双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

【三】碧と花電車の街

 富江さんは救急車に乗せられ、お母さんといっしょに行ってしまった。
 緊急を要するために同乗できなかった私は、富江さんの運ばれた病院へ制服のまま、市電を乗り継いで向かった。けれど移動中は変に足元がふわふわして、世界から色や音が抜け落ちてしまったような、奇妙な感覚に包まれていた。
 病院に着き、受付で聞いた通りに富江さんのいる場所へ行くと、うつむいて椅子に座るお母さんの姿があった。そこで初めて自分の息がはあはあと上がっていることに気がついた。私の靴の先を目にしたお母さんが静かに顔を上げ、
「まだなにも、わからないのよ……」
 と言って途方に暮れたように緊急治療室の方を見る。
 
「福島富江さんの、身内の方?」
 看護婦さんが立っていた。壁の時計はとっくに午後三時を回っている。
「あの、私たちは同じ長屋で、家族に近い付き合いをさせてもらっている者ですが……」
「身内の方は?」
「富江さんのご主人と息子さんは、二人とも戦争で……」
 看護婦さんは納得したようだった。似たような境遇の人が少なくないからかもしれない。どうぞと言われて入った部屋は薬品の匂いに満ちていて、椅子に座る年配の担当医は、さっきまで処置をしていたとは思えないほど落ち着き払っている。だから私は少しほっとした。でも、それは、本当に一瞬だけのことだった。
「急性の循環機能不全……つまり心不全です。手は尽くしましたが、いつ急変するかわからない状態です。覚悟は決めておいてください」
 え、と声をあげたお母さんが前のめりになる。
「覚悟って……、あの……」
「もって一、二週間かもしれません」
 お母さんの拳が、膝の上で小刻みに震えだした。担当医は富江さんの心臓の写真をペンでいろいろ示しながら説明する。
「体調のことでなにか気づいたことはありませんか?」
 お母さんが考え込んでいる横で私が伝えた。
「あの……少し前の朝に、身体がだるいと言ってました」
「なるほど。まだまだ寒い日もありますし、その頃から兆候があったのかもしれませんね。病名を聞いてもピンとこないかもしれませんが、左心房の働きが不十分な状態でして……」
「あ、あの」お母さんは白くなるほど手を握りしめている。「手術は、できないんでしょうか?」
「難しいですね。やっているところもあるかもしれませんが……女性の平均寿命が七十歳くらいですから、福島さんの六十代という年齢は少し早いですが、早すぎるということもありませんし……」
「手術をしたらよくなるんでしょうか……?」
「少しくらいは……、まあ、はっきりは言えません」
 担当医は厳しい表情を崩さない。
「ええ、そんな。はあ……」
 呆然とするお母さんは、ため息とも返事ともつきかねるような声を洩らした。

 六人部屋の窓際で眠る富江さんの回りはカーテンで区切られていた。ベッドをのぞくと青白い顔で目を閉じて、酸素マスクをつけている。
 病院から出ると外は真っ暗だった。四月だが肩に力がこもるほど寒い晩だ。市電に乗っている間、お母さんはひと言も口をきかず、私もなにも言わなかった。
 覚悟は決めておいてください……。一、二週間……。
 担当医の言葉を思い出すたびに胸が詰まって呼吸が浅くなる。
 長屋に着くとすぐさま鶴さんがやってきて、お母さんの会社と夜間中学、そして私の学校の方へは近所の人の電話を借りて、休む連絡を入れたと教えてくれた。
