双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

 仕事の日数が減ると、当たり前の話だが、すぐに懐が淋しくなった。
 新しいアルバイトを探そうとしたら、「もう無理に五日も働かなくていいから」と、お母さんは家に入れていたお金を受け取らなくなってしまった。おかげでなんとか前と同じくらいの頻度で映画館には通えている。
 十一月の末、仕事を終えて店を出ると、みぞれ交じりの雨が降っていた。傘があっても、跳ね返る泥水で腰のあたりまで汚れてしまい、濡れたところがひんやりと寒い。
 ふと、雨音のなかに女の人の声が混じった。必死に誰かを呼んでいる。ばしゃばしゃばしゃ……と駆けてきて、少し先の道から出てきたのは、かつら屋のみどりちゃんだった。
「ばあや? どこなの?」
 よほど気が動転しているのか、私には気づいていないようだ。みどりちゃんはきょろきょろしながら、人もまばらな道の、深い水たまりに足を踏み入れると、「きゃッ」と声をあげた。きれいな革靴と白い靴下がびしょびしょになっている。
 たぶん、なにかあったのだろう。けれどまた意地悪なことを言われるのもたまらないと思い、そのまま帰ることにした。
 長屋の近くまできたとき、大きな丸い風呂敷包みが前方に見えた。まるでその包みだけがてくてくと進んでいるように見える。そして、その隣に並んでいるのは――富江さんだった。彼女は風呂敷包みの方へ傘を差し出すように傾けながら、話しかけている。
「こんな時間に名駅に向かうつもりかい? 夜行切符も手配してないんだろう?」
「……」
「よりによってこんな雨の日に……。とにかく今日はやめて、うちで休んで、明日出かけたらいいじゃないか」
 富江さんが話しかけているのは、大きな風呂敷包みを背負った――かつら屋のみどりちゃんの“ばあや”だった。ばあやは背が低いので、離れた場所から見ると、風呂敷包みだけが移動しているように見えたらしい。
「どうしたの?」
 ひょいと加わると、「なんだ、びっくりするじゃないか」と富江さんが胸に手をあてた。「帰ろうと思ってたら、つるさんがこんな時間に大荷物を抱えて歩いてるからさ……」
 カッパを着たばあやこと鶴さんは、まるで夜逃げでもするような風体だ。
「さっき、かつら屋のみどりちゃんが『ばあやー』って呼びながら、ずぶ濡れになって捜してましたよ」
「お嬢さまが……」
 鶴さんの能面のような表情が一瞬だけゆれる。その隙に彼女の手荷物を奪い取ってしまった。
「あッ、返してください」
「風邪を引いたら元も子もないでしょ。とりあえずお茶でもいかがですか?」
 富江さんがよくやった、という感じで私に目配せをよこす。「そうさ、最近はこのあたりも車が多いんだ。鶴さんなんて簡単にねられちまうよ」
 鶴さんは考え込むように黙っていたが、ふいに、小さい声で呟いた。
「では、少しだけ……お邪魔いたします」
 
