双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

 忠さんがきて一カ月が経過した四月に、私は高校二年生になった。
 お母さんは私より先の三月末にすでに内定を射止めていた。仕事は機械部品工場の受付兼事務だ。社長の奥さんには五人のお子さんがいるから、お母さんの「元女中」という経歴が特に気に入られたらしい。もちろん事務員としての採用だが、たまに子供を見てやってほしい、とも言われたようだった。その上四月から夜間中学にも通い始めたのだ。
 遅い晩ご飯の席に座るのはお母さんと私――そこへ、いつの間にか忠さんが加わるようになっていた。
「夜学の学生さんのほとんどは年上の男の人ばかりなの。戦争で学校に行けなかったから、今は通えて嬉しいって、みんな口をそろえて言うのよ」
 ふーんと私が聞いていると、忠さんが話に交じってくる。
「でも、そんな男ばかりのところに行かせるなんて心配だなあ」
「外で働いたり勉強しようと思ったら、どこへ行っても男の人ばっかりですよ……。碧、学校の方はどう?」
「進路についてはみんな、なにか言っているんですか」
「別に、まだなにも……」
 お母さんと忠さんの質問に答えると、二人は黙っておみおつけをすすった。
 もともと二人だけで使っていたちゃぶ台に、三人で向かい合うなんて、まったく窮屈で仕方がない。――どうして私、この人といっしょにご飯を食べているんだろう?
 私のなかの忠さんへの疑念は、まだ拭えていなかった。
 お母さんは働きだしてから晩ご飯のときに少しだけ、梅酒を飲むようになった。上げ板の下から梅酒の瓶を取り出し、おたまでコップに注ぐ。気を遣って忠さんにも勧めると、彼は酒が弱いくせに断わらない。だけどやっぱり、少しの量ですぐ赤くなってしまうから、食事が終わる頃には、
「事務は事務なんだから、女中仕事はやらないってはっきりあっちに言ったほうがいいんじゃないかなあ。権利はちゃんと主張しないといけませんよ。まあきみは、まだ中学に通い始めたばかりだから、そんな世間の常識はわからないんだろうが」
 と見下すようにからみだす。自分は無職の癖に……。
 お酒に強いお母さんは一杯くらいではしらふと同じだから、「ええ、まあね」と適当に受け流している。結局、酔っ払ってしまった忠さんはごろんと横になって、いびきをかき始めた。
「このまま寝かせてあげましょ」
 毛布をかけてあげると、はみ出した忠さんの左足の指は外側の二本が欠けている。じっと見ていたせいか、お母さんが呟いた。
「抑留された土地で凍傷になったんですって」
「……この人、いつまで大須にいるの?」
「少ししたら一度大阪の家に帰るって言ってたけど、でも、ご主人と奥さま……忠さんのご両親はいらっしゃらないから一人きりでしょ? 淋しいわよね」
 お母さんは今でも彼の亡くなったご両親のことを「ご主人と奥さま」と言う。女中をしていた頃の名残なのだろう。
「ねえ、お母さんはこの人にどうしてほしいの?」
「どうもなにも……今は生きていてくれてよかったって、それだけで胸がいっぱいなのよ。それ以上は、なにも考えられなくて……」
 十七年ぶりの再会だもんね。そう思う私の傍らで、お母さんは小動物を見るかのような目を忠さんに向けている。だけど私にはまだこの変な服装のおじさんが、自分の父親だなんて、どうしても思えない。
 忠さんが眠って一時間ほどした頃に、お母さんが彼をゆり起こした。ううんと甘えた声を洩らしながら寝返りを打った忠さんは、時間をかけて目を覚まし、お母さんが水の入ったコップを渡すと、その手を両手で包み込むようにして中身を飲み干した。「また明日」と少し照れくさそうに言って、向かいの家に帰っていく。

 新しい職場で働き出したお母さんは、とにかく忙しい。
 それなのに、忠さんは朝ご飯の時間までうちに寄るようになった。
 食にうるさい彼を気遣って、お母さんはご飯を炊き、赤味噌ではなく白味噌のおみおつけを作り、白菜の漬物は内側の柔らかい部分だけを出す。卵焼きも焼く。私だけならおむすびだけで充分なのに……。
