双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

【2】会議はみんなで

 三日月の浮かぶ夜、富江さんの家のちゃぶ台を囲んでいるのは私も含めて合計六人。
 富江さん、お母さん、名クロの神谷さん、山高さん、私――そして小寺忠さん……。
 財布女の騒動で警察の取り調べを受けた私とお母さんは、事件と無関係であると証明されたのちに解放された。財布女は警察に呼ばれてやってきたご主人に引き取られ、自分の暮らす街に帰っていった。
 包丁を振りかざしていた男は、やはり薬物を使っていたらしい。警察がきたときにひどく暴れたので、ひとまず病院へ運ばれたようだった。薬が抜けてから正式に逮捕されるのだろう。
 そして蛇を勝手に逃がした忠さんは、大黒堂の店主からこっぴどく怒られていた。しかし蛇たちのおかげで私たちは包丁を持った男から難を逃れることができた……とも言えるので、警察が間に入り、結局大事には至らずに済んだ。ちなみに忠さんが持ってきたガラス瓶には「まむし」と書かれた紙が貼ってあったのだが、実際の中身はすべて毒のないシマヘビだったらしい。
「へー。でもシマヘビを『まむし』と称して売っていたら、詐欺ですよね」
 忠さんがそう言うと、大黒堂の店主はぐうの音も出ずに引き下がるしかなかったようだった。でも、勝手に商品を撒かれたお店の人には気の毒な話だったと思う。
 ちゃぶ台には富江さんが用意してくれた、ひきずり鍋がぐつぐつと煮えている。
「今日はいろいろあって腹が減っただろう。まあ、みんな、ひとまず食いたまえ」
 あぐらをかいた山高さんが言った。
「なんでおまえがここにいるんだ。おまえは関係ないだろう」
 見知らぬ客を前に正座した富江さんがそう言うと、山高さんは平然と話す。
「そんなことはない。なあ、小寺くん」
「ええ、まあ。でも六人もいると、この家はちょっと狭いし、それにずいぶんと老朽化が進んでいますね。壁も薄そうだなあ」
「狭い上にボロくて壁まで薄くって悪かったねえ」と口を曲げる富江さん。
「忠さん、失礼ですよ」とお母さんが慌てている。
「あ、すみません。僕は少々世間知らずでして、悪気もなくひどいことを言ってしまうところがあるらしいんです。そこを世知にたけた信子さんが、万事そつなくかばってくれるというのが僕の常でして。いや、昔の話ですが」
「きみはあれか、金持ちのボンボンか」
「はあ、まあ……昔はそんなものです。あの、僕、あまり酒は飲めないので」
 けれど山高さんは、忠さんのコップになみなみと酒を注いでしまった。
「そんなことよりかしわが固くなる。なんでもいいから、みんな早く食べるんだよ」
 富江さんの指示に従って全員が鍋をつつき出した。
 しかし忠さんは、「うわ、なんだこれ。色も味も濃いなあ」「ひきずりと言うんですか。鍋のなかを箸でひきずって食べるから、なるほど。とても庶民的な名前ですねえ」といちいちうるさい。
「お口に合わないようでしたら、無理に召し上がってもらわなくてもよろしいんですよ」
 皮肉たっぷりに富江さんが言うと、「忠さん」とお母さんがまた小声でたしなめた。
「それよりお母さん、昼に言ってたことを詳しく教えて。私なんにも聞いてない。夜間中学がどうとか、次の仕事のこととか」
 それに、紫のズボンを穿いた小寺忠さんについても……。
 忠さんはコップ酒に口をつけると、「うへえ」と洩らして子供のような反応を見せる。本当に酒が苦手なのだろう。
 お母さんが私の方を向いた。
「私、事務員の仕事に応募してみようと思っているの。ほら、名クロにいつも求人が載っているでしょ?」
「事務員……。女中さんじゃなくって?」
「そう。別に女中や喫茶店のお仕事が嫌になったわけじゃないのよ。会社の事務なら決まった時間で働けるし、お給料も一定の額でもらえるからね。ただ……事務員は『女学校もしくは高校卒業以上』という条件が多いの。私としては当たって砕けろで、先方には、中学の夜学に通ってのちには高校も出る予定で昼は仕事をしていきますって、伝えてみたらどうかなって思ってるの。例外だってあるかもしれないわ」
 女中の多くは日曜など関係なく、住み込みの上に朝から晩まで働くことが前提である場合が多い。だからお母さんは今まで、娘の私がいるからという理由で女中の仕事を避けてきたのだ。
「でも……急に事務なんて、大丈夫なの?」
 私の不安を汲み取ったらしいお母さんが、おどけるように胸を張った。
「なんでもやってみなきゃわからないでしょ。それにね、ありがたいことに、神谷さんが先方の会社に推薦状を書いてくださると言うの」
 神谷さんが意識するように、忠さんを「ちらッ」と見てから言った。
「いえ、俺は当然のことをするまでです。信子さんは今日まで計算式やそろばんを独学で学んできた。みんなには言わなかったけど一度、信子さんにその腕を見せてもらったことがあるんです。そりゃあもうパチパチと目にも止まらぬ速さで、すごいもんでした。これなら俺は名クロの名にかけて、自信を持って推薦できる。そう確信しましたよ」
「いえ、そんな」とお母さんは恥ずかしそうに手を振っている。
 私は思い出す――。お母さんは夜、私が寝たあとに、五年近く私の数学の問題集を解き続けていた。それに上田のおじいさんから物差しで手を叩かれながらも、そろばんを練習していた……。
 山高さんが頬杖をつきながら言った。
「俺はそういう女、好きだね」
「おまえはその軽口を閉じないと張り倒すよ」
 富江さんが腹立たしい様子で舌打ちした。「今日の事件の原因になった女の方は、薬をやっていた男以外に、おまえとも関係があったっていうじゃないか。平気で偉そうにしてるんじゃないよ」
 おっと、と言って山高さんはわざとらしく両手を挙げて身を引くと、「紅玉のやつチクりやがったな」とぼやいた。
「でも、そんなことより胃は治ったの? あんなに調子が悪そうだったのに……今日はぶんぶん熊手を振り回していたし」
「へえッ、信ちゃんが、熊手をかい?」
 私の言葉に驚く富江さんに、お母さんが笑いかける。
「先日、武藤先生のところでもう一度胃を診てもらったら、完治してるって言われたんです」
 みんながよかったよかったと口にして拍手した。お母さんは丁寧に「ありがとうございます」と頭を下げている。自分のことじゃないのに、なぜか私は得意な気持ちになった。富江さんが言う。
「ほら、上田さんから借りた医学書に『胃潰瘍はまだ解明されていない病気である』なんて書いてあったから、もしあのままだったら、私もどうしようかと思ってねえ」
「確かにそうだ。薬を飲んでもなかなか治らなかったんですよね。それが、どうして急に治ったんでしょう?」
 神谷さんが腕を組みながら呟くと、忠さんが言った。
「周りに気を遣わずに、自分なりの歩調で、ぐーすかとたっぷり寝たのがよかったんですよ」
「たっぷり寝た? ぐーすかって……誰から聞いたんですか?」
 お母さんが忠さんを見つめると、彼は私の方を見る。
「誰からって、信子さんの娘さんですよ。僕はこの子と、年明け頃に漢方薬局の前で会ったことがあるんです」
「どうして年明けに……大須にいらしたんです?」
「それはおいおい話しますよ。まあとにかく、僕がこの子と会ったときは、お母さん……つまり信子さんのことを、この子はたいそう心配していたようでした。漢方は効くのか? お母さんは寝てばっかりいるけど、大丈夫なのかなって」
「そうなの?」
 お母さんの言葉に私は頷いた。
「ずっと心配してくれていたのね、ありがとう」
「そんな……。別にたいしたことないよ」
 みんなの手前、恥ずかしくてそっぽを向くと、その拍子に気持ちがゆるんで目頭がじわッと熱くなった。前に紅玉さんと富江さんから言われた言葉を思い出す。
 ――元気になれば「ごめん」以外の言葉も出てくるよ。
 ――信ちゃんを見てごらん、必死に自分の生い立ちから抜け出そうとしているじゃないか。
 お母さんは今までの、気を遣いすぎる癖を見直して、ぐーすか寝て心身ともに休ませることで、胃の病気を治していったんだ。そして武藤先生とのお金持ちの生活じゃなくて、私と大須の街を選んでくれた……。
 指先でこっそり目を拭うと、みんなの視線を感じた。
「ちょっと、なに見てるのッ」
 けれど、すかさず伸びてきた山高さんの大きな手が、私の頭をわしづかみにしてぐしゃぐしゃとかきまぜた。
「碧、おまえは本当によくがんばったな」
「なんでおまえが一番いいところを持っていくんだい?」
 富江さんの言葉を無視して山高さんが「ところでな」と切り出すと、忠さんを見据えた。
「さっきから当たり前みてェに飯を食ってるが、あんたはいったい誰なんだ?」
 全員の関心を集めた忠さんが、きょろきょろする。「僕ですか」と言ってお椀とお箸を置くと急に居住まいを正した。
「僕はかつて、信子さんとうちうちに婚約を交わした者です」
 私は驚きつつもお母さんへ視線を走らせた。すると、不安そうに忠さんを見守っている。
「もう二十年近く前の話になりますが、信子さんは大阪の、僕の家の女中をやっていたんです。僕は信子さんより五歳下です。でも、彼女とほとんど年の変わらない僕の兄二人も、年齢とは別に、働き者で優しい信子さんのことは姉のように慕っていました。父は大学の研究者で母は大学職員です。二人とも家にいないことが多かったから……ときには彼女のことを、実の母よりも親しい人だと感じることもありました」
「……」
 忠さんの話を聞きながら、私は頭の血が急に冷えてくる思いがした。
 大阪の家の女中。父親は大学教授。男ばかりの三人兄弟の末っ子……。
「早々に戦争へ行った兄は二人とも、戦地で亡くなりました。僕は弱視のせいで召集がかからなかったのですが、父と母には黙って……信子さんとお付き合いをしていました。僕が二十一のときです。ですが昭和二十年に入った頃、招集令状がやってきて……出征が決まってしまいました」
「終戦の年の召集か。すると、かなり戦況が厳しい時期だったんじゃないかな」
 神谷さんが呟くと、忠さんは同意するように頷いた。
「僕は当時、薬学部の学生だったということもあって、出征した満州では医療班に回されました。おかげで前線には行かずに命拾いしたのかもしれません。しかし、終戦後はシベリアに抑留されてしまって……。復員したときにはもう、昭和二十五年になっていました」
 同情するようなため息を洩らしたり、腕を組んだり……。みんなはそれぞれ、心が当時に戻っているような反応を見せた。山高さんがふいに口を開く。
「よく日本に、帰ってこれたな」
「はい。自分でもそう思います。抑留を解かれたあとはすぐに大阪へ帰ったんですが、母はもう亡くなっていて、父だけが存命でした。僕が生まれ育った家は確かに大きな家でしたが、空襲で全部やられてしまって……。父も、とても教壇に立てるような状態ではありませんでした。だから僕は知人の会社で働きながら、父と二人で細々と暮らしていたんです。ですが父もついにはせるようになってしまいまして、長患いの末に、昨年、息を引き取りました」
 息を詰めるように話していた忠さんだったが、ふいに顔を上げた。
「でも、父が入院していた病院で偶然、信子さんを知っているという元女中の方と知り合ったんです。その方は戦時中に疎開先の福井で信子さんを見たと言っていました。いまさら会ってどうしたらいいのか僕もわからず、さんざん迷ったんですが、父が亡くなったあとにやっと……信子さんの生家を訪ねてみようという気になりました」
「えッ、福井に? 私の両親に会ったんですか」
「はい、勝手にすみません。残念ながら、お父さんはすでに他界されています。でもお母さんはご存命でした。それにご兄弟も何人か」
「母が……」
 呟いたお母さんの顔がみるみる青ざめていく。
「忠さん。まさか母に……お金を、渡したんですか?」
「え、どうしてわかったんですか。だいぶお年を召していらっしゃるようでしたから、信子さんの行方……と言っても大須に住んでいることくらいしかご存知ではないようでしたが、とにかく、今暮らしている土地を教えてもらうのを条件に、いくらか包ませてもらいました」
「なんてことを。ああ……お金、またお金。あんな人に……」
 衝撃を受けているお母さんに対し、忠さんは「困ったなあ」と育ちのよさそうな、のんびりした調子で笑っている。
「母に……いくら渡したんですか」
「二万と少しです」
 お母さんはその額にしばらく絶句してしまった。それからはたと気づくと、「すみません、すみません」と何度も頭を下げる。二万と言えば、大卒の初任給の額よりもずっと多い。立派な自転車が一台は買える金額だ。自転車があれば、どんなに便利だろう……そんな思いについ捕らわれてしまう。けれど忠さんは慌てて言い直した。
「いいんですよ、お金なんて。実際こうして、あなたと会えたんですから」
 そう話すものの、少しくたびれたジャケットを着た忠さんは、小さく首を傾げて淋しそうに言った。
「でも、結婚の約束をしてから十八年もたっているから、ある程度の覚悟はしていました。そうですよね。ご結婚されて、お子さんくらいいても当然だ……」
 昭和二十年に入ってから召集令状がきた……。
 聞いたことのある話題の連続に、私の心臓が早鐘を打ち始めた。ちょっと待って、ちょっと……。けれどお母さんは確認するように私の目を見る。――いいわね碧、と、心のなかで言われたような気がした。
 たちまち危険信号が点滅し始め、待って、という思いで反射的に腰を浮かし、お母さんの方に手を伸ばしたけれど……間に合わなかった。
 お母さんが覚悟を決めたように口を開く。
「なに言ってるんです……。あなたの子ですよ、この子は」
「へ?」
「この子は、忠さんが出征なさったあとに私が福井で産んだ、あなたの子なんです」
「はは、まさか……」
「まさかじゃありません。碧は今年の誕生日で十七になります」
 長い間、忠さんは黙っていた。
 それからふと顔面蒼白になり、ロボットのようにギクシャクした動きでコップ酒をつかむと、富江さんが止めるのを振り切って、酒を一気にあおってしまった。音を立ててコップを置くと、私を見て急に刺すような声を出す。
「きみの名前は――というのか」
 頭が混乱した私は、ちゃぶ台を両手で強く叩いて立ち上がった。
「碧だからってなんだって言うの? ちょっと待って。この変な服装のおじさんが私の……。やだ、いきなりやめて。意味がわからない!」
 落ち着け、落ち着け……。そう言い聞かせながら私は六畳間を歩き回る。
 中腰になった富江さんが心配そうに私の名を呼んでいる。急に山高さんが私の前に立ちはだかった。
「待て。こんな得体の知れねえやつが突然やってきて、父親だなんてなあ……。頭がになるのも当然だ。おまえは誤解してんだ。よく聞け。おまえの本当の父親はこいつじゃねえ。俺だ――」
 鷹のごとく飛んできた拳が、山高さんの頭を横から殴りつけた。頭を抱えて痛みをこらえる山高さんを富江さんが叱り飛ばす。
「山高ッ、おまえ! 酔っとるからって、言っていい冗談と悪い冗談があるのもわからんのかあッ」
 すると壁の方に灰皿を引き寄せ、一人でたばこを吸っていた神谷さんが、赤くなった顔を向けると「そうだ!」と声をあげた。こちらはもっと酔っているらしい。
「さっきから黙って聞いていたがなあ、突然やってきたこんな男に、大須でずっと暮らしてきた信子さんと碧ちゃんのなにがわかるっていうんです!」
 同じく酔いの回った忠さんもいきなり敵意を向けられ、腹が立ったらしい。立ち上がると、ちゃぶ台を挟んで神谷さんと対峙した。その下では富江さんが急いで鍋にふたをしている。
「初対面の人間に向かってこんなやつとは失敬だな。きみは新聞記者だと聞いたぞ。名古屋はこんな礼儀知らずの人間が記事を書いているのか!」
「たわけー! このめがねのぼんくらが」
「なんやと、おまえやってめがねやないか!」
 神谷さんは一度大きなしゃっくりをしてから、忠さんに詰め寄っていく。
「これはなあ、ただのめがねとは違う。ただのめがねとは違うんだぞう。よく聞けよ……これは、俺のペンと汗と涙の結晶であり、俺の一部なんだよう……」
「ははァ、わかったぞ……。要するに、きみは信子さんに気があるんだな」
 忠さんが冷静に言うと、「えッ、まさか」とお母さんがうろたえている。私は薄々、神谷さんがお母さんに気があることを気づいていたから、そんなに驚かなかったけど……。
 指摘を受けて「なにをッ」と声を荒げた忠さんと睨み合っていた神谷さんだったが、急に力を失ったように片手で顔をおおい、声を洩らして泣き始めた。
「ああ、信子さんは俺にとってひそやかな憧れの対象だったんだ……。今日まで俺が独身を貫いていたのは信子さんと碧ちゃんがいたからなのに……」
 神谷さんは今度は膝を折って、ちゃぶ台に突っ伏して泣き始めた。
「ひでェ泣き上戸だな」
 と山高さんが呟き、富江さんはうんざりと言い放つ。
「神谷、結婚しない理由はおまえ自身の問題だろう。信ちゃんと碧のせいにするんじゃないよ。それにしてもこんな悪酔いしてるようじゃ、明日にはなんにも覚えてないとか言いそうだけどね」
「まあまあ。まだ諦めるのは早いんじゃねえか? なあ」
 山高さんが神谷さんの肩をぽんぽん叩くと、富江さんがまたげんこつを落とした。
「あ痛ッ」
「だからさっきから、これ以上おまえは話をややこしくするんじゃないって、言っとるだろう!」
 今日の事件の名残りと、酒のせいで興奮状態に陥った三人のそばで、お母さんが急いでちゃぶ台の上の鍋や皿を流しの方に移動させている。
 ついにはご近所から、「やかましい。たいがいにしとけッ」と声が響いた。山高さんが玄関までつかつかと歩いて行って下駄を履くと表へ出た。
「ばかやろう! てめえより大事な話してんだよこっちは。文句があるなら直接言いにこい!」
 表がしんとなったのを確認した山高さんは、「よし」と言って戻ってくると再び口論が始まった。
 そんな大人たちの姿に、私は圧倒されるばかりだった。
 いったい自分がなにをもって衝撃を受けていたのかさえ、おぼろになる。けれど目の前の大人たちが騒げば騒ぐほど、頭のなかは静まり返っていくようだった。
 私はくらくらする頭を抱えながら、黙って彼らに背を向けて、三軒先の家まで帰るとそのまま布団にもぐり込んだ。
 うとうとしている間も、大人たちの大人げない言い争いはまったく止む気配がない。
 だから他人事のように聞き流し、その晩は気絶するように眠ってしまった。

 結局、なにがどうまとまったのかは、わからない。
 私は忠さんを父親だと紹介された翌日から、三日続けて熱を出して寝込んでしまった。
 熱に浮かされているときに、耳もとから水音が聞こえてきて、そのあと、おでこがひやッと冷たくなった。お母さんや富江さんが何度か目の前に現れ、朦朧とする意識の向こうから、二人の会話が聞こえてくる。
 ――急に父親だなんて言われて熱出すのも当然だよ。かわいそうに……。
 ――ごめんね、碧……。
 お母さん謝らないで……。
 暗闇から浮き上がるような思いで目を開けると、今度は忠さんの顔があった。叱られた子供のような表情をしている。でも、もしかしたら夢だったのかもしれない。
 熱が下がってくると久美ちゃんがお見舞にきてくれた。
「安心して休むんだよ。きしめん屋さんには代わりに私が入るから」
 春休み中なので学業の問題はないが、アルバイトは休まざるを得ない。
「ありがとう……助かる」
 久美ちゃんは枕元にあった水さしで水を飲ませてくれた。
「三日前の晩にね、きしめん屋さんに碧ちゃんが熱を出したことを伝えに行ったら、『急だなあ、困ったなあ』って一平さんが騒ぎだしたの。それで代わりに私が出るからって伝えたんだけど……あの人って口うるさいのね。お釣りをちょっと多く渡しそうになったら、『はよ慣れんといかんわ』だってさ。ケチよねえ。ああ、思い出したら腹が立ってきた」
「ごめん……」
「あ、いいの。私から引き受けたんだから。でも嫌なことを言われたりするのも仕事のうちなんだなって勉強になった。あと、碧ちゃんのお父さんのこと……聞いたよ」
「……」
「あの人、後ろから見ると猫背で老けた感じがするけど、話すととっても優しそう。白髪は多いけど、うちのお父さんより見た目も若いし。でも、なんか奇抜な色の服を着てるよね。ああいうのって大阪で流行ってるのかな?」
 そう話す久美ちゃんは、明るいピンクのカーディガンに緑のスカートを穿いている。テーマは春らしく「チューリップ」だそうだ。
 財布女の流血事件。大須の蛇騒動。それらと併せて忠さんの噂はすでに大須中に広まっているようだった。
 お母さんと再会した翌日から、忠さんはひとまず向かいの長屋の空いた部屋に住むことになったらしい。
「家賃はきっちりもらうからね」
「当然ですよ。は、ははは……」
 富江さんに言われ、消沈した忠さんの声が玄関の向こうから聞こえてきた。お祖母ちゃんに二万もとられてしまって、懐が淋しいのかもしれない。
 うたた寝していると、今度は窓の向こうからひそひそと聞こえてくる。
「碧ちゃんは認知してもらえるんだで、よかったが」
「なのに、お父さんがくるのはどえらい遅かったなあ」
「大阪に……奥さんがおるだんわァ?」
 そこへ「こんにちは」と忠さんの声が混じった。わあッと驚いたご近所さんは「どうも」「関西の人だったなあ……おおきに」なんて急に調子のいいことを言いながら、散り散りになったようだった。
 夕方、私が目を覚ますと、玄関先にパイナップルの缶詰が置いてあった。「パインアップル」と書かれた紙ラベルの隅に「お大事に」と見知らぬ字で書かれている。
 真っ白なお皿に横たわる、シロップをたっぷりと吸った甘酸っぱいパイナップル……。想像するだけで喉が鳴るようだ。缶詰を置いたのはたぶん……忠さんだろう。でも――こんな缶詰ぐらいで父親顔されてたまるものか。
 そんな思いとともに、私は、缶詰を床下収納の奥の方にしまい込んでしまった。
 
 倒れてから五日後、体調が戻ると、すぐさまアルバイトへ行った。
 忠さんはというと……富江さんから聞いた話では、日中、大須の射的屋やパチンコ屋へ出向いたりしてのんびりしているようだった。
 一方、胃潰瘍が治り(正確には寛解かんかいというらしい)即座に職探しを始めたお母さんは、神谷さんが作った推薦状を持参して、連絡の取れた会社を片っ端から回り始めていた。
「だって、ぴかぴかの金のたまごたちがライバルなのよ。止めてもらっていた家賃も早く払いたいし、親しき仲にも礼儀ありって言うでしょ」
 そう言って出かけようとするお母さんを呼び止めた。
「この前のお酒の席のこと……神谷さん、なにか言ってた?」
「ふふ、なんにも覚えてないんですって。『すみません、あの晩なにか変なこと言ってませんでしたか』って心配そうに聞かれたわ。だから言ったの。なんにも聞いてませんよって」
 お母さんは軽く手を振ると、早足で板塀の向こうに消えてしまった。
 富江さんが埃っぽい道に水を撒きながら、ぼやく。
「もう少しゆっくりしたらいいのに……。でも、あれが信ちゃんの気性なんだろうねえ」
 そう言って、表に出した縁台で仰向けになっていびきをかいている忠さんを見た。今日はランニングシャツに真っ赤なズボンを穿いている。
「あの人、なまけすぎじゃない?」
「戦争のあとはあんなふうに、ぼさッとした人がたくさんいたもんさ。あんたと同じように、びっくりして休んでるんだろう」
 けれど抑留されていた期間を引いても、もう十年以上も経っている。
「富江さんはあの人のことを、どう思ってるの?」
「どうって……」
 ひしゃくを持つ手が止まった。
「信ちゃんがそうだって言うんだから、碧の父親なんだろうねえ。信ちゃんが嘘をつくとは思えないし……。こっちからはなにも言えることはないよ」
 バケツとひしゃくを片づける横顔に、かすかに淋しそうな影がさす。
「あの人……早く出て行ったらいいのに」
「碧、そんなことを言うんじゃない」
 富江さんが厳しい声を出した。反省して押し黙ると、彼女はにっこりする。
「あんただって熱が下がったばかりなんだから、無理をするんじゃないよ。今日は仕事が休みだろ。茹であずき食べるかい?」
「うん」
「前は……ぶったりしてすまなかったね。あのときは痛かっただろ?」
「ううん」
 富江さんと視線を交わすと、春の陽ざしを浴びながら、私たちは縁側に足を投げ出して、ほろほろと甘いあずきを食べた。
 
(第17回につづく)

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麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

  • 双葉社
  • 小説推理
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