 富江さんの家のちゃぶ台でお茶を啜っている鶴さんを認めると、私が道を戻って見つけてきたかつら屋のみどりちゃんは、傘を投げだして涙声をあげた。
「ばあや!」
「お嬢さま。あれ、まあ」
「いいから早く上がりな」
 富江さんが促すと、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたみどりちゃんは玄関を駆け上がり、手を広げて小さなばあやに突進していく。
「ごめんなさい、ばあや! お父さんがひどいことを……」
 鶴さんは小柄なわりに力があるらしい。座ったまま、みどりちゃんの身体を両手でがっしりと受け止めた。「こんなに濡れて……お腹を冷やしたらいけませんよ」
 鶴さんの皺だらけの手がみどりちゃんの頭を撫でている。みどりちゃんはまるで大きな赤ん坊のようだ。
「家に帰ったらばあやがいないから驚いたの。お父さんが急にばあやを……」
「――クビにしたってわけかい。むごい話だねえ。長いこと仕えていた七十近い女中を雨の日に放り出すなんてさ」
 富江さんが言うとみどりちゃんが睨んだ。鶴さんはみどりちゃんの背中を軽く叩く。
「ばあやは、お暇をいただいただけでございます」
「うそよ! 富江さんの言う通り……父が解雇したの。生まれたときから私はいつでもばあやといっしょだった。私のおむつだって換えてくれた。家に帰ると必ずばあやがいてくれたから……今日まで安心して過ごすことができたの。それなのに……」
「情だけではやっていけない、ということでございましょう」
「ううん、違う。お父さんは昔から女の人の店にお酒を飲みに行って、そこのツケがたまってるの。私、知ってるわよ」
「店のあるじでいらっしゃいますから、それくらいは……」
「いいえ、言わせて。そのせいで、陰でお母さんが泣いてるのだって知ってる。キャバレー通いをやめれば、ばあやの一人や二人くらい雇えるのに、悔しいわ、私……」
 そう言ってまた鶴さんに抱きついて泣きだしてしまった。
 富江さんが大きなため息をつく。「まあそんな話だとは思ってたよ。とにかく、あんたのばあやはしばらくうちで預かるから、今日は帰りなさいな。もう遅いんだ。鶴さんを盾にあんたを拉致したと思われたら、余計にこっちだって預かるわけにはいかなくなる」
「よろしいんですか……?」
 鶴さんのなかに、みどりちゃんと別れがたい感情が湧いたらしい。
「いいから言ってるんだよ。うちはどうしてか、いっつも部屋が一つは空いてるんだ」
 みどりちゃんが「信じていいの?」と言って私を見る。富江さんが続けた。
「もう解雇された女中なんだから、どこに住もうが勝手だろう」
「お嬢さま、こちらの方たちにも迷惑がかかりますよ」
 鶴さんの指摘を受けてみどりちゃんも落ち着いたようだった。泣き腫らした目であたりを見回す。
「……碧ちゃんのお母さんは?」
「仕事のあとに夜間中学に行ってるから、帰りが遅いの」
「夜間中学――」
 みどりちゃんがちらッと鶴さんを見た。鶴さんは中学どころか、尋常小学校さえまともに卒業できなかった世代だからかもしれない。
「そんなにばあやが心配なら、早く出世して、鶴さんを雇える立場になるんだね。さあ帰った帰った」
 追い立てられるように外に出たみどりちゃんを、私は板塀の角まで送る。私より背の高いみどりちゃんが、今日は不思議と小さく見えた。
「碧ちゃんのお母さんって偉いのね。私、お父さんのキャバレー通いの相手と、あなたのお母さんを重ねてしまって……、ひどいことを言ったわ」
「もう昔のことだから、いいよ」
 照れくさいから、そわそわした。けれどみどりちゃんはすがるような目で見つめてくる。
「ばあやのこと、お願い」
 傘の柄を肩と首で挟みながら、私の手を取って強く握ると、雨の降る道をとぼとぼと帰って行った。
 