「そろそろ準備しないと仕事に遅れるよ。あとは私がやるから」
「ごめん碧。それじゃお願いね」
 料理を交代した頃に、寝癖だらけの忠さんがやってきて、ちゃぶ台の前にぼんやりと座る。――食器を運ぶのくらい手伝ってくれたっていいのに……。
 私が少し睨みつけると、忠さんはにこにこして首を傾げている。
「いってらっしゃい」
 お母さんを見送り食事を済ませた忠さんは、向かいの長屋に帰って行く。たまった洗濯物を井戸水で洗っていると、縁台に座っていた忠さんが「きみは偉いねえ」とゆっくり話しかけてくるから、いらいらして、洗濯板を使う手に力がこもってしまった。
「碧、あとはやっておくから。早く行きな」
 そう言ってくれた富江さんと交代して私は駆け足で高校へ行く。
 学校が終わると、いつものようにきしめん屋でアルバイトをしてから家に帰る。今日は客が多かった。そのせいか、なんだかいつもより疲れて身体が重たい感じがする……。夜道を歩いていると軽い眩暈めまいを覚えて、下腹部がしくしくと痛みだした。イテテとお腹を押さえながらうちにたどり着き、汲み取り便所に入ると下着が赤く染まっている。
 処理をして便所を出たら途中で忠さんとすれ違った。長屋に便所はひとつしかない上に共用なのだから仕方がない。それはわかっているんだけど……、赤くなった落とし紙が見えてしまうのが嫌だった。私は顔だけでなく、心までうつむいていくような気分になる。
 
 買い物袋を持ったお母さんが、「すぐご飯にするから」と言いながら慌てて帰ってきた。私はきしめん屋でまかないを食べているから簡単なものでいいのだが……料理ができる前に忠さんがやってきた。
「あー、おなかがすいた。信子さん、まだですか」
「ごめんなさい。もう少しだけ待っててくださいね」
 私がちゃぶ台を拭いていると、味をしめたらしい忠さんが、勝手に上げ板をはずして梅酒の瓶を引っ張り出した。二人分をコップに注ぐ。
「きみも飲むかい?」
 黙って首を振ると、また瓶を床下に戻していた。
 今日の晩ご飯は青豆の入ったご飯におみおつけ、お刺身、白菜の塩漬け。
 忠さんはいつも「いただきます」と手を合わせてから食事を始める。でも……そのあとがよくない。
「僕はなにかを混ぜたご飯ってのは好きじゃないんですよねェ」
「そうですか? 青豆がきれいで初夏らしいと思いますけど」
 私の言葉を最後まで聞かずに、忠さんは豆を箸で一つずつ取り除いている。おみおつけを口に含んで違いに気づいたらしい。彼がお母さんに言った。
「白味噌は? なくなったんですか」
「ええ。このあたりじゃあまり手に入らなくって」
「それじゃあ今度は買ってこないといけないね。それに、また魚かあ」
「今日は焼き魚じゃなくってお刺身ですよ」
 忠さんは刺し身の皿を持ち上げて、ふんふんと匂いをかいでいる。
「添えてあるのは山葵わさび……じゃないよね」
生姜しようがです。かつおですから」
「僕は山葵の方が好きなんだけどなあ」
 山葵と生姜の違いもわからないくせに、文句だけはなんて立派なんだろう。五月の初鰹といえばご馳走じゃないか。今日はお給料日だから、お母さんはきっと奮発して旬のものを買ってきたのだ。その心意気さえわからないのだろうか。
 私のなかに、石ころのような違和感が積み上がっていく。
「僕は煮魚に生姜入れるのが好きなんだ。そうそう、生姜は白いご飯といっしょに炊くといい香りがして食欲が進むよ。小さい頃は母がよくそれでおむすびを作ってくれたなあ」
 それから彼は、少しだけ食べた白菜の皿を自分から遠ざけた。
「これは葉っぱの外側の部分ですよね。固いから噛んですぐわかりましたよ。僕は内側の柔らかいところが好きなんですよねェ」
 白菜の外側と内側の違いなんて、見ればすぐにわかることじゃないか。「文句ばっかり。それなら、最初から食べなければいいんじゃないですか」
 思わずそんな言葉が私の口をついて出た。
 梅酒で目元を染めた忠さんは真顔で私を見返すと、静かに箸を置く。お母さんが慌ててとりなすように言った。
「生姜の入った煮魚ですね。次は用意しておきますから。それに白菜……」 
 しかし忠さんは私たちの方を見ようともしない。
「気分が悪いな、僕はもう夕食はいいです」
「別に食べにきてくれなんて、そもそも頼んでいませんから」
 なに、と言って私を見た忠さんの目には、反感が浮かんでいる。
「なんだその言い草は。僕はきみの父親だぞ。む、む……娘の癖に逆らうっていうのか」
 緊張感をみなぎらせながら指先を向けてくる。けれど、私は落ち着いて睨み返した。父親だろうとなんだろうと、会って数カ月の、情も湧かない相手になにを言われたって平気だという思いがあった。自分より年上だったり、社会的な地位があるからといって、理不尽なことを言われても怯えているしかなかった頃の私とは違うのだ……。そんな意地もあったのかもしれない。
 忠さんが今日も穿いている鮮やかな紫色のズボンを見た。
「あなたのような変な格好の人が身内だなんて私、はっきり言って恥ずかしいです」
「変……? なにが変なんだ」
 答えない代わりに、私は顔をそむけて、目だけで彼を睨みつけた。
 不安そうに眉を寄せ、ぶるりと身を震わせた忠さんは、制止しようと手を伸ばしたお母さんの手を振り切って、ちゃぶ台のふちをつかむと勢いよくひっくり返した。
 ご飯やおみおつけが四方に飛び散り、お母さんや私の服を濡らし、土壁にあたった茶碗が音をたてて割れた。お刺身がヒルのごとく、ぺったりと私の手の甲に貼りついている。お母さんが慌てて茶碗を片づけながら顔をあげた。
「忠さん、家のものを壊すなんていけません。どんなときでも対話を通して解決しないといけないって、前に、ご自分でもおっしゃっていたじゃないですか」
「それは僕が戦争に行く前の話だろうッ」
 忠さんは苦悶と混乱を全身に浮かべて頭を抱えている。――お母さんと忠さんの間に、十七年前、なにがあったかなんて私は知らない。戦争時代のことだって詳しくは知らない。でも私は今、言いたいことを言ってもいいのだ。
 誰かがそんなふうに背を押してくれたような気がした。
「やめてください」
「……な、なんだと」
 私は立ち上がると忠さんと対峙する。
「やめてって言ってるの。どんな思いでお母さんがおみおつけを作って、毎日ご飯を炊いているか知ってるの? 食べものを粗末にするなんて最低。料理をしたこともないくせに」
「きみは、父親に台所に入れなんて言うのか」
「きしめん屋の一平さんは毎日厨房に立って、ねぎも油揚げも刻んでいますよ」
「へりくつばかり立派になったもんだね。僕は料理人じゃないぞ」
「それなら、なんなんですか? きみ、きみって……あなたこそいったい私のなんだって言うの?」
「碧、やめて。まだ言ってないことが……」
「お母さんは黙ってて!」
 自分でも寒気がするくらい怖い声が、腹の底から飛び出した。
 忠さんは青ざめて目をそらす。
「そんなふうに威張り散らすだけの父親なら、私はいりません」
 お刺身が私の手から剥がれ落ちた。厳しい表情を浮かべた忠さんは横を向いている。こんな人の――どこが私に似ているというのか。
「戦争に行って苦労したからなんだって言うの。あなたがいない間にお母さんだって、同じようにつらい時代を過ごしているんです。男だけじゃない。女だって、女なりのやり方でくぐり抜けてきた。それならあなたはお母さんが富江さんと、どんな思いで大須までやってきたか、私を育ててきたか知ってるの? 知ろうとしたの?」
 忠さんはお酒に弱い。
 だからその勢いを借りて語気を強め、ちゃぶ台をひっくり返したことくらい、私にもわかっていた。だからこれ以上、彼を追い詰めてはいけない……。頭の隅ではそう理解しているのに、一度転がり出した言葉はもう止まらなかった。
「親だろうとなんだろうと、お母さんを傷つけるだけの父親なんて私はいらない!」
 お母さんが私の肩をつかんだが、それを振り払って叫んだ。
「もう出て行って……出て行ってよ!」
 声が裏返るほどの感情の奔流に、自分でも驚いていた。びっくりすると腹が立つのはなぜだろう。腹が立つと、そのあと悲しくなるのはどうしてかな……。
 長いながい沈黙のあと、畳を踏む静かな音がした。丁寧に靴を履き、カラカラと玄関を開ける音――。
 しばらく経って顔を上げると、もう、忠さんの姿はなかった。
 割れた食器を再び片づけているときに、お母さんが言った。
「あの人がやってきて、突然父親だなんて紹介されて……。むしろ傷ついたのは碧なのよね。碧にとって私は女中じゃなくて母親だもんね。忠さんはそこをわかっていなかったのかもしれないわね。私はあれこれ指図されても平気なの。でも、それを見ている碧は、嫌だったのよね……」
 鼻の奥がつんと痛くなって、目の奥からぽたぽたと涙が流れ落ちた。目前に手ぬぐいが差し出される。
「気づいてあげられなかった」
 お母さんは眉を寄せている。私はこくりと一度頷いたあと、首を横に振った。
 
 なぜか私は、昨日の晩に起こったことを山高さんに話していた。二人で三階建てのビルの屋上のフェンスに腕を乗せて、たそがれ時の大須を見下ろす。
 話を聞き終わった山高さんは、帽子が風にさらわれないよう押さえながら言った。
「きついな、おまえは」
 反論はできなかった。
 忠さんが帰ったあとで私は強い罪悪感にかられた。実際、忠さんが戦争やシベリアでの抑留で生きるか死ぬかの思いをしたのは事実だろう。足の指が失くなったときは、どんなに痛くて悲しかっただろう。それなのに……どうしてあそこまで言ってしまったのだろうか。それに、お母さんが言っていた――まだ言ってないことってなんだろう?
 床下で、封を開けられずにいるパイナップルの缶詰のことを思うと、さらに後悔の気持ちに拍車がかかった。漢方薬局の前で目尻を下げていた、感じのいい忠さんの笑顔を思い出す。
「感情が先走って……今は反省してるんです。父親かもしれない人に、私、すごく失礼なことを言ったんじゃないかって」
 いや、と言って山高さんは私を見た。
「おまえは間違っちゃいない」
 マントから小さな酒瓶を取り出すと口に含んで眉をしかめた。
「みんなで食うメシってのは楽しくねえといけねェな」
 瓶をこちらに差し出してくる。
「飲むか?」
「いらない」
 前にお酒を飲んだとき、あっという間に酔いが回ってひどい目にあった。お母さんは酒に強くても私は体質的に弱いのだ――忠さんと同じように。
 忠さんと口論になったとき、私に、言いたいことを言ってもいいと背を押してくれたものの存在が今、少しだけわかったような気がした。
 それは、私が守りたいと思っている、この街そのものなのかもしれない。
 赤紫色の空気に包まれた街の底では、お店や市電の優しい灯りが次々と生まれ、ゆれ動いていた。
 
 昭和三十七年の九月も終わりを迎える頃、一平さんが切り出した。
「週五日出てもらっとるけど、三日に減らしてもらっていいかなあ? ほら、うちの子が三人とも小学校に入って、嫁さんも手が空いたで、昼間働きたいって言っとるんだわ」
 説明する一平さんの表情には、後ろめたさのようなものがにじんでいる。棚に置かれたラジオからは、来年の東京オリンピックの情報が次々と流れてくる。それは東京オリンピックというより、「にっぽんオリンピック」と言っても不思議ではないほどの、全国的な熱狂ぶりを教えてくれた。
 客席がすし詰め状態だった昭和三十五年以前に比べると、明らかに大須の映画館の客数は減っていた。映画館の客が減れば、一平さんのお店のお客さんも少なくなる。帳簿に向かっていた一平さんが「あれ? ううーん。困ったなあ」と独り言を言っている姿を何度か見たことがある。つまり大衆の娯楽が、映画館で映画を観ることから、家のテレビでオリンピックを観ることへ移行してきているのだ。
 戦後の大須は映画館とともに生きてきた。言い換えれば、映画館に依存してきたとも言えるのかもしれない。
 一平さんも「店にテレビが欲しい」と言うのが口癖になっていた。そうすればもっとお客さんが増えるはずだ、と。けれど私の勤務日を減らすくらいなのだから、とてもテレビなど買える状態ではないのだろう。
「わかりました。じゃあこれからは平日の三日、夕方の勤務でお願いします」
 私の返答に一平さんはほっとしたようだった。三日でも、まかないつきで働けるのなら充分だ。お母さんが事務の仕事に就いてくれて本当によかった。今もお酒を出す店で働いていたら、私と同じように、映画館離れに似た不況のあおりを受けていたかもしれない……。
 そう考えると、病が治ってすぐに行動を起こしたお母さんはすごいなと思うのだった。――忠さんの騒動だってあったのに。
 就職してから五カ月を経た今、お母さんは女中仕事とそろばんの腕と接客業で培われた技術のおかげで、勤め先では忙しくしているようだった。 
 大須は変わる。お母さんも、一平さんも変わらざるを得ない。私も時代に応じて、目先や意識を変えていかないと……。
 カラカラと戸が開いた。「こんばんは」と顔を出したのは市電運転手の平野さんだった。
「久しぶりだなあ。もう、うちの店にはこんかと思ったわ」
「やだなあ。そんなこと言わないでくださいよ」
 一平さんの軽口を受けて、照れ臭そうな平野さんはカウンター席に座った。彼は今年の六月にサチコさんと結婚式を挙げ、新居を大須の外へ移したのだ。
「碧ちゃん、声をかけたのに。結婚の菓子撒きのときにこなかったね」
「すみません。いろいろあって……」
「ああ、聞いてるよ」
 平野さんは蛇騒動や忠さんのことを示唆しているようだった。でも私にとっての理由は、平野さんの幸せそうな姿や、彼の隣に並ぶ白無垢姿のサチコさんを直視したくなかったというものだ。
「碧ちゃんはもう十七なんだで、菓子撒きくらいでは行かんでしょう?」
「そうですよね。女の子だったら、お菓子を拾うよりお化粧とか洋服とか、そういうものの方が好きですよね」
「お化粧とか洋服より、私はギャング映画やヤクザ映画の方が好きです」
 首を振ってそう言うと、平野さんと一平さんは困ったように目を合わせている。
 先日の九月二十六日に私は十七の誕生日を迎えた。伊勢湾台風の日からもう三年が経ったのだ。あの頃は父親なんて一生会えないと思っていたが……まさか自分が、父親を大須から追い出す身になるなんて……。
 五月の晩に私と口論になった忠さんは、翌日の朝にはもう長屋にいなかった。大きなリュックに荷物を入れて、朝一番の電車でどこかへ行ってしまったらしい。部屋はきれいに片づいていて、「お世話になりました。ありがとう。」と筆で書かれた半紙が一枚、枇杷の実を三つ重しにして、玄関を入ってすぐの場所に敷かれていた。――それは、パイナップルの紙ラベルに書かれていた字とよく似ていた。
 しかし富江さんは、「気に入らないね」と言ってすぐに枇杷をむいて食べてしまった。いきなり姿を消したことが気に入らないのか、三つという枇杷の数が気に入らないのか、その胸中はわからない。
 きしめんのを啜る平野さんも、客の少なさに気づいたようだった。
「今日みたいな雨降りは、特に客足が伸びんなあ」
 一平さんが呟くと、平野さんが深刻そうに言った。「実は、市電も客足が一向に上がらないから……全部廃線にするっていう話が出ているんです」
「全部ッ!? 名古屋から市電がなくなるんですか」
「うん、ここだけの話だけど。廃線後は今走ってる車両の一部を除いて、その多くは海に沈めて魚礁ぎよしようにするんじゃないかって……」
「魚の住みかになるってわけか? 考えるもんだなあ」
 目の前が暗くなった。深緑色の海底に、淋しげに佇むお菓子箱に似た車両が、目に見えるようだった。
「大須は、名駅めいえきや栄町や広小路と違って交通の便が悪いで“地の利がない”って前から言われとるんだわ」
「それなら、映画館の客離れがこれ以上進んだら……」
「陸の孤島になってまうなァ」
 私が息を詰めて平野さんを見ると、彼は静かに頷いた。
(第18回につづく)

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麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

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