 お母さんが富江さんの状況を伝えると、能面顔をした鶴さんの目からぽろりとひと粒だけ涙が落ちた。それをさッと割烹着の端で押さえて、すぐに私たちを手招きする。
「さ、温かい食事を用意してありますから、どうぞあがっていってください。今日はお疲れになったでしょう」
「ありがとう、鶴さん」
 と言うと、鶴さんは両手を前で揃えたまま暗闇に白い息を吐いた。
「ばあやとかねえやとか……いろいろ呼ばれてまいりましたが、私の名前をきちんと呼んでくださったのは富江さんと、この家の方たちだけでございます」
 鶴さんの作ってくれたおみおつけは、おが入っていた。口に含むと熱いお出汁を吸ったお麩の柔らかさに、少しだけ気持ちがやわらいだ。
 その晩寝ているときに、寒々しい風の音に交じって、押し殺すような泣き声が聞こえてきた。寝返りを打って小さな声で話しかける。
「お母さん……大丈夫?」
 泣き声がぴたりと止んで、隣の布団の黒い影が動いた。
「大丈夫よ。ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。なんだか眠れなくって……」
「碧、こっちにくる?」
 お母さんが布団を開けてくれた。恥ずかしいという思いはあったが、はなを啜ると素直にお母さんの布団へ移った。普段は気にならない柱時計のチクタク鳴る音が、今日はやたらと耳に残り、なにかの残り時間を刻んでいるような妄想さえ抱かせる。
「あの、今日ね」
「うん」
「前に身体がだるいって富江さんが言ってたのは、病気の兆候だったのかもしれないって先生が言ったことが、ずっと胸に引っ掛かってて……。私、なにも気づいてあげられなかった……」
 病院にいたときから気になっていたことを口にした途端、後悔の念が強くなり涙があふれた。「どうしよう……。富江さんが、あと一、二週間って……私のせいかもしれない」
 お母さんは私を抱き寄せ、しゃくり上げる私の頭を撫でながら囁く。
「なに言ってるの、碧のせいのわけないでしょ。大人の病気が子供のせいだなんてこと絶対にない。それにね、もし今の言葉を富江さんが聞いたらなんて言うと思う? 『自分の身体のことくらい自分がいちばんわかってるんだよ、勝手に決めつけないでほしいねえ、まったく』……でしょ?」
 両手で涙を拭いながら、自分を落ち着かせようと何度も小さく頷いた。
 一人で考えるのをやめたからだろう。二人で話しているうちに、だんだん眠くなってくる。次第に恐ろしい風の音も時計の音も、眠りのなかに消えていった。
 翌日、学校を休んで私も病院について行くと言ったら、お母さんも鶴さんも反対した。
「なにかあったら学校の方に電話を入れるから」
 お母さんは厳しい顔でそう言って、鶴さんも同意する。
「おっしゃるとおり。学生の本分は学業でございます」
 けれどいざ学校に行ってみても、気持ちがそわそわと焦ってしまい、壁の時計ばかりを見てしまう。結局授業が終わるとアルバイトは久美ちゃんにお願いして、市電を乗り換えて病院まできてしまった。
 病院の建物は奥に行けば行くほど、薬品と、果物が甘く腐ったようなにおいが混じり、独特の臭気を生んでいた。焦る思いでカーテンを越えて行くと、枕に頭を預けた富江さんが、うっすら目を開けている。
「富江さん……、富江さん!」
 慌てて駆け寄ったものの、彼女の力強い目からは生気が抜けてしまったようだった。顔色も悪い。それ以上言葉にできずにいると、酸素マスクの向こうの口が「碧……」とか細い声を発した。