 翌日、まだ薄暗い時間から、甲高い声が聞こえてくる。
 イッチ・ニー、イッチ・ニー。イッチ・ニー、サン・シー。
 先に起きていたお母さんが、布団から出てきた私を見ると苦笑した。
「おはよう、今日は早いわね」
「おはよう……。誰の声?」
 玄関を開けると、向かいの長屋の前で鶴さんが「イッチ・ニー」と声をあげながらラジオ体操をしていた。私を見ると姿勢を正し、急にかしこまった声を出す。
「野坂のお嬢さま、おはようございます」
「おはようございます。あの……お嬢さまなんてやめてください。碧でいいですから。早いですね」
「日課でございます」
 和服に割烹着姿の鶴さんはラジオの音楽に合わせて、またイッチ・ニーと始める。
 富江さんはまだ起きていないようだった。――朝からうるさいねえ、他の住人に迷惑だろう、いい加減にしておくれよ……とかなんとか言って一番にすっ飛んできそうなものなのに。
「元気でいいわね。碧もいっしょにやってきなさい」
 昨日の晩、鶴さんの事情を富江さんから聞いているお母さんは、すでに鶴さんのことを受け入れているようだった。けれど私は忠さんのことを思い出す。
「向かいの部屋、埋まっちゃったけど……いいの?」
「別にいいじゃない、誰が住んだって。富江さんの家なんだから。富江さんに選ばれた人が住むべきだわ」
 でもあの人、忠さん……と言い淀んでいると、お母さんが言った。
「碧は気にしなくていいの。忠さんはね、大阪に帰るって言ってたわ。それでその前に、ちゃんと私に直接言ったのよ。『碧ちゃんには本当に面目めんぼくない』ですって」
 なんだか居心地が悪かった。お母さんは気にしていない様子だけど……。
 私が学校に行く頃、やっと洗濯物の入ったたらいを抱えた富江さんが出てきた。目のあたりに疲労がにじんでいる。
「遅かったね」
「ああ、なんだか最近身体がだるくってね……。それにしても今日は朝からうるさかったねえ、他の住人に迷惑だろう、いい加減にしてほしいねえ。私はあのラジオ体操ってやつが嫌いなんだよ。国民精神総動員じゃあるまいし」
 富江さんは戦時中のことを言っているらしい。たらいを億劫そうに運んでいく。すると、まるで妖怪のようなすばやさで、鶴さんが富江さんのたらいを奪い取ってしまった。
「汚れものはわたくしにお任せください」
「え、やってくれるのかい?」
 露骨に嬉しそうな表情を浮かべる富江さん。鶴さんはいつもの能面顔で頷いた。
「碧、あんたの家の分もやってもらいな」
「でも……、そんなの悪いよ」
 すると富江さんは私の腕を取り、お母さんのもとへ引っ張っていくと声をひそめた。
「いいかい? 鶴さんは五十年以上女中だけをやってきたんだ。そんな女はね、身体を壊さない限り、なにもせずにじっとしてろって言われる方がつらいに決まってる。だからあんたたち、今、手に余ってるような家事があれば遠慮せずに手伝ってもらうんだ。そうすれば向こうもいろいろ気を遣わなくて済むだろう」
「うん、なるほど」
 お母さんと私は同時に頷いた。そして富江さんの言う通りに洗濯ものだけは全部、鶴さんにお願いすることにして、お母さんは仕事へ、富江さんは町内会の会合へと出かけて行く。
 ちまたでは電気洗濯機を買う家庭が増えているらしいが、うちにはそんなものを買う余裕なんてない。腰をかがめ、腕に体重をかけるようにして洗濯板でごしごしと洗う作業は、時間もかかる上に重労働だ。いつも歩く道の板塀の上には山茶花さざんかが咲き揃い、井戸水もだいぶ冷たく感じられるようになっていた。しかし鶴さんは指先を赤く染めながらも、文句ひとつ言わずに黙々と洗っている。
 こっそり出かけようとすると、
「行ってらっしゃいませ」
 と背後から声をかけられ、思わず飛び上がった。
「は、はい。どうぞよろしくお願いします」
