双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

第3章

【1】はじめまして

 昭和三十七年、一月十五日の祝日。いまだ仮本堂のままの大須観音周辺は、多くの露店が並び、大勢の人々でにぎわい、ハレの日の空気に満ちていた。
 それに比べて大須観音の裏手にある漢方薬局「大黒堂」――ここはいつきても薄暗くて陰気だ。
 店の前には一週間前に降った雪が、泥に汚れてまだ残っている。
 私は横長のショーウインドウに並ぶ品を眺めた。サルノコシカケ、高麗人参、乾燥させた木の皮、蛙の干物、蛇の干物、猿の頭の干物……。
「大黒堂」と金文字の看板を掲げる入口前には、高さ五十センチほどのガラス瓶がいくつか置かれ、そのなかでは、蛇や蜥蜴とかげうごめいている。――いつか干物にされるとも知らずに……。
 店からふと、睦まじい様子で腕を組んだ中年の男女が出てきた。二人は私などには目もくれず、身を寄せ合い、暗い路地へと入っていく。あの先にあるのは連れ込み宿だ。
 久しぶりにきたけど……相変わらず、なんて怪しい店なんだろう……。
 小、中学生の頃はよく、友達をこの店の前に連れてきて、怖がらせては喜んでいたものだった。
 それが今は、真剣に、店に入ろうかどうか、迷っている。
 人の気配がない店内には、薬草の名を書いた木箱が、壁沿いにいくつも並んでいた。その文字を読み取ろうとショーウインドウのガラスに額をつけ、つま先立ちになり、目をこらしていると……「どしん」と横からぶつかるものがあった。
 と、と、と――。よろけて転びそうになった私の腕を、ぐいと引き寄せてくれたのは、いつの間にか隣に立っていた(らしい)男の人だった。めがねをかけた三十代後半くらいのおじさんが、戦時中の兵隊が使っていたような、大きなリュックを背負っている。
「あ、失礼!」
 慌てて私の手首から手を離した。
「ごめんね。夢中になって見ていたから、これが当たってしまったようだ」
 そう言って、荷物で膨れ上がったリュックを地面に下ろした。
「いえ、私も集中してのぞき込んでいたから……」
「お若いのに。もしや漢方に興味があるんですか」
「あの……詳しい方ですか?」
 なぜそんなことを尋ねたのかというと、男から変な印象を受けたからだった。その男は両目が少しだけ離れ気味で、人好きのする顔立ちをしているのだが、服装が少し変わっていた。茶色のコールテンのジャケットに白いシャツ……まではいい。問題はその下だ。チンピラが着用しているような、鮮やかな紫色のズボンを穿いている。
 怪しい店には、怪しい服装の店員がよく似合う……ような気がする。
 私がじろじろ見ていると、男はなんでもないことのように答えた。
「まあ、詳しい方かもしれません。今日はどういったご用件ですか」
 にっこり笑うと目が糸のようになっている。もしかしたら店員ではなく、取引業者の人かもしれない。リュックには、怪しいルートで手に入れたまぼろしのきのこが入っているとか……。
「胃潰瘍に効く薬を探しているんです。母が昨年から患っていて」
「お母さんが……それは気の毒だ。病院の方へは?」
「診てもらっているんですけど、まだ治ってないし、漢方はどうなのかなって」
 東洋医学と西洋医学。二つの存在については、富江さんの家にある医学書を読んで知った。
「ふうむ。胃潰瘍になるくらいだから、お母さんはよく気を遣う人なんじゃないですか?」
「はい、そうです。その通り」
「今はどんな様子ですか? 具体的に」
「三食ご飯は食べません。食べられるときだけ食べて、たまに医者の往診を受けて、ラジオを聞いて本を読んで、クスクス笑ったりしながら……あとはぐーすか寝ています」
 昨年、私と小さな口論をしてからお母さんは変わった。前みたいに食事をきっちり作らなくなり、会話も最低限のことしか話さない。富江さんとおしゃべりをする回数も減った。
 ではその分なにをしているかというと、昼夜を問わず、居眠りをしているようだった。武藤先生が往診にきたときでさえ眠りこけていて、そのときは玄関で私の方がひやひやしたほどだ。
「ほう」
 紫ズボンの男は目尻を下げ、感じのいい分量を保った笑顔を向けてくる。
「おもしろいお母さんですね」
「あの、そういうことじゃなくて……。漢方の効果について聞きたいんですけど」
 けれど男はもう私の話を聞いていないらしい。ショーウインドウのなかの大きな水槽を指さした。
「あれは生きてる山椒魚ですね。冗談みたいに大きいなあ。ははは」
「それよりこの猿の頭って、効くんですか?」
 毛むくじゃらの猿は黒々とした目を無念そうに見開き、白い歯をむき出している。
「黒焼きにしたものは漢方であるけど、これはあの山椒魚と同じで、ハッタリじゃないかなあ」
 腕を組み、実に楽しそうに話している。
「あの、今なら大須観音の境内に行けば、二股ふたまたの蛇がいますよ。見世物ですけど」
「えッ、二股ですか! それは見ないといけないね」
 再び大きなリュックを背負った男は、「では」と挨拶すると、せかせかと店の角を曲がって行ってしまった。