「うるさいねえ、聞こえてるんだよ。周りの患者さんに迷惑だろう」
 自分の口に急いで両手で蓋をする。
「でも……、今日はちゃんと学校に行ったんだね。偉いよ」
 富江さんはゆっくりと手を伸ばし、ベッドに添えた私の手の甲を、弱々しいながらも叩いてくれた。
 
 富江さんが入院して一週間が過ぎた。
 高校の授業が終わったあとに私はできるだけ病室を訪ねるようにしていた。お母さんは会社を長く休んでいられないから、夜学の授業だけは早く切り上げて、それからやってくることが多くなった。
 紅玉さんや神谷さんを連れて訪ねると、「早く元気になるんだよ。待ってるからね」と紅玉さんは言い、神谷さんは「前みたいに僕を怒鳴りつけない富江さんなんて、らしくないじゃないですか」と言って富江さんを笑わせていた。
 けれど、あまり長く話すと身体に負担をかけてしまう。長時間の滞在にはならないようにという気持ちと、できるだけ富江さんのそばにいたいという思いの狭間はざまで私は葛藤していた。もしかしたら、お母さんはもっとそうだったのかもしれない。
 ちなみに山高さんはというと一度だけ訪ねてきたのだという。
「目を覚ましたらね……、真っ黒な影が死神みたいに横の椅子に座ってたよ」
 縁起の悪い言葉にどきッとする。話題を変えようと思って尋ねた。
「山高さんはお見舞いになにか持ってきたの?」
「それがね、酒が飲めないんだから仕方がねえよなあ……なんて言って、握手だけして帰っていったよ。この部屋の他の患者全員にも同じことをしてたねえ」
「なにそれ、変なの」
 私が笑うと富江さんも目尻を下げた。それから少し息が速くなって、肩が上下し始めた。なにか意思を込めるように、ゆっくりとまばたきをする。入院した日に主治医の先生から聞いたことを思い出す――。
 日が経つにつれ心機能が低下してくる……。今後はベッドから起き上がることはできないと考えてもらったほうが……。
「もう無理に話さなくていいからね」
 富江さんが眠ったら静かに帰ろう。そう思っていると、碧、と声を発した――まさに「発した」という感じの大儀そうな様子だった――ので慌ててその口元に耳を寄せた。
「私は手術なんて、もうこの年でしたくないんだよ……。信ちゃんにも言ったけど、もう一度言っておくから……。わかったかい」
 途切れがちな声と、その内容に動揺しながらも尋ねた。
「お母さんが……手術を勧めてきたの?」
「してみたらどうかって聞いてくれたんだけど、そんなことしたってもう変わらないよ。前に何度か不整脈を指摘されたことだってあるから、自分の身体のことくらいわかってるさ。ただ、信ちゃんがおたおたしてるようだったから、碧にも念を押さないと……」
 速い呼吸が少しずつ寝息に変わっていく。
「わかった。わかったから休んで」
 富江さんはしっかり私の目を見ると、一度だけ頷き、そのうち眠ってしまった。その青白い顔に、声を張りあげていた頃の元気な富江さんの姿が重なると、涙が流れた。入院してからまだ一週間しか経っていないのに、日に日にやつれて別人のようになっていく……。
 病室をあとにした私は泣きながら一階のロビーまで階段を降りていった。
 と、わずかに電気が灯るだけの人けのない待ち合い所の椅子に、お母さんと男の人の姿がある。お母さんはハンケチを目に当てながら、ひそひそとなにか話しているようだった。もしかしたら近隣の病院に詳しい神谷さんを呼んだのだろうか……? 