 どぎまぎしながら伝えると学校へ向かった。そして――夕方に帰ってきたら驚いた。
 鶴さんから直々に手渡されたのは、角をきれいにそろえて畳まれたブラウスや手ぬぐいだった。十年近く着ているブラウスの襟の内側を広げたお母さんが、感嘆の声を洩らす。
「真っ白だわ。黄ばんでたところが全部きれいになってる。きっと日向ひなたみずを使ったのね」
「日向水って?」
「洗ったものを、水を入れたたらいにもう一度入れて、日光にしばらくさらしておくの。そのあともう一回洗うと、日向水の漂白効果で真っ白になるのよ」
「二度も洗うなんて大変だね。手間をかけてくれたってこと?」
「そうよ」
 女中時代を思い出したのか、お母さんの目が輝いている。
 それから毎朝、大量の洗濯ものを洗うことが鶴さんの日課となった。鶴さんは私たちが家を空けている間に畳を掃き清め、破れた障子を貼り替え、布団を干し、古い布団の仕立て直しまでやってのけた。
 そしてあらゆる家事を夕方までに終えてしまうと、長屋の濡れ縁に置き物のように座る。
 なぜなら夕方になると決まって――かつら屋のみどりちゃんが現れるからだ。
 みどりちゃんは恥ずかしいのか、手を後ろで組みながら家の近くをうろうろする。鶴さんはみどりちゃんに恥をかかせない。彼女をすばやく迎えに行き、「奇遇でございます、お嬢さま。汚ない長屋ですが、さ、どうぞ」と招き入れる。「しょうがないわねえ」という言葉とは裏腹に嬉しそうなみどりちゃんは、鶴さんの隣に座ると、学校で起きたことを一つひとつ報告して聞かせるのだった。
 こうして鶴さんと同じ長屋で暮らすようになってから、あっという間に三カ月が経過し、暦の上では年が替わって三月になった。
 普段と同じく鶴さんとみどりちゃんがお喋りしていると、そこへやってきた富江さんが、
「汚ない長屋で悪かったねえ。いつも聞こえてるんだよ」
 と言って、濡れ縁の端にどんと大きな皿を置いた。
「ご無礼いたしました……」鶴さんは、富江さんと私に緑茶を淹れてくれる。
「まったく。あんたたちの長い茶番にこっちまで付き合わせるんじゃないよ」
 皿にかぶせた手ぬぐいを外すと、草色のお餅がいくつも載っていた。
「よもぎ餅だよ。鶴さんの故郷は新潟だろう。町内会で新潟出身の奥さんがいたから、その人から名物のことを聞いたんだ。さ、固くなる前に早く食べな」
「ばあやの故郷はよもぎ餅が名物なの?」
 みどりちゃんが尋ねると、鶴さんは富江さんを凝視する。
「わざわざ、お作りなさったんですか……?」
「あんたには助けてもらってるからね。これくらい、たいした手間じゃないよ」
 鶴さんはしばらく無言だったが、ふと手を伸ばして一つを取った。
「新潟ではこれを『笹団子』と言うのです。よもぎ餅の回りにこう笹の葉が巻いてありまして……」
 まるで笹の葉が見えているような仕草で、葉をぐるぐると外す真似をした。それから餅に齧りつき、咀嚼しながら目を閉じる。
「だんごには笹の香りが移っております」
 めったに表情を出さない鶴さんが、まぶしそうに目を細めた。
「母が作ってくれたものを、思い出します」
 みどりちゃんも真似をして、笹を外すふりをしてから餅を食べる。それから……おいおいと泣き出してしまった。
「ばあやにもお母さんがいたのよね……。そうよね、そうなのよね……」
「もうあの世におりますので、母のことはすっかり忘れておりました。ですが……今はここに帰ってきてくれたような心地でございます」
 鶴さんは自分の胸に手をあてた。
 普通のよもぎ餅だったけれど、鶴さんは「笹の香りがする」とくり返していた。彼女の心は時空を超えて新潟に戻っていたのかもしれない。
「大げさだねえ」
 と口を曲げた富江さんだが、このお餅のために、川原で半日かけてよもぎを摘んでいたことを私は知っていた。

