方の腕を狙ったらしい。前を向くと、三人のうちの一人が小枝を持って走りながら「ばーか」と、振り返った。
 久美ちゃんは驚いたのか悲鳴に近い声をあげ、慌てて私の方に駆け寄ってくる。
「なに? どういうこと? 碧ちゃん大丈夫?」
 私はビリビリする痛みに震えながら頷くのがやっとだった……。しつこいなァ、あいつら。先生が味方についたと思って、きっと調子にのっているのだ。
 しかし、すぐに久美ちゃんがまた別の驚きの声をあげた。
「あれッ? 誰か出てきたよ」
 夕陽の逆光を背にしながら、億劫おっくうそうな足取りで、校門の陰から一人の黒いシルエットが出てきた。
 その人物は三人の男子の前に通せんぼをするように立ちはだかる。それから枝を持った男子にスッと手を伸ばし、その襟首をつかんで引き寄せると、たちまち宙に吊るし上げた。
「うわわわ」とおののく声がし、他の二人は立ちすくんでいる。
「おまえらか? 碧を怪我させたやつってのはよう」
 と黒い服の人物が言い放った。襟をつかまれた男子は慌てて枝を投げ捨てる。
「えッ、なんで学校に山高さんがいるの?」
 と久美ちゃんが言った。私たちは木陰から様子をうかがうことにする。
 二人の男子は捕まった一人を置いて逃げようとした。が、山高さんが声を飛ばす。
「こら、逃げんじゃねえ、ガキども止まれ」
 二人はぴたりと足を止める。山高さんは吊るし上げた男子を地べたに投げた。そしてマントの中からべっ甲のがついた杖を出すと、その先で一人ずつ順番に肩を叩き、地面を突く。
「ここだよ、ここ。座れ」
 三人は泣きそうな顔で正座した。今日の地面はぬかるんでいる。
「あのなァ……、おまえらみてえな育ち盛りのガキが三人そろって、一人の女の子を怪我させるなんて恥ずかしくねェのか?」
「……」
「聞いてんだよ俺は!」
「……は、恥ずかしいです」
 山高さんはかがんで一人ずつ顔を近づけ、杖の柄でぐいと胸を押しながら話していく。
「男一人でも女より力は強ェだろ? それなのに、みっともねェと思わねえか? キンタマついてんのかって聞いてんだよ!」
「は、恥ずかしいです。キンタマついてません!」と叫ぶ三人は震え上がっている。
「……でも先生が」
 ぴくりと反応した山高さんが睨みをきかせた。
「先生が言えばなんでも正しいか? 先生が裸踊りしろって言ったら、おまえらやるのかよ? 先生が死ねって言ったら死んでみるか? 先生がウンコ食えって言ったら食うのかよ? ああッ?」
「そんなの食えませんッ」
「キンタマついてねェのに、ウンコも食えねえって言うのか?」
「めちゃくちゃだ……。食うんですか?」
「俺が食うわけねェだろうが!」
 いきり立った山高さんが杖を振って空を切ると、三人は慌てて上半身をそらし、それを避けた。
「ひゃあ、怖い」
 と洩らした久美ちゃんは木陰に隠れたまま、赤くなった顔を手で覆っている。
 他のクラスの男子たちも集まりだしていた。黒いマントをなびかせる山高さんを取り囲み、興奮したように「いいぞ怪人」「かっこいいッ」と叫び、「大須の怪人」コールをあげている。
「うるせェ!」
 と山高さんが振り返ると、やじうまたちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
 それから私たちの横をすり抜けていったのは校長先生だった。騒動を聞いてやって来た
のだろう。
「なんですかあなたはッ」
 と、竹刀しないを振り上げている。山高さんは下駄を鳴らし、ネクタイを締めたチョビひげ顔の校長の前に進むと、彼の胸のバッチを見てから訪ねる。
「ここの校長か?」
「は、はあ。そうですが」
 と校長が答えると、すさまじい速さで彼の胸倉をつかんだ。
「うわああああ」
 普段冷静な校長がつま先立ちになり、さすがに悲鳴をあげている。
「なにやってんだ校長はァ? 教師どもの管理もなってねえとはなァ、てめェの立場守ることばっかり考えてんじゃねェぞ!」
 胸倉をつかんで引き寄せられている校長はふらふらと竹刀を振った。全然当たらない。
 ――こ、これはまずい。原因はたぶん……大須に帰ればわかるはず。
「久美ちゃんごめん、先に帰る」
「え、でもそっち裏口だよ」
 私は裏門から出ると全力で大須商店街へ向かって走った。
 
