双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

終章

 

 大須の街を離れてだいぶ経ったというのに、ポンパルの店内は昔とまったく変わっていなかった。
 壁には翡翠ひすいを叩いて伸ばしたようなタイル、その下に並ぶのは赤いビロードを張った四人掛けの背の低い椅子とテーブル。全体的に洒落た造りをしているのだが、座っているのは買い物かごを抱えた主婦や、暇を持て余した普段着姿の老人や、平日の日中からのんびりしている得体の知れない中年男など――。私のよく知る、この街らしい庶民的な人々だ。
 いちばん奥の席に座りながら、私は人を待っていた。やってきたコーヒーを含むと、
「苦ッ……」
 と、思わず口をつく。あんなに飲み慣れていたコーヒーなのに……。自分でも不思議に思いながら、白いコーヒーカップを口から離し、底なし沼のように黒々とした液体を覗き込んだ。
 
 高校を卒業して東京に移り住み、映画会社に入ってからはとにかく忙しかった。そのくせ給料がべらぼうに安くて一向に上がらない。
 最初に入った映画会社には結局十年以上いたのだが、その半分以上の年数は雑用係のようなことをして過ごした。周りの男性たちは当たり前のように出世していくのに……と卑屈になることも多かった。悔しい思いをしながらも、必ず監督になってやると決めた私は、とにかく自分に与えられた仕事はどんなことでも黙々とこなしていった。
 会社の細かいことは野坂に聞けばだいたいわかる。そう言われるようになったときには入社して六年が経過していた。そんなとき、私より少し先に入社して、すでに監督になっていた人物が自分の映画の助監督――複数いる助監督のいちばん下っ端ではあったが――に抜擢してくれたのだ。時代物と現代物のアクション映画ばかりを撮っている監督で、どうやら私の小道具の知識の多さや、現場を動き回るときの俊敏さなどを買ってくれたようだった。
 撮影の仕事に携われるようになってからは「監督をやりたい」と言い続けた。まともに話を聞いてくれる人は少なかったが、とにかく捨て鉢になってはいけない。何度も自分に言い聞かせ、与えられた仕事は粛々とやり遂げた。
 そうして三十になり、女だからとあまり揶揄されなくなった頃、それなりに固定ファンのついている中堅クラスの監督が、「自分で書いた脚本があるなら持ってこい」と言ってくれたのだ。その監督は人の心の深い部分を丁寧にすくい取る人間ドラマを得意とし、映画はなるべく、じっくり作り上げたいという考え方を持っていた。だから大量生産を主とする当時在籍していた映画会社の枠に、はまり切らないところがあった。――その人こそが今、私が師事している監督である。
 監督はのちに映画会社から独立し、自分の会社を設立した。その際、彼は正式な“監督候補”として私を自分の会社に引き抜いてくれたのだ。それが二年前のことである。
 
 ポンパルのコーヒーをゆっくり味わうのは、十年ぶりくらいかもしれない。
 二十代の頃、仕事がつらいあまり、里心が強かった私は年末年始など短い期間を見つけては帰省していた。しかし慌ただしいなかを縫っての帰省だったから、この店に寄る余裕などなかったのだ。
 東京へ出てからの記憶をたどりながら飲んだふた口目は、逆にその苦さが身に染みた。慣れるとおいしいんだよね……。そう思いながらぐっと飲んだとき――。
 ドアチャイムを鳴らして入ってきたのは山高さんだった。相変わらず山高帽に黒マントを羽織り、高下駄を履いてゆらりゆらりと歩いてくる。その姿に、初見であろう客が驚いて二度見している。
 あえてそしらぬふりをしていると、彼は迷いもせずに「よう」と言って私の前に立った。
「俺を呼び出すなんてたいした自信だな。ついに監督さんのお出ましか」
 山高さんは帽子を押さえながらにやりと笑い、マントを脱いで壁に掛けた。相変わらずの着流し姿だが、前より白髪が増えて顔の皺が深くなっている。
 大須を離れてから十四年が経過した今日は昭和五十三年の四月――。私が三十二歳だから、山高さんは六十代半ばくらいだろうか。
 山高さんは私の前に座ると、すっと手を伸ばしてきた。
「よく業界を生き残ったな、碧」
「ありがとう。でも、まだ監督じゃないよ。助監督」
 かつて私の頭を乱暴に撫でていた大きな手と握手を交わした。ごつごつした男性らしい手だが、指で押したときの皮膚の薄さに年齢を感じる。
「この前の映画観たぞ。エンドロールに名前が出るなんて、たいしたもんだ。次は監督として映画を撮るんだろ?」
「うん、その予定。まだ油断はできないけど」
 かつて山高さんに言われたことを私はよくおぼえていた。――諦めさえしなければ、映画監督になるべき人間はなる、特別なことじゃない。
 本当にその通りだった。二十代から三十代の間、私と同じ時期に入社した映画関係者はどんどん辞めていなくなっていった。身体をこわした、まともな生活がしたい、給料が安すぎる、普通の女の子になりたい……。
 窓の外に、入口の方へ早足で向かう人影が見えた。昔はお客さんの喧騒でドアチャイムの音も聞こえないほどだったが、前より少し客が減ったせいだろう。今日はよく聞こえてくる。
 入ってきたのはサングラスをかけた紅玉さんだった。コートを肩にひっかけ、春らしい水色のサマーニットの下には腰の線がきれいに見えるタイトスカートを穿いて、ハイヒールでつかつかと歩いてくる。
「あんたは相変わらず変わらないねえ……。なんだいその時代錯誤な格好は」
 紅玉さんは山高さんにそう言い放つと、私の隣に座った。鞄からタバコを取り出し、肩くらいの長さまである髪をさッとかき上げる。
「火……誰かくれないの?」
「昔みてェに若い男はいねえんだ。娯楽が減ったせいで、よそへ行っちまったからな」
「そうみたいね」
 山高さんがテーブルに置いてあるマッチを擦って火を点けてやると、紅玉さんはうまそうにたばこを吸った。
 私はわくわくしながら、煙を吐く彼女の肩を叩いてやる。紅玉さんは隣に座る私を見てからサングラスを下にずらし、にッと口角を上げた。
「碧、久しぶりだね」
「紅玉さんこそ!」
 四十を越えた彼女は痩せていた二十代の頃より、身体にうっすら脂肪がついて女っぷりが上がっている。サングラスを外してたばこを灰皿に置くと、私の手を取り、自分の両手で包み込んだ。その指先は冷たいが、てのひらはじんわりと温かい。
「今帰ってきたの?」
「そうさ。かわいいあんたが久々に会いたいって言うんだから、飛んできたんだよ。あら……」
 手の感触でわかったらしい、紅玉さんは私の腕に目を落とした。
「こんなとこに……。どうしたんだい?」
 火傷の痕が、腕の内側から外側に向かって広がっている。
「火薬を扱うシーンで逃げ遅れちゃって……」
「……」
 紅玉さんは眉を寄せ、今度は別の切り傷を見つけて深いため息を吐いた。
「それは……殺陣たてのリハーサルを役者の代わりにやったときに、ちょっとね」
「映画の世界ってのは、女相手に容赦なしなの?」
「女だから容赦なしなんだろ。映画の世界は男社会だからな。男と女、両方からいろんな感情をぶつけられることだってあるだろ」
 山高さんが呟くと、そんな、と非難するように紅玉さんが目をむいた。
 ごまかすように笑っていると、目を伏せた紅玉さんが私の腕をつかんだまま言った。
「そんな世界を碧は十五年近く渡り歩いてきたんだねえ。富さんがこの傷を見たら、なんて言うだろう……」
「富江だったらすぐだ。腕まくって映画会社まで怒鳴り込みに行くだろうな」
 山高さんが頭のてっぺんに指でつのをふたつ作ると、ふふ、と紅玉さんが顔を上げて笑った。
「もう傷のことはいいよ。この仕事に就いてたら、こんなのしょっちゅうだからさ」
 短い襟足を撫でながらそう伝えた。撮影が忙しくなるにつれて、私のおかっぱ頭の髪はどんどん短くなっていき、今はショートカットだ。
「こんな男みたいな髪型してても、師匠とできてるとか、変な噂立てられたりするんだよ。笑っちゃうよね」
「損だな」
 山高さんは当たり前のように言ったが、紅玉さんは口をひん曲げている。
 私が次の映画で監督を務めると発表したとき、女監督というのが珍しいせいか、「子弟関係を越えた関係」と業界で変な噂を立てられたこともあったのだ。
 山高さんが尋ねる。
「それでおまえの師匠は、その噂についてなんて言ったんだ」
「『言いたいやつには言わせておけ、目の前のことに集中しろ』って。それだけ」
「いいやつだな」山高さんは顎を撫でた。
「うん。怒るとおっかないけど、師匠は小道具の知識とかそういう部分だけじゃなくて……ちゃんと私の脚本を読んで評価してくれた人だから。私が長い助監督時代を抜けることができたのは、本当にあの人のおかげなんだ」
「苦労したんだねえ……。でも見てくれてる人は、ちゃーんと見てくれてるもんだよ」
 明るい表情に戻った紅玉さんがそう言った。
 それは確かだった。
 そして同じくらい、東京へ行ってから山高さんと紅玉さんに助けられたという思いも、私にはあった。
 山高さんと同じ“元弁士”という人物は、映画館の支配人だったり、映画会社の社長になっている人が多かった。みんな映画を愛していて、最後まで映画に寄り添いたいという思いがあるのだろう。「山田隆の知り合いなら」と、ある支配人が経営する映画館で、私はたくさんの無声映画を特別に見せてもらい、勉強させてもらった。
 撮影中に脱ぎ役の女優がこなくて現場が大混乱に陥ったとき、都内のストリップ劇場へ走り、紅玉さんの名を出して頼み込むと、「いいよ」のひと言で脱いでくれた踊り子さんがいた。おかげで撮影が無事終わったというのもあり、それ以降、私は少しだけ仕事がやりやすくなった。
 だからこそ今回、「初監督映画を撮ってみないか」と師匠である監督に言われたとき、それなら大須の街を舞台にしたいと申し出た。そして会社からオーケーが出たら必ず、山高さんと紅玉さんの二人に相談しようと決めていたのだ。
「それにしてもまさか『大奥』が潰れて、その跡地が演芸場になるなんて思わなかったよ」
「時代の流れだな」
 向かいの山高さんと私の隣に座る紅玉さん。二人の会話を聞きながら、ポンパルのコーヒーを飲んだ。やっと口が慣れてきたらしい。おいしい、と素直な感想を漏らし、またひと口含んだ。
 東京へ出て孤独を味わうたびに、私は十代の頃のことをよく思い出した。結局、大須にいた頃の私はとても恵まれていたし、街の人たちに守られていた。そう気づくことができたのは東京へ出てからだった。「守られていた」という芯のようなものがあったからこそ、私は今日までなんとかやってこれたように思うのだ。自分の心をむやみに傷つけたり、粗雑に扱うことは、私を守ってくれた人たちの思いを台無しにするのと同じだから。
 いずれにしても駆け出しではあるが、なんとか映画監督としてこの地に帰ってくることができた。その嬉しさを噛みしめながら窓の外へ目を向けると……、シャッターの閉まった空き店舗ばかりが並ぶ道を、腰の曲がった老人が歩いていくところだった。
 みんなは今頃どうしているだろう。思い出すようにふと考える。
 名クロ記者の神谷さんは、名クロの縮小に伴い、別の新聞社に転職した。市電運転手の平野さんは昭和四十九年に市電が全廃されてからは、地下鉄職員として働いている。久美ちゃんとかつら屋のみどりちゃんは大須の外へ嫁いでいった。きしめん屋の一平さんは、お客さんの入りそうな土地に店を移転させたと聞いた。
 同じ長屋で暮らしていた鶴さんと上田さん夫婦は十年ほど前に亡くなった。
 大須商店街は神谷さんが言っていた通り、高度成長と真逆の道を進んでいき、今はまさに隙間風の吹きすさぶ……
「ゴーストタウンって感じだね」
「ここまでくりゃあ逆になんでもできるような気もするな」
 紅玉さんが頬杖をつき、山高さんは杖の柄を布で磨いている。
 息を吸うと、私は両手を三べん高らかに打ち鳴らした。二人が驚いたようにこっちを見る。
「さあ同窓会はここまで。とにかく私は電話で言ったように、この街を私の映画でなんとか立て直したいと思ってる。だから協力してよ」
 お願いするように手を合わせると、たばこの火を灰皿で消した紅玉さんが言う。
「商店街のお偉方はなんと言ってるんだい? 頭の固いジジイばっかりだったら、映画を撮りたいとか、街を立て直したいなんて言っても、『今のままでいい』『ヨソ者は余計なことはするな』とか言うんじゃないの?」
「大須の人がそういうことを言うかな?」
「さあ、新しいものを取り入れようとしないから、こんなありさまになったんじゃないの? いろんな人がいるからねえ」
「おっと……。ちょっと待て」
 山高さんが杖の柄をこちらに向けると、コンコンとテーブルを叩いた。まるで自宅の応接間にいるみたいな顔で座っている。
「ごく最近の街の動きを知ってるか?」
 首を横に振ってから問うように紅玉さんを見ると、「あたしだって知らないよ。ほら、大奥がなくなってからは、大阪を中心にいろんなとこを回ってるから」と言う。すると山高さんは少し身を乗り出した。
「この街には金がねえ。それは事実だ。昭和四十五年にやっと大須観音の本堂が再建されたんだが、オイルショックの影響で寺側は借金を払えなくてな、結局土地を売って対処した」
 ああ、と、紅玉さんが露骨にため息をつく。
「話はここからだ。大須観音を再建するときは、昔の大須みてェにな、街をあげての一大イベントになった。で、そのイベントを仕切っていたのがこのあたりの青年会だったんだ。そいつらが昭和五十年にまた大須の街全体を使う新しい祭りをやった」
「新しい祭り? あたしは知らないけど……。碧は?」
「知らなかった」
 三年前は、前の会社で助監督として必死に現場を駆け回っていた頃だ。山高さんが続ける。
「その祭りがな、驚くなよ。三十万人も参加する一大イベントになったんだ」
「三十万人!」と、紅玉さんが声を張りあげた。
「ああ。『官制ではない市民の祭りをやろう』ってテーマでもって、この街の区画をめいっぱい使ってな。ファッションショーやバザーやモチつき大会、ロックコンサートに屋外麻雀、囲碁、将棋。ビアガーデンに夜店もずらりと並んでなんでもありだ。車は全部街の外に追っ払って、移動はつじかごを使う『アンチ・モータリゼーション』ときたもんだ」
 すごい、と呟きながら、とくとくと心臓の動きが速くなる。
 それこそまさに、かつて私がこの“ごった煮の街”で見てきた賑わいの姿ではないか。市電がなくなったという点を除けば――。
「やっぱり街を活気づけるのは若い衆だね」
 と、紅玉さんが口の端を上げる。
「そうだ。若いやつらは若いやつらなりに、この街の昔の賑わいをおぼえていて、それを自分たちの力で今の風潮にも合うように取り戻そうとしてるんだ。それでな……」
 山高さんが慎重な面持ちで、さらに身を屈めたので、つい私も同じ格好をした。
「今年の秋にその青年会が大道芸人を呼んで、街全体を使った大道芸を中心としたドでかい祭りをするらしい」
「へえ! 外から呼ぶってのがいいじゃないか。閉じた感じがなくってさ」
 だろ、と言って背をそらした山高さんは紅玉さんへ視線を送ったあと、私を見た。
「なあ、碧。おまえはこの前俺と電話で話したときに、この街を舞台にドキュメンタリー映画を撮って盛り上げるなんて言っていたが……、ゴーストタウンだと思ってちぃとばかし高を括ってたんじゃねえのか? まだこの街はそんなに弱ってねえようだぜ」
「死んだと思っていた街は生きていた、か……。まるで妖怪みたいだね」
 そう言いながら私は、二杯目に頼んだアイスコーヒーのくしゃくしゃに縮ませたストローの包み紙の上から、ストローに吸わせた水をかけた。紙は命を得たように身をくねらせて動きだす。
 じっと考えを巡らせてから顔を上げた。
「わかった。それなら私はその大道芸の祭りを企画する若者たちを主役に据えて、ドキュメンタリーを撮る」
 山高さんが目を細めて、うーんと唸る。
「しかしなあ……。おまえみてェな玄人が若者に口出ししたら、なんていうか……祭りがうまくまとまっちまって、おもしろくなくなるだろ」
 待ってましたとばかりに肩をすくめ、私は外国人風に両手を広げた。
「その通り。だから私は彼らの意見に口出しはしない。むしろ祭りを作り上げるさなかの、人と人とがぶつかって試行錯誤するような、泥臭い部分を撮りたいと思ってる。撮られる方は嫌だと思うかもしれないけど、漫然と祭りを実行するより、カメラを向けられることで緊張感も高まって、いい刺激にもなるんじゃないかな。もちろんやらせは一切なし」
 なるほどなあ、と呟く山高さんはまだ少し不安そうだ。
「みっともねえところも含めて、ありのままを撮るってことだろ。そんな映画見たことねえからなあ……。俺なんかはドキュメンタリーっていうとプロパガンダのイメージが強いから」
「え? なんだい? プロパンガス?」
「似たようなもんだ」
 山高さんが軽んじた言い方をすると、紅玉さんがこめかみに血管を浮かせた。まあまあとなだめてから切り出す。
「ところでさ、山高さんと紅玉さんもせっかく戻ってきたんだから、お祭りに出てみたらどうかな?」
「祭りに出る? 俺たちの芸は道でおおっぴらにやるようなもんじゃねえぞ」
「で、たとえばなにをするんだい?」と、紅玉さんが首をひねった。
「劇団『地下』は素っ裸で高尚なダンスをやっていたけど、とにかく今回はパンツを穿いてもらう。それでもう少し庶民の嗜好に寄せたダンスを披露する。紅玉さんは上も下も隠して……、今はストリップ芸に加えて他になにをやってるんだっけ?」
「ポールダンスとベリーダンス。ストリップだけじゃ食っていけないからね」
「それならストリップ風にそっちをやればいい」
「でも、道でやるってことは子供も見るんだろ……?」
 紅玉さんは耳を赤くし、肩を縮ませ、はにかんだ。
「そこはギリギリのバランスで調整してよ。女の人の鍛え上げられた“見せる芸”を見たいと思うのはきっと、男の人だけじゃない。逆に男の立派な裸を見たいと思ってる人だっていると思う、街の奥さんたちとか……。そこはどーんと見せないと。祭りは上品ぶってたらつまらないよ。ここがどこだと思ってんの? 大須だよ? 規模は小さくても、うつわだけはでかい街なんだ。おもしろいかおもしろくないか、つらいことを一瞬でも忘れさせてくれる吸引力があるかないか、それだけだよ。下品だなんて上から言ってくるやつなんてクソくらえだ!」
 パチンと山高さんが指を鳴らした。
「よくわかってんじゃねえか、碧! いかがわしい劇団『地下』が地上に這い出て、ストリップ劇場『大奥』がついに奥地から出てくるってわけだな。もともと遊郭があった街だから、身体を張った芸が光るのは当たりまえだ」
「そうそう」
 私は山高さんと目を合わせ、にやりと、したたかな笑いを交換し合った。
「だが、主役はあくまでも若い青年団のやつらだからな。決めるのもやつらだ」
「もちろん。老兵はただ消え去るのみ……じゃなくって、さらにいいものにするために、彼らが困ったときだけ助言して、あとは彼らの姿を記録に残すのみ」
「いいじゃねェか、俺は大道芸の件、受けて立つぜ」
「ほんとに、できるのかねえ?」と紅玉さん。
「やるんだよ」
 私はきっぱりと言い放った。
 きっと、みんな、楽しく騙されたいんだ。お祭りの一瞬が、つらい日常の支えとなるはずだから。
 青年団の代表に店内の公衆電話から電話を入れると、すぐに連絡がついた。さっそく向かうことにする。伝票をつかもうとしたら、山高さんがさッと奪い取ってしまった。
 碧、と言ってまぶしそうな目で私を見上げる。
「ついに俺たちとサシで話し合えるようになったな」
「そうだねえ。でも、意外とあたしたちが退化して、碧が先に行っちまっただけかもよ」
「違ェねえ」
 聞きながらつい頬がゆるんだ。笑い合う山高さんと紅玉さんの二人に、「じゃ、また今度」と伝えてポンパルをあとにした。

 祭りを企画する代表者は、つい先日大学を卒業したばかりだという材木問屋の息子だった。
 作業着姿で現れた彼は喜びを隠そうともせずに、ドキュメンタリー映画として撮影する件について歓迎してくれた。けれどいったん青年会のみんなに聞いてから返事をするという。
「必ず結果は連絡しますから」
 そう言って、熱意にあふれた瞳で握手を求めてきた。
 まだ油断はできないが……、あの様子なら撮影を許可してくれるような気がする。
 それから、久しぶりに堀川を渡る石橋を歩いた。川沿いには今も材木問屋がたくさん並び、きれいとはいえない人工の川には、私が小さい頃と同じように、丸太がごろごろ浮いている。昔はよく、その上に乗って怒られていた子供を見たものだ。ざっと見渡す限り、伊勢湾台風で破壊された形跡は残っていないようだった。
 富江さんの長屋は老朽化のため、八軒すべてが十年前に取り壊された。
 間口の狭い、うなぎの寝床のような四軒分の長屋は、今はお母さんと忠さんが暮らす、小さな二階建ての家と庭に変わっている。通りを隔てた向かい側の、四軒あった土地には新しい家が建ち、住んでいるのは私の知らない人だ。
 思い返すと家に帰るのはおよそ二年ぶりだった。新しい映画会社に移ってからは「監督一作目」の依頼を受けるために必死だった。つい先日帰省したような気がしてしまうのだが……、そうか、二年ぶりだったのか。
 家は二年前と同じく、背の低い生け垣でおおわれていた。その上からひょいと窺い見た途端、あッ、と声が洩れた。
大量のつつじが庭を埋め尽くすように咲き乱れていた。ピンク、白、黄色、紫、朱色―
―。規則正しく、なおかつところどころ野放図に配置された花々は、淡い色も濃い色もすべて満開だった。
 飛び石の上を歩いてつつじの海の中央に立つと、それらは忘れていたなにかを私に連想させた。大切ななにか……。
 だめだ、言葉が出てこない。二年前は盆栽や庭石が適当に置かれただけの殺風景な庭だったのに、ずいぶん様子が変わっている。
 しばらくぼんやり眺めていると、碧、と、背後で声がした。
 振り返ると買い物用の手提げを持ったお母さんが立っている。
「おかえり、元気だった?」
 お母さんはラベンダー色のスカートを穿いていた。前に帰省したときより顔がふっくらしている。目の横の皺の数も増えて、白かった肌が健康的に焼けている。でも声の調子や全体的な雰囲気は変わらない。
 今日、家に帰ることは先に電話で伝えていた。けれど二年ぶりにお母さんの顔を見たら、胸につかえていた寄る辺ないものが、たちまちぽんと弾け飛んだ。頭で考えるより先に言葉が飛び出す。
「この庭……、なんだか花電車の壁面みたいだね」
「あら、素人仕事なのによくわかったわね」
「うん、今わかった」
 ただし目の前にあるのは造花ではない。地面にしっかりと根を張っている。
「忠さんがね、市電がなくなっちゃったから碧が淋しがるだろうって……、二年くらい前から急に買ってきて、どんどん植え出したの」
「へえ――」
 忠さんは日中、大学の図書館で働いている。夕方になったら帰ってくるだろう。
 お母さんはゆったりした様子で庭を眺めながら話す。
「それにしてもつつじって強い木なのねえ。それに庭いじりって意外と楽しいのよ。ホースで高く水を撒くと虹ができたりして」
 無邪気に話すお母さんを見たら、ほっとした。年相応に老けてはいるが、顔色もいいし健康そうだ。
「碧、おめでとう。今度は監督として映画を作るなんて、すごいわねえ」
「まだまだだよ……」
 下を向いて頭を振ると、お母さんの片手がそっと私の前髪に触れた。軽く髪を掻き上げて、こめかみについた傷を見つけたらしい。
「あら……。どうしたの、これ」
「移動するときの大道具が当たって、ちょっとね」
「なんだか縫ったみたいね」
「うん、でも勲章みたいなもんだよ」
 お母さんはしばらく黙ったあと、髪に添えていた手を下ろし、私の顔を覗き込んだ。
「身体は、大丈夫なの?」
「大丈夫」
「……」
 わずかに眉を寄せたお母さんは、私の隣に並ぶと、後ろから肩を抱くように手を回した。つつじの庭の方を眺めながら、腕のあたりをぽんぽんと叩いてくれる。
「一所懸命生きていたら、大丈夫じゃないことも、あるのかもしれないわね」
 私は前を向いた。胸の芯がぐっと潰れそうで苦しい。けれど、もう大人だから、その思いは押し隠す。
「うん、まあね」
「元気なふりをしなくちゃならないことも、あるの?」
「うん、いろいろある。本当にいろいろあったけど、でも……」
「ええ」
「わからない、ごめん……」
 うつむいて首を振った。自分でもなにが言いたいのかよくわからなかった。でも、たぶん、純粋に、母親に甘えたかっただけなのだろう。嫁入り前の娘に怪我をさせたら許さないと言って守ってもらった身体を、傷つけて申し訳ないという気持ちがあったのだろう。
「大丈夫じゃなくって、碧はいろいろあったのね。いいことも、悪いことも、きれいなことばっかりじゃない。生きていたら全部あって当たり前。それでいいのよ。それにね、あまり私のことを気にしないで。もっと自分のことを考えなさい」
 黙って前を見ていると、背後からびゅんと強い風が吹いた。
 私たちは悲鳴をあげて、髪を押さえながら身体を前に倒してやり過ごす。春の嵐だ――。私の後頭部に、こつんとなにかが当たって落ちる。拾うと、それは熟れ始めた枇杷の実だった。てのひらに乗せて、
「富江さんかな」
 と言うと、お母さんは嬉しそうに頬をゆるめた。
 なんだか富江さんが、前を向けと言ってくれたような気がした。まだまだこれからだよと励ましてくれているような気がした。枇杷をむいて大きな口で食べてしまった彼女の姿を思い出す。
「あ、そうそう」
 と、お母さんが声をあげた。
「さっき四人くらい東京の言葉を話す若い人が、寄り道しながらこっちに向かって歩いているようだったけど……。もしかして昨日、碧が電話で言っていた撮影のお仲間じゃないかしら?」
「うん、たぶん会社の仲間だと思う。撮影前の下見で呼んだから」
「あら、じゃあ早く晩ご飯の準備をしないと」
 準備? 不思議に思っていると、お母さんは少し怒った顔をする。
「わざわざ東京からきてくださったんだから、ご飯くらい食べていってもらわないと」
「でも、忠さんも入れたらけっこうな人数になるけど……」
 お母さんは胸を張って、今度は力強く私の肩を叩いた。
「ちゃんと昨日から準備してあるの。もちろん今日はひきずり鍋よ」
 やったあ! と思わず声をあげてしまった。
 少しずつ、がやがやと賑やかな男女の声が近づいてくる。
 ここかな……? すみませーん、と庭の向こうから複数の声が聞こえた。夕陽を受けて立っている仲間たちは、きらきらと輝いている。まるで未来の光に包まれているみたいに。
 前だけを見ていよう。ここまできてくれた仲間たちと必ず映画を完成させよう。
 そして、この街の人たちに観てもらいたい。花電車はなくなって、その代わりになれるかどうかは、わからないけれど――。
 そんな思いが、じわりと胸に込み上げてきた。
「私もいっしょにご挨拶させて。碧を支えてくれる人たちでしょ」
「うん」
「行こう、碧」
「――ありがとう、お母さん」
 お母さんと視線を交わし、夕陽のまばゆさに目を細めながら、私はつつじの海を越える。
 新しい仲間たちの方へ、一歩ずつ踏み出した。
【了】

バックナンバー

麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

  • 双葉社
  • 小説推理
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