 先日の学校の帰り道、学年末試験に向け、あえて川原沿いを歩きながら英文をそら読み
していると、富江さんがよもぎを摘んでいるところに出くわしたのだ。
そうして「よもぎ餅計画」について聞いた私は、さっそく手伝うことにした。
 柔らかい新芽の部分だけを摘み取りながら、こちらに背を向けている富江さんに言った。
「私、高校を出たら、東京へ行こうと思ってる」
 富江さんはなにも言わずに手を動かしている。
「大須にいるだけではなにかが足りないような気がして……。とにかく外に出て、働きながら映画の勉強をしたいなって思ってるの。どう思う?」
「……信ちゃんはなんて?」
「まだなにも伝えてないんだ」
 再び沈黙した富江さんの背に、摘んだ葉を見せるように声をかけた。
「ねえ、これはよもぎの葉かな?」
「――最近、このあたりは景気がよくないようだね」
「え、うん……」
 先日、名クロ記者の神谷さんとこっそりポンパルで交わした会話が、蘇ってきた。
 
 ――高度成長とあちこちで騒がれるたびに、大須みたいな小さな街はどんどん人に忘れ去られていくはずだ。行政がテコ入れするのは道路とか、大きな駅の周辺とか、そういう利益の出やすい場所ばかりなんだから、あてになんてできない。戦争で燃えた大須観音の再建だってずっとあと回しにされているだろ? 映画館がつぶれだしたら、あとは簡単にどーッと衰退するぞ。
 ――でも進んでるのは映画館離れですよね? 映画自体が駄目になったわけじゃないでしょ?
 ――そうだが、今のままだったら大須は確実に駄目になる。大須から離れていく店もあるだろう。だが……、この街の斜陽化は自分たちで止めるしかない。碧ちゃん、きみならどうする?
 
 街のために、映画をさらにおもしろいものにするために――なにより自分自身のために、私は大須を離れようという気持ちが強くなっていた。お母さんが大須の外の夜間中学へ行って、新しい知識を吸収しているのと同じように。小さな街だからこそ、この街にばかりこだわっていたら、自分の姿さえ見えなくなってしまうかもしれない――そんな思いが強くなっていた。
 大須の外へ出て、他の街を、この街以外の人々の生活を知る。そうしなければ視野が狭まってしまう。狭い視野では、この街を建て直すなんて大事業に取り組めるわけがない。
「碧は育った街を捨てるんだね。父親があんたたちを見捨てて、出ていったようにさ――」
 富江さんの言葉にはッとした。胸がずきんと痛くなる。――「大須は駄目になる。その様子を見て、大須から離れていく店もあるだろう」と神谷さんは言っていた。まさに私が考えていることも、結局は、すたれていく街を見捨てることと変わらないのだろうか……。そう考えると私のもとに、胸を掻きむしるような焦躁が襲ってきた。
 富江さんは長いこと黙って作業を続けていたが、よいしょと腰を伸ばして振り返った。
「嘘だよ……。好きにしたらいいさ」
 また私に背を向け、腰をかがめて作業を再開する。
「でも私、まだ迷ってる……」
 富江さんはなにも言わない。
 彼女の背中はどこか閉じた感じがして、否定も肯定も見えない。けれど少なくとも、諸手をあげて賛成しているような雰囲気は感じられなかった。
 
 三月も半ばに差しかかったある朝、凍える手を火鉢にあてながらお母さんと朝食を済ませた。
 学校へ行く前に、鶴さんに洗濯ものを頼みに行くと、富江さんの姿が見えない。
「いつもこの時間には出てくるのに、珍しいわね」
 お母さんが呟いた。冷たいつむじ風が、富江さんの家のガラス戸をかたかたと鳴らしている。
「ちょっと見てくる」
 たらいを置いてから、富江さんの家の玄関の戸を叩いたが、返事がない。引手ひきてに触れると、するすると戸が開いた。
「起きてる? 富江さん?」
 三和土たたきに立って声をあげても反応はない。
 台所には気配がないので、奥の六畳間にいるのだろうか。
 靴を脱いで、不審に思いながらふすまを開けると――布団の外で富江さんが横向きに倒れていた。
 浴衣姿の富江さんはくちびるの色が白っぽい。片手を胸に添えるようにして、目を閉じている。
「富江さん!」
 どうしよう、どうしよう――。
 誰か、誰か――――。
 私はいつの間にか大きな声で人を呼んでいた。
 また強い風が吹きつけ、たてつけの悪い窓や雨戸が、いっせいにゆれ始めた。
(第19回につづく)

バックナンバー

麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

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