 大須のちょうちん看板の下を通ると、私は息を切らしてポンパルへ駆け込んだ。流れてくる汗をぬぐいながら見まわした店内は、いつもの客の笑い声に替わって、重いざわつきに満ちていた。 
 何人かが、「碧」「碧ちゃん」と呼んで振り返る。不安げな表情の富江さんや紅玉さん、店のマスターや顔見知りのお客さんたちに私はあっという間に囲まれてしまった。
 コップに水をもらって飲み干すと、
「なに? どうしたの? ……さっき学校に山高さんが」
 と言いかけたところで、富江さんが新聞を渡してきた。名クロの今日の夕刊だ。
「これは本当かい? 本当にこんなことがあったのかい?」
 事情を飲み込めないまま、新聞の字を追った。
 
〈大須の少女、担任から『ててなしご』呼ばわり〉
 十九日午後、大須に住む少女M(13)より悲痛なる訴えを聞いた。少女は自らが通うK中学の同級生男子三名から突き飛ばされ怪我を負わされたのち、事件を目撃していた担任教諭Nより「父無ててな」呼ばわりされたと述べている。これは言葉の暴力であり少女の尊厳を破壊する発言である。「もはや戦後ではない」と経済面で言われて久しいが、庶民の生活にはいまだ戦争の影は色濃く残っている。いたいけな少女に救いの手が差し伸べられんことを、当記者は強く願う。

昭和34年9月21日(月曜日)

 短い文章にもかかわらず、記事は縁取られてよく目立つ。
 言葉の暴力、個人の尊厳の破壊――。
 衝撃的な言葉ばかりが迫ってくる。たちまち汗が冷え、手が小刻みに震えだした。
「こんなこと本当に言われたのかい? 碧」
 と富江さんは重ねる。私はのろのろと顔を上げた。特殊なレンズを通したときのように、みんなの顔がゆがんで見える。
「でも、これ、私のことだなんてひとことも書いてない。それなのにどうして私のことだって……?」
「どうしてって……大須の記事を書くのは神谷だろう? それなら答えるのは……」
 富江さんは歯切れが悪い。みんな、遠慮するように黙ってしまった。どう切り出したらいいものかと思いめぐらしているようにも見える。店内が重苦しい空気に染まった。
 すると、盆を片手に持ったままのお母さんがつかつかと人垣を分けてやってくる。
「いいんです。いいんですよみなさん。気を遣わないでください」
 と言って少し怒った顔で私を見る。
「この新聞に書いてあることは碧が言ったこと……、碧が担任の先生に言われたことなの?」
 私はみんなの顔を見まわした。目に入るのは困惑した顔ばかり。
私は怒られているのだろうか? 言ってはいけないことを神谷さんに話してしまったの
だろうか? やはり、予感を信じて胸に秘めて黙っておけばよかったのかもしれない。大波のような後悔におそわれ、身をすくめた。
「あの……、私が言って、言われたこと。全部ほんとのこと……。ごめんなさい」
 声が震えた。大人たちの発する圧のようなものがかぶさってきて、息が詰まり、変
な汗が出る。両手のこぶしをにぎり必死に自分を抑えた。
「どうして……」
 お母さんは強く息を吐き、振りしぼるような声を出す。
「どうしてもっと早く言わなかったの? 悪いのは碧じゃないのに」
 その声は私と同じように、少し震えていた。
 悪いのは碧じゃない――。
 そう聞いたとたん、私のなかにある感情がせきを切ったようにあふれだした。止めようと思っても止まらない。
 う、うッ、ぐふゥ、と変な声を洩らしながら、目尻をぬぐう。
 怖かった、苦しかった、怒られなかった……。打ち明けて、よかったんだよね?
 鼻水を垂らし、お母さんごめんなさいと呟くと、遮るようにお母さんが私の肩を抱き寄せた。
 私は手の甲で目を押さえ、うつむいているから何も見えない。
 ただ、とんとん、とんとん、とあやすように、お母さんが背中を軽く叩いてくれる。自分の顔のすぐ近くで、たばこと化粧品の混じった匂いが、体温と涙と汗で湿って強く香っている。紅玉さんと富江さんも私の背に手を添えてくれたようだった。暗闇のなか、いくつかの温かいぬくもりが背中にあてられた感触だけがある。誰も言葉にはしない。たぶん言葉にできることではないのだろう。
 とんとん、とんとん。心地よい、眠くなるようなリズムだけが伝わってくる。

(第5回につづく)

バックナンバー

麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

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