 結局、一人で大黒堂へ入る勇気が出なかった私は、大須観音に戻ることにした。
 仮本堂の観音さまに手を合わせてお願いする。
 ――お母さんの病気が、早く治りますように。
 お母さんに対する私の苛立ちはまだ続いていた。でも、少し離れた場所までくると、殊勝な気持ちになるのはなぜだろう。
 仮本堂を望む、ひょろりとした木の幹に背を預けて周りを眺める。出店と参拝者でにぎわう境内は、ぎっちりと人が詰まって、楽しそうな顔を浮かべる人や、参拝疲れが滲んでいる人など、いろいろだった。空には大量の鳩が飛び交っている。
「碧ちゃん」
 声のした方を向くと、市電運転手の平野さんが立っていた。
 彼の隣には……秋の騒ぎのときに見かけた、かわいらしい女性が寄り添っている。あけましておめでとうございます、と、遅い新年の挨拶を交わした。
「年始は人を運ぶのが仕事だから忙しくてさ。今日やっと初詣のお参りができたんだ。ええと……サチコさんです」
「はじめまして」
 着物姿のサチコさんは、昨年に見たときより大人っぽい感じがした。
「あとから聞いたよ。あの、犬猫を殺した犯人の大捕り物では、碧ちゃんが大活躍だったって」
「そうよ。あなた、まだ高校生なのに犯人を捜し出したなんて偉いわね。私も動物が大好きなの。だから犬や猫を殺す人なんて許せない」
 犯人を捜し出した……? 
 犯人を捜しはしたが、見つけ出したおぼえはない。当たらずといえども遠からず、といった話題に首を傾げていると、平野さんが切り出した。
「あの事件に関する名クロの記事は、見た?」
「いえ。お母さんがポンパルの仕事を休んでるので、最近、ほとんどお店に行ってないから、名クロは見てないんです」
「そうか」
 平野さんはサチコさんと意味深な視線を交わすと、「ならいいんだ。それじゃ」と残して行ってしまった。少し歩いてから、サチコさんだけが戻ってくる。
「あなたは優しい子なのね。でも人生に悲しいことはつきものだわ。今、うちに次郎さんが拾ってきた子猫がいるんだけど、その子には勇敢なあなたの名をもらって、ミドリって名づけたの。今度会いにきてね」
 人生に悲しいこと? 勇敢な……? 
 どういう意味だろう? 
 もしかしたら、名クロになにか書いてあったのかもしれない……。そんな風に考え込んでいると、「わッ」と突如、背後から両肩を叩かれた。
 びっくりして振り返ったら、今度は久美ちゃんが立っている。
 黄色の派手なコートにオレンジ色のスカートを合わせているから、まるで「人間カナリア」みたい……なんてたとえたら、ちょっと意地悪かな。
「今のって平野さんと婚約者の人でしょ? なんの話をしてたの?」
「……たぶん、久美ちゃんが今から話そうとしているようなことかな……」
 久美ちゃんの後ろには、丸刈り頭でがっしりとした体躯の青年が立っていた。
「ほら、前に、碧ちゃんが泊まりにきてくれたときに言ってた人」
 つまり、伊勢湾台風で亡くなった久美ちゃんの親戚の同級生で、今、彼女が付き合っている人だろう。
 久美ちゃんが照れくさそうに見上げると、「オオイワケンジといいます」と挨拶してくれた。
 二十代半ばくらいに見えるケンジさんは、高校に通いながらも朝晩は、漁業をする父親の仕事を本格的に手伝っているのだという。なるほど、落ち着いて見えるはずだ。
「きみのことは久美さんから、親友だと聞いています。海のことで困っていることはありませんか? なんでも聞いてください」
 海のことで困ることって言われても……。苦笑いが込み上げてきたが、ケンジさんは質問を待っている。
「あ、そうだ。漁港の空気はどうですか。このあたりと違ってきれいなんですか」
「空気? はい、伊勢湾台風の直後と違って、だいぶきれいになりました。家の最寄りの漁港は、台風の影響で使えなくなってしまったんですが……」
「でも今は別の漁港から船を出してるの。潮の香りでいっぱいなのよ」
 ね、とケンジさんに話しかける久美ちゃんには、もう、私など映っていないようだった。
 でも空気がいいなら、四方を道路に囲まれている大須より、気管支の弱い久美ちゃんが暮らすには向いている土地なのかもしれない。そう思うと救われる気もした。

 平野さんも久美ちゃんも、みんな遠くへ行ってしまう。

 もちろん、お祝いする気持ちはあるけれど、胸に湧いてくる淋しさはどうしても拭えなかった。
 今年のお正月は富江さんと同じ長屋の上田さん夫婦、そして私の四人だけで「ひきずり鍋」を食べた。お母さんは「胃にもたれるから」と言ってこなかった。山高さんは劇団を率いて遠方で公演するため不在だったし、紅玉さんは富江さんが呼んでも姿を見せなかった。
 昨年の事件で、犯人が「大奥」の前座を務める芸人さんだとわかってから、紅玉さんとは会っていない。彼女がいそうな場所を、私もあえて避けるようにしていたからだ。
 今日みたいにアルバイトのない日は淋しい。人と接しているからこそ、映画を観ていても「あ、これ知ってる」とか「わかるなあ」という感情をおぼえるのだ。
 大須観音から吐き出される人波に押されながら、家に向かっていると、路地の先に知っている後ろ姿があった。キャメルのコートからのぞく真珠色のスカートが、夕陽を受けて輝いている。
「紅玉さーん!」
 振り返った彼女は、赤いくちびるの両端を、たくらむように持ち上げると言った。
「ちょうど会いに行こうと思ってたところだよ。碧、風呂へ行かないか」

 泡立てた手ぬぐいで身体を洗っていると、後ろから真っ白な手が伸びてきて、私の手ぬぐいを取った。「ここが洗いにくいんだ」と言って二の腕の裏側を擦ってくれる。
「ありがとう……」
 鏡をのぞくと自分の顔の向こうに、髪をお団子みたいにまとめた紅玉さんが映っている。
「留吉のことだけど、悪かったね」
「でもあれは……」
 振り返ろうとしたら、紅玉さんは両手で私の頭を前に向かせた。次は背中を洗いだす。
「あたしは、あいつに目をかけすぎたのかもしれない。人としてやって良いことと悪いことがわからなくなっちゃった。息子のいる母親ってのは、こういう気