 そっと回り込むと、あッ、と思わず声をあげてしまった。男の人は神谷さんではなく――忠さんだったからだ。
 条件反射のように身をひるがえし、走って表へ出た。忠さんの声と足音が追ってくる。
「待って! 碧ちゃん、待ってくれないか!」
 彼は何度か私と並走し追い越そうとしたけれど、こちらの方が足が速いものだから、結局忠さんを追い抜いてしまう。二百メートルほど走ったところでじれったくなり、あえて速度をゆるめると、やっと追いついた彼は倒れそうな勢いで必死に息を整えながら言った。「足が、速いんだね……」
「またお母さんになにか一方的にきついことを言ったんですか」
「まさか。ああ……でもそう思われても仕方がないよな、確かに……」
 睨むように見つめていると、忠さんは言葉を選ぶように話す。
「少しでも、きみたちの力になりたいと思って、きたんだよ」
 警戒の解けない私に向かって忠さんが続けた。「今日は大阪からきたんだ。富江さんのことはだいたい聞いた……。あの、この前は悪かった。もう僕は酒を飲むのを止めたよ。明らかに向いていないからね」
 彼は黒いズボンを穿いて奇抜な色のものは身につけていない。
「酒を飲んでいない普段の僕は、単なる世間知らずの、ひねくれた気の弱い男だよ。信じられないというなら、しばらく観察してくれたっていい。とにかく……信子さんがつらそうだったから、そばにいたいと思って……それだけなんだ」
 急に前と違うようなことを言うので戸惑っていると、彼が尋ねてきた。
「明日の夕方、空いてるかな? 信子さんは明日、夜学を休んでお見舞に行くって言っていたけど」
 忠さんは私の返事を待たずに、ポケットから手帳を取り出すと街灯の明かりを頼りに文字を書き、破り取って差し出した。
 中村オリエンタル百貨店の大食堂に夜の六時――と書いてある。病院からそれほど遠くはない。
「緊急のことがなければ明日、その時間にきてほしい。話したいことがある。大事なことなんだ」
 彼の真剣な様子を受け、私も答えていた。「わかりました」
「ところできみは今、大丈夫なの?」
「大丈夫です」
 忠さんは小さくため息を吐く。「大丈夫じゃない人ほど大丈夫だって即答するんだよな。きみは母親に似ているね。それじゃ、明日」
 そう言って大須とは別方向へ歩いていった。旅館かなにかに泊まっているのかもしれない。
 病院に戻る途中の道でお母さんと鉢合わせした。
「富江さん、もう寝ていたわ。遅いから今日は帰りましょ」
「うん」
「忠さん、なにか言ってた?」
「このまえは悪かったって」
「そう……」
「あと、富江さんが……手術なんてしたくないって言ってたよ」
 私の声の小さな宣告に、お母さんはたちまち顔をゆがめ、困惑を浮かべた。迷子になった子供のように、ひきつった調子で「わかってるのよ、わかってるんだけどね……」とくり返す。それ以上なにを言ったらいいのかわからなくて、震えているお母さんの手を握った。かさかさと痩せた冷たい手――。心ここにあらずといった目をして、握り返してはこない。

 百貨店の大食堂、そこは庶民が特別な時間を過ごす憧れの場所だ。入口に立って見渡すと、たくさんのテーブルと椅子が並び、ほとんどの席が埋まっている。いつもより着飾った大人や子供が、普段とは違うご馳走を前にはしゃいでいるようだった。
 最近ここへきたのは富江さんとだったことを思い出す。
 ――信ちゃんには内緒だよ。あんまり贅沢させるなって言われてるからね。
 そう言って、たまにご馳走を食べさせてくれたのだ。
 きょろきょろしていたせいだろう。ウェートレスさんが近くにきて、「どなたか待ち合わせですか」と言った。口ごもっていると、少し離れた窓際の席を手で示す。
「ほら、あそこで待ってらっしゃる方、もしかしてお父さんじゃない?」
 確かに緊張した面持ちの忠さんが座っていた。戸惑いながらお礼を言うと、「どうぞごゆっくり」と残して行ってしまった。
 たくさん人がいるのに、どうして忠さんと待ち合わせしているのだとわかったんだろう? もしかして顔が似ているから……? まさか、と、その考えを振り払ってからテーブルに向かう。あの、と声をかけると慌てた忠さんが、ガタガタと蹴倒すような音を立てながら立ち上がった。
「よかった、きてくれなかったらどうしようかと思って……。どうぞ座って」
 忠さんの前の席に座ると、彼は真っ白なテーブルクロスの上にメニューを開いた。
「まずは食事だ。好きなものを頼んでいいよ」
「……」
「別に食べ物で買収しようってわけじゃない。そうだ、カレーライスはどう? とんかつは食べられる?」
 頷くと、忠さんはカツカレーを二つ注文した。しばらくして銀の器に入ったハイカラなカレーと、きつね色のとんかつが乗ったご飯がやってきた。忠さんはカツカレーを運んできたウェートレスさんを見上げて「ありがとう」と言う。食べ終わったあとには「ごちそうさまでした」と手を合わせていた。
 いただきます、ごちそうさま、ありがとう――。
 誰にでも挨拶やお礼はきちんと言う。お母さんと忠さんは、この点がよく似ているような気がした。福井のお祖母ちゃんは粗野な感じなのに、どうしてだろう?
 すぐに思い当たった。お母さんはもしかしたら――忠さんの家で女中をしながら、挨拶をきちんとすることを学んだのかもしれない。そんなふうに思いをはせながら、食後のコーヒーを飲んでひと息ついたとき、突然、忠さんがテーブルから手を下ろして頭を下げた。
「この前は本当に悪いことをした。改めて謝るよ。ごめんなさい――」
 大人の男の人が、セーラー服を着た私に頭を下げている。周りに座る人たちの視線を一斉に浴びたので慌ててしまった。
「あの、はい。もうわかりましたから……。でも、もしかして……謝ろうと思ったのは富江さんの病気のことを聞いたからですか?」
「うん、それもある。でもそれ以上に……」
 忠さんはうつむいてから、ちらりと目を上げた。
「きみに、『お母さんを傷つけるだけの父親なんていらない』って言われたことが、いちばんの理由だよ。信子さんに会いたくて行ったのに、傷つけるなんて本末転倒じゃないかって……。大阪に帰ってから自分のことが恥ずかしくなって、いろいろ省みた。どうしてあんなことになったんだろう、僕は名古屋の人間ではないし、それに弱視のせいもあって、小さい頃から疎外感というか、劣等感の強いところがあったから。長屋のみんなで助け合って暮らしているきみたちに嫉妬しただけなのかもしれない。別に父親がいなくてもきみたちはやっていけるじゃないか、とかね……」
「……」
 自分の心境を素直に話す忠さんからは、ちゃぶ台をひっくり返していたときの横柄さや、隠しきれない不安そうな様子は感じられなかった。この人はいわゆる“おぼっちゃん”で、お酒さえ飲まなければむしろ心根の優しい人なのかもしれない。二十歳近く年の離れた私に対してきちんと頭を下げてくれるところは潔いし、それにそもそも、こんなふうに素直なところがある人だからこそ、お母さんが好きになったのかもしれない……。
 今のような大事だいじの際には、多くの人の助けが必要なのだ。伊勢湾台風の前の準備のときにお母さんも言っていた。――困ったときはいろんな人に声をかけて助けてもらえばいいのだ、と。
 深夜に布団のなかで泣いていたお母さんのことを思い出す。
 私は富江さんのように、お母さんの抱える事情や悲しみをまるごと受け止めることができない。現に、富江さんの手術のことで動転していたお母さんを、どう受け止めたらいいのかわからなかった。それどころか私の方が布団に入れてもらって、慰められたくらいだ。
 お酒を飲まない今の忠さんなら、お母さんの悲しみを抱き止めてくれるかもしれない。どうか、そうあってほしい……。そんな願いを込めて慎重に言葉を選びながら伝えた。
「あの、うちのお母さん、今とっても大変だと思います。忠さんが昔の忠さんみたいになって、お母さんのことを支えてくれると嬉しいです」
 一瞬だけほっとした表情を浮かべたが、すぐに彼は顔を引き締めた。
「うん。でも……そこまで高校生のきみに言わせてしまうなんて情けないな……。そうだ、今日はとにかく僕と信子さんの馴れ初めについて話そうと思っていたんだ」
「馴れ初め……ですか」
「ああ。食事の場にこんなものを出すのは少々行儀が悪いかもしれないが」
 忠さんはリュックから長方形の紙箱を出すと、その蓋を開けた。それはちまたでよく見る十六色入りのクレパスだった。そのなかの二本を指さす。
「今から変なことを聞くよ。この色とこの色は、何色に見える?」
「……青と紫、ですよね」
「僕にはこの二色が、濃淡の違いはあるけれど、似た感じの色に見えるんだ」
 一瞬、彼の言葉の意味がわからなかった。さらに別の色を指す。
「これとこれは?」
「赤と緑――」
「これもかなり近い色に見える。僕にとって赤と緑は――この黄土色のクレパスと同じような色に見えるんだ。少し茶色い枯れた葉っぱの色というのかな……。僕は弱視だと前に言ったが、ただ視力が悪いだけじゃない。色を見分けるのも得意じゃないんだよ」
 色盲の検査って学校で受けなかったかな、と忠さんが加えた。
 あッ、と、胸に針を刺されたような痛みが走る。身体検査のときに、みんなが並ぶ列から一人だけよけられていた男の子がいた。自分だけ違うという悔しさと羞恥をにじませながら、必死に動揺を隠すように直立していた。その光景を思い出すのと同時に、小さい頃から疎外感の強いところがあった、と忠さんが言った意味も傷がしみるように伝わってくる。
「きみは僕のズボンを見て変な格好の人だと言ったね。僕としては少しくすんだ青色のズボンを穿いて、粋ななりをしているつもりだったんだけど……、どうやら実際は紫色のものを穿いていたらしい」
 どっと毛穴から汗が湧いて、たちまち背中を流れていった。私は忠さんの赤いズボンの色さえも非難の目で見ていたのだ。
「――ごめんなさい! 私、なんて失礼なことを……」
「いやいや」と忠さんが慌てて話す。「最初から言わなかった僕も悪いんだ……。服を買うときはいつも店の人に何色か確認してから買うようにしていたんだけど、最近はそれをやっていなかったから、久しぶりにやらかしたんだなと思って。僕なりに色の見え方の違いを学習して、もう大きな間違いはしないようになったと思っていたんだけど……やっぱりまだまだだな。青と紫、灰色と桃色、赤と緑――。これらの二色の差が、明暗の程度とか天気の変化にもよるんだけど、特に僕はわかりにくいんだ。似た感じのくすんだ色に見えてしまって見分けるのが難しい」
 忠さんは顎に手を添えて考えるような仕草をする。
「特に赤と緑には悩まされたんだ。赤色っていうのは注意を促す色で、街中のいろんな場所で使われている。それが僕にはわかりにくい。あと赤と黒もそうだな。学生の頃は、教師に細い赤ペンでノートに注意を書かれると、鉛筆の字と判別しにくくて、いらいらした。戦争では『赤いランプを押せ』と上官に命令されても、焦ってぱっと見た限りでは黄色も赤も白も、明るさの違い以外は、大差がないように見えるから、よく間違えて……しこたま殴られたよ。それで前に、きみの家で一緒に食事したときの……すった山葵と生姜の色の違いとか、刺身の鮮度とか、白菜の葉の内側と外側の微妙な色の違いも見分けにくいから……。どうして信子さんは知っているはずなのに、こんなこともわかってくれないんだ、なんて思ったら感情が爆発してしまって……。でも、これは完全に僕の甘えだ。さっきも言ったように始めから目のことを説明すればよかったんだ。それなのに信子さんっていう理解者と再会できて、安心して甘えが出て……失敗してしまった」
 私は忠さんの顔をまっすぐ見捉えた。
「お母さんは、忠さんの理解者だったんですか……?」
「そう、実はそうなんだ」
 照れくさそうに頷くと、彼はコーヒーをひと口だけ含んだ。
「小さい頃から僕は、周りの人となにかが違うという違和感が付きまとっていて、いつも不満を抱えて怒っていたように思う。たとえば色のことで僕がちょっと変なことを言うと、みんな、なにを言っているんだという感じで笑うからね。まあ僕も適当に笑って合わせていたんだけど、その一方で、自分のことをわかってくれる人なんていないんだって思っていた」
 忠さんは悲しそうなため息を吐いたあと、少しだけ目を光らせた。
「でも諦めていた頃に、唯一僕の気持ちに気づいてくれた人がいた。それが信子さんだった。彼女だけは根気よく僕の違和感に寄り添ってくれた。眼医者に行って僕なりの見え方について詳しく聞いてくれたり、教師の細い赤ペンの字は上からなぞって太くして、わかりやすくしてくれたり。このクレパスみたいに、きみたちの見えている色の名を書いた紙を、一枚一枚巻いてくれたりした。それでも僕がしびれを切らして、『これは僕の問題なんだから関わってくるな』なんて言ってしまったときは彼女が言ったんだ。『いいえ、これは忠さん一人が抱えることではありません。私に、もっとあなたの見える世界を教えてください』って……。それでいろいろ話していくと、信子さんはまた言ったんだ。『見えにくいものは見えにくいと、まず認めることが大事かもしれません。私は両親の愛を受けることができませんでした。だから自分には、親の愛はもともとないものと考えて、期待するのをやめたら、少し楽になって、前を向けるようになりました』……だってさ」
 私は、自分の家族について話すときの、お母さんの突き放すような様を思い返した。
「悲しいことだけど信子さんの言うように、前に進むためには、ないものはないと認めて諦めることが、ときには必要なのかもしれない。誰だってすべてのものを手に入れることができるわけではないからね。だから碧ちゃん。きみの誤解を解くためにも、僕のについて、父親として、正直に伝えたいと思ったんだ。きみの名前の由来についてもね」
「私の名前が“碧”だって知ったときの忠さんのことは、よく覚えています……」
 みんなでひきずりを食べた晩の、彼の反応を思い出し、ついうつむいてしまった。
「うん。信子さんはどうして僕の苦手な色を娘の名前につけたんだろう? そう思ったらつい苛立ってしまった。でも実は、信子さんと僕を結びつけてくれた色こそが、きみの名前、みどりだったんだ」
 忠さんは緑色のクレパスを指でつまみ取った。
「自分の見る緑と、他の人たちが見る緑が違うことは、僕にとって嫌なことでもあった。でも、それは僕と信子さんが交わした会話のきっかけにもなったんだ。信子さんは話してくれた。緑というのは色のことばかりではない――新緑のむせるようなみずみずしい匂い、日本海の潮の香り、風を受けたときの葉ずれの音、ハッカの強い香り、春の息吹いぶき……。僕はきみのように色を見分けるのが得意ではないけれど、そのおかげで信子さんと親しくなれて、戦争へ行くのが遅れて、シベリアではなんとか生き延びることもできて……、こうしてきみと会えた。だから今は自分の特性を、百パーセントとは言えないけれど、受け入れている。信子さんは僕たちを結びつけてくれた色という意味と、希望を込めて、きみに“碧”と名づけた――そう言っていたよ」
 忠さんはまっすぐ私を見る。
「碧ちゃん、今まで大変な思いをさせてすまなかった。今日は僕と会って、話を聞いてくれてありがとう」
「そんな――、あの、こちらこそ……」
 忠さんの話を聞きながら、悲しくて、自分の想像力のなさが情けなくて……、声をあげて泣いてしまいたかった。でも実際に苦しくて泣きたかったのは忠さんの方だろう。今まで彼がどんな戸惑いと怒りのなかを生きてきたのか、考えると、胸がつぶれそうだった。それでも忠さんは前に進んできた、お母さんの力を借りながら。お母さんも忠さんの力になることで、たぶん喜びを感じて、それを糧に前に進んできたのかもしれない。人の役に立てるというのは無上の喜びでもあるはずだから。
「やあ、盛り上がっているかな?」
 長い帽子をかぶったコックさんがテーブルの横に立って、そう言った。小さな丸いケーキを私の前に差し出す。
「今日は小寺が娘さんを連れてくるっていうから、これは俺からのプレゼント。おー、かわいらしい子じゃないか。目のあたりがよく似ているね」
「なんだよ急にやってきて……。あ、碧ちゃん。こいつはシベリアで一緒に過ごしたやつなんだ」
「戦後の戦友ってやつです。はじめまして」
 はじめましてと頭を下げながら、二人に気づかれないように目尻を拭った。
「小寺はすごいやつなんですよ。こいつはシベリアの短い春に、食べられる草を見つけるのが抜群にうまかった。それにバッタみたいな擬態している虫を捕まえる腕もすごかったんです。おかげでいつも栄養失調だった俺や仲間たちは、小寺に会ってからタンパク質と極度のビタミン不足を免れて、なんとか飢え死にしないで生き延びることができたんです」
「やめろよ、食事の場でそんな話……」
「なんでだよ、俺はおまえが命の恩人だって話をしてるんだぞ」
「碧ちゃん。僕は草に隠れた虫とか、水底の石に擬態した魚とか……そういうのを見分けるのが、なぜか得意なんだ」
 たぶんこの目のおかげでね、と、忠さんは小さな声で付け加えた。
「その通り! 小寺がいなかったら俺は今、こうして働いていられたかわからない。今日はどうぞごゆっくり」
 忠さんと同世代くらいのコックさんは、にっこりすると行ってしまった。
「恥ずかしいな……」忠さんは頭を掻いている。
「あの……。話が変わるんですけど、入院してからの富江さんとは会いましたか?」
「会った」
 富江さんの名が出ると彼は緊張したように背筋を伸ばした。
「なにか、言ってましたか……?」
「長屋に住まわせてもらったときの無礼を詫びたら、ベッドの上からじっと目を開けて、僕の顔を見ていたよ」
 胸の底からほっとするようなぬくもりが込み上げてきた。それはきっと、いい意味だ。倒れてから対話の方法が変わった富江さんは、気に入らないことがあると目をそらすようになっていたからだ。
 それからふと、私だって忠さんと同じように、近しい人に自分のことをわかってほしいという甘えに近い気持ちがあるのかもしれないと思った。ちゃぶ台をひっくり返したとはいえ面識の浅い忠さんに、きついことを言ってしまったのは、やはり……父親かもしれない、父親ならわかってほしいという踏み込んだ期待があったからかもしれない。
「私、自分のことが恥ずかしい。忠さんのような人にとって世界がどんなふうに見えているかなんて、考えたこともなかった。自分の見える世界がすべてだと思ってたから」
「僕も長い間そうだったよ。自分で言っておきながらあれだけど、あまり大げさに捉えないでほしいんだ。わかるかな?」
「はい。でも、あの、一つ聞いてもいいですか?」
「なんでも」
「大須の街は忠さんにとって、どんなふうに見えますか。たくさんの色にあふれている街ですけど……」
 忠さんは嬉しそうに眉を上げる。
「賑やかなネオンに彩られた、ごちゃごちゃした、おもちゃ箱みたいな街だね。楽しそうな雰囲気はよく伝わってくる。世界を作っているのは色ばかりじゃない。民家から聞こえてくる笑い声、大げさな呼び込みの声、たばこの匂い、ポンポン飛び交う活気のある会話……。きみが育った街はなにもかも下品なほどに過剰だけれど、その分僕にはわかりやすい」
 ほっとして私はケーキを食べた。ざらりと甘いバタークリームは咀嚼そしやくすると、脂肪分とともに身体のこわばりもほどけていくようだった。
「碧ちゃん、お願いがある。僕をもう一度、きみたちの仲間に入れてもらえないかな」
「えッ、お願いなんて違います。大須はなんでもありのごった煮の街なんです。だから、この街にやってきた人は疎外感なんて感じなくていいんです!」
「へえ、驚いた。それは素敵だね」
 忠さんは言いながら自分の口の端を指し、紙ナプキンを渡してくれた。
「ありがとう」
 受け取ったナプキンで口を拭くと、彼は目尻を下げて、初めて会ったときと同じような感じのいい分量を保った笑顔を浮かべた。
(第20回につづく)

バックナンバー

麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop