双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

第3章

【1】はじめまして(承前)

 春休みになり、大須商店街にやってくる人の数がぐんと増えてきた。
 きしめんの出前を済ませた私は、岡持を抱えながら右に左に人を避けながら進む。
 今日はお母さんが武藤先生の診察を受ける日だった。
 診察のあとに武藤先生はいつも、お母さんを大須観音に近いフルーツパーラーに誘う。りんごやバナナが入ったフルーツジュースはビタミンが豊富で消化にいいから、という理由らしい。
 ついさっき帰るついでにフルーツパーラーをのぞいたら、私の前ではめったに表情を変えない武藤先生が、目もとに微笑を浮かべながら、お母さんと話をしているようだった。
 なんだか、かなわないような思いが胸いっぱいに広がり、気後れした私はのろのろと重い足をひきずるように歩いた。
 すると、どこからともなく、けたたましい女の悲鳴が聞こえてきた。
「助けて―――ッ。誰か助けてってば―――――ッ!」
 映画館から出てきた大勢の人たちが、何事かと立ち止まって、きょろきょろしている。
 と、すぐさま人の波が割れ、シュミーズ姿の女がこちらに向かって走ってきた。
「どいてどいてどいてどいてどいて―――――――ッ」
 髪を振り乱しながら、はだしで全力疾走しているのは――財布女だった。顔や腕には切り傷があり、生成り色のシュミーズがところどころ血に染まっている。
 財布女の二十メートルほど後ろから彼女を追ってくるのは、若い、上半身裸にステテコ姿の男だ。手には刃渡り二十センチ以上はありそうな牛刀を握っている。
 ぞっとしながらも私は、すばやく岡持を置いて、駈けてくる財布女の横に並ぶようにして走った。
 タイミングを測って彼女の左腕を強引につかむと、あッと財布女が声をあげ、怒りで血走った目を向けてきた。しかし「こっち!」と私も負けずに声をあげ、細い路地の方へ走りながら彼女を引っ張って誘導した。
 血の滲む下着姿に圧倒され、多くの人は私たちを避けてくれるのだが、たまによそみをしている人にぶつかって、そのたびに走るスピードが落ちた。そして財布女が蹴躓けつまずくと、私も引きずられるように転び、派手な音を立てながら、二人して店先の商品の台に身体ごと突っ込んでいった。
「なんだなんだ、碧ちゃんかあ。これ、わやくちゃになってまったが」
「ごめん、おじさん! 変な男に追われてるから警察を呼んで!」
 なにかを察したらしいおじさんが、「わかったあ」と言った直後には、転がっていた財布女の腕をつかんで、再び彼女をひきずるようにして走った。
「腕ッ、さっきから痛いってば! あんたいったい誰なのよ!」
「もうちょっと我慢して。ここは抜け道だから」
 痛いのはこっちだって同じだった。台にぶつかったときに、左腕を強く打って膝も擦りむいていた。けれど、とにかく男を撒いてしまおうと、あえてわかりにくい路地を選んでくねくねと進んだ。離れたところからときどき、驚くような悲鳴があがるので、そのあたりに牛刀を持った男がいるのだろう……ということだけは予測できた。
 狭い路地を抜けると大須観音はもう目と鼻の先だった。お参りを済ませた人たちがこちらを見て、ぎょっとしている。
「こっちにきて」
 私はそう言ってさらに腕を引こうとしたが、財布女はぜえぜえと息を切らし、仁王門の裏の、隅の柱に顔を向けてもたれかかってしまった。仕方がないので私は、着ていた自分のカーディガンを肩にかけてやると、それ以上目立たないように、彼女の前にあえて仁王立ちした。
 それでもやはり……カーディガンからのぞく血のついたシュミーズと、はだしが目を引くらしい。人の視線を感じるたびに、私はひやひやしつつも「見るな」という威圧感を込め、口を結んで腕を組んだ。
「……どうして私を助けたの?」
「わからない。怖かったけど、身体が勝手に動いてただけ」
「あんたって、足がすごく速いのね」
 少しだけ振り返ると、背中越しの財布女はカーディガンをきちんと羽織っている。
「さっきの男の人って……映画館で一緒にいた人だよね」
 私が尋ねると、財布女はなにを言っているのかわからない、という顔をした。けれど私は確信していた。男の気性の荒そうな、危なっかしい雰囲気だけはよくおぼえている。
「ほら、三番館のナイトショーで、私が男の格好をしていたときに会ったでしょ」
「え……? ああ、あのときの小娘ね」
 子供扱いされてむっとしたが、無視して続けた。
「息は楽になった? 交番は遠いから、ひとまず大須観音の社務所に逃げ込もうよ」
 けれど彼女は「もう動けない」と不満げに洩らし、門の隙間から、男がいるであろう方向をじっと見つめている。
「さっきの男の人と、いったいなにがあったの?」
「このみっともない格好を見てもわからない?」 
 財布女は自分を嘲笑うように両手を広げると、ふっと悲しそうな表情を見せた。シュミーズの下には黒いブラジャーが透けている。私は自分なりにいろいろ想像し、頬と耳が燃えるように熱くなった。
「ちょっと」
 門の隙間をのぞいていた財布女が、急に鋭い声を出した。同じようにのぞくと……門の向こう側に、映画館で見た男が、きょろきょろと首を動かしながら立っている。男はうすら笑いを浮かべながら、ボロ布を抱えていた。目立つから、たぶん牛刀を布で巻いて隠したのだろう。
「じっとしてて」
 しかし、わなわなと震え出した財布女は私の指示など聞こえないようだった。やにわに立ち上がると、境内の鐘つき堂の横をふらふらと逃げていく。その周辺で遊んでいた子供たちが、「わあ、はだかだあ」「血だあ」といっせいに声をあげた。
 男がこちらを見た。
 その確信を持った表情を目にして、自然と私の足が駆け出した。
 のろのろと走る財布女にあっという間に追いつくと、彼女の腕をつかみ、力いっぱい引っ張りながら境内を抜けた。私たちを見て、ときどきあがる仰天の声を背に、人垣をかいくぐりながら横丁へそれる。――すると、前方に大きなトラックが道を塞ぐように停まっていた。
「ちょっと、なんでこんなとこに停めるのよッ、ばかじゃないの?」
「下をくぐれば行けるよ」
「だめ、足が痛くって……」
 脂汗を浮かべた財布女は、歯を食いしばりながら足の裏を上に向けた。逃げている際に切ったらしく血と泥で汚れている。それに、男と争ったときに負ったらしい腕の傷からも、血が流れていた。
 私はハンケチを使って止血しようと思いついた。取り出したハンケチを三角形に折って、傷口より上でぎゅっと結んだとき、目前で顔をあげた財布女の顔に、ぽつんと小さな恐怖が浮かんだ。それはたちまち波紋のように広がっていく。
「おまえ、どっかで見た顔だなあ――」
 男の声に、私の心臓がすくみ上がった。
 振り返ると、少し離れた先に、上半身裸にステテコ姿の男が立っている。
 財布女の口が大きく開いてなにか叫んだようだった。しかし恐怖と驚きで頭が真っ白になった私には、彼女がなにを叫んだのか、わからなかった。
 男は抱えていた布を剥がし、そのなかから牛刀を取り出した。
 その切っ先が夕陽を受けてぎらりと光る。
 私の身体がまた勝手に動きだしていた。植木鉢や木材など、民家の前にあるものを手当たり次第手に取って、男に向かって投げつけていく。一つ、二つ、三つ――。
 防火用水の入ったバケツをぶち撒けても、びくともしない男は、水を浴びた顔を上からゆっくりと手で拭った。
「もう仕舞かあ……? そんなら次はこっちの番だわ」
 男は足もとが少しふらついているが、ぎらぎらした妙な気迫をみなぎらせている。たまに夜の街でこういう人を見かけることがある。なにか変な薬をやっているのかもしれない。そういう人はたいてい、ためらいがない。もしかしたら――本当に殺されるかもしれない……。
 牛刀の尖った部分を向けられると、足がすくみ、全身の血が凍りついたような思いがした。防火用バケツが私の手からすべり落ちる。
 もうだめかもしれない、と、意識が遠くなりそうになったそのとき――。
 腹の底から出したような、堂々とした女の声が、あたりいちめんに響き渡った。
「こっちを向きなさい!」
 男の向こうに、熊手をにぎった――私のお母さんが立っている。
「嫁入り前の娘に怪我なんかさせたら許さないわよ」
「はあ? 誰だァ?」
 男は私たちに背を向けて、お母さんと向かい合う。
「これるもんならいらっしゃい。ポン中男」
「なにッ……売女がァ」
 怒りで顔を真っ赤にした男が牛刀を振り上げた。瞬時にお母さんは腰をかがめて男の近くまで踏み込むと、えいと低い位置から膝に熊手で一撃を加えた。甲高い悲鳴をあげて崩れるように倒れる男。が、お母さんは容赦しない。今度はくるりと回した熊手の先端で、猫のように男の顔を引っ掻いた。ぎゃッ、と叫んだ男が尻持ちをつくと、すかさず熊手の上下を持ち替え、男の手首めがけてやあと振り下ろした。
 強い衝撃を受け、ぽろりと牛刀を落とした男は顔をゆがめて悶えている。
 地面に落ちた牛刀をお母さんがつま先で遠くへ蹴り飛ばした。それは回転しながら財布女の許へ届いたので、彼女は必死に逃げ惑っている。
 そして再び身を起こそうとした男の喉仏に、熊手の柄の先端がぴたりと当たった。
「力一杯突けば息だって止まる。どう、試してみる?」
 顎の先をめいっぱい上げた男は、口元から悔しそうな息を洩らしながらも動かない。
 一瞬の沈黙。そのあと――わあッと大歓声があがった。
 いつの間に集まっていたのか、横丁の入り口が群衆で埋まっている。
「痴情のもつれかあ?」
「アベサダ事件の再来だわ」
「大須の女剣士だがや」
 私を見たお母さんが、なにか意味を含めるように口の端を上げた。
 ――あッ! どきんと胸が鳴った。思い出したのだ。「碧、今に見ていなさいよ」と言われたときのことを。女中時代にご主人の留守を狙って強盗が入ったときは、包丁を握って奥さまと坊っちゃんたちを守ったことだってあったのよ、と言っていたことを――。
 私を縛りつけていたお母さんへの疑問と不安が、少しずつほどけていく。
 でも病気なのに、あんなに激しい動きをして大丈夫なのだろうか? 聞きたいことはたくさんあったが、男の方へ向き直ったお母さんの背中は緊張感に満ちていて、質問を許さない雰囲気である。
 お母さんが低い声で財布女に囁いた。
「あなた、この街の男を小馬鹿にして、安易な気持ちで近づくからこんなことになるのよ。待っているご主人がいるんでしょう? まだ間に合うわ、帰りなさい」
「そんなもの……いないわよ。だって、愛人のところに行ったきりで帰ってこないもの」
 お母さんは一瞬だけ悲しそうな表情をした。けれど、すぐに顔を引き締める。
「たとえそうでも、あなたの人生でしょ。自分の問題と向き合わない限り、いつまでたっても同じことの繰り返しよ」
 財布女の顔に、はッとした色がよぎる。と同時に、横丁の人だかりから二人の男が飛び出した。
「信子さん!」
 弾んだ声がぴったりそろう。
 一人は神谷さん。もう一人は――「大黒堂」の前で話しかけてきた紫ズボンの男だった。今日も真夏の茄子のような色のズボンを穿いている。神谷さんが「誰だ?」という顔を向けたが、男は神谷さんのことなど気にする風もなく、興奮した様子で声をあげた。
「あなたがこの男を成敗するところを見て、すぐわかりましたよ。前もそうやって僕を助けてくれた。変わらない……僕の信子さんだって!」
 僕の信子さん。
 ぎょっとする私の前で、お母さんの手から静かに熊手が落ちた。眉をひそめ、震えるように一歩踏み出す。
「ま、まさか……。た、ただしさん? 生きて……いらしたんですか」
「そうです。小寺こでら忠です。幽霊なんかじゃありませんよ!」
 ――小寺忠って……誰だろう?   
 そのとき、財布女の悲鳴が私の思考を黙らせた。起き上がった男が、植木鉢を両手で掲げながら、お母さんのすぐ後ろに近づいていたからだ。
 すると今度は、群衆から黒い影が飛び出した。
「遅れをとったぜ。俺は惚れ直したぞ、信子!」
 ちらりとお母さんに色目を使った山高さんが、マントを翻し、その内側から取り出した杖を振りかざすと、「おらァーッ」と向かっていく。神谷さんも負けじと駆け出した。
 けれど、高揚して周りがよく見えていないらしい忠さんは、
「ええい、これでもくらえ!」
 と、抱えていたガラス瓶のふたを開け、その中身を勢いよく、高い位置から上に広げるように振り撒いた。植木鉢を持った男と山高さん、神谷さんの頭上から、大量の蛇が降り注ぐ。
 ぎゃ――――――――――――――ッ!
 もう誰の悲鳴かわからなかった。うぎゃあとか、あぎゃあとか、あひゃあとか……とにかく忠さん以外のその場にいた、ほぼ全員が発した奇声だったのは間違いない。突然の自由を得た黒い蛇たちは、地面を泳ぐように這いまわっている。いろんな場所から叫び声があがって、あれだけ動けないと洩らしていた財布女でさえ、トラックの荷台に飛び移っていた。野次馬たちも逃げ惑っている。
 忠さんが持っていたガラス瓶は、きっと、「大黒堂」の前に置かれていた干物以前の蛇が入ったものに違いない。
 そして当の植木鉢を持ったヒロポン中毒らしき男は……仰向けになって気絶していた。蛇が苦手らしい。彼の顔の隆起を縞模様の蛇が身体をくねらせながら渡っていく。
「瓶の中身はマムシとシマヘビだと思うんですけど、毒をもたないシマヘビの割合が多いみたいだから、たぶん大丈夫ですよ。ははは」
 忠さんはそう言って、のんきに笑っていた。

 だけど本当は、もう一人だけ蛇をものともせず、こちらに歩いてきた人がいた――武藤先生だ。
 蛇を避けながらお母さんの許にやってくると、先生は気絶した男を見やった。
「意外と野蛮なんですね、あなたは」
 頬を紅潮させたお母さんは微笑を浮かべ、周囲の蛇が近くにこないように、熊手で追い払っている。
「別にあなたがここまでする必要はないでしょう」
「いえ――私、田舎育ちで、ずっと女中をやって生きてきたものですから、こういうことが得意なんです」
「女中仕事を卒業する気はない、ということですか」
「女中仕事というより……目の前のことを精一杯やっているだけで、あまり女中だとかそういうことは考えたことがなくって……」
「それは、上の世界を知らないというだけの話じゃないのですか?」
「いいえ。私のなかに上も下もありません。ご覧の通り、単純に、身体を動かすことが好きなんです。それに、もう次の働き口も探してるんですよ」
「しかしあなたの生い立ちでは……失礼ながら、また同じことの繰り返しになるのではないでしょうか。歴史を振り返っても、庇護を受けない女性は報われないことが多いですから」
「そうかもしれません。でも、だからこそ、自分と娘の身を守るためにも、働きながら夜間中学に通おうと思っているんです」
 夜間中学――。
 びっくりする私の斜め前で、かすかに眉を動かした武藤先生が言い放つ。
「そんなもの、女だてらに行ってどうするんです。いまさら……」
「ずっと働いてきたからこそ勉強したい、勉強が必要だって思ったんです。私、変なことを言ってますか」
「要するに……私の誘いに応じる気はない、と――」
 忌々いまいましい様子で目を細めた武藤先生の言葉には、憎しみがこもっているようにさえ聞こえた。けれどお母さんは言い返さずに、ただ、小さく頷いた。
「私はあなたに、女性らしい、ゆっくりした生活を送らせてあげたいという気持ちがあって……それだけなんですがね」
 お母さんは目を伏せて、口を結んだままなにも言わない。その表情から、お母さんの覚悟が強いことを察したらしい。「残念だが失礼する」と残し、武藤先生はお母さんに背を向けて歩き出した。途中でふと足を止めた先生は、忠さんに冷徹な視線を送り、それからじっと私を見た。
「似ているね。娘さん、身内の方がいらっしゃったようだ」
 そう言って再び、平然と蛇をまたいでいく。その背にお母さんが深々と頭を下げていた。
「いろいろとご恩は忘れません。ありがとうございました……」


(第16回につづく)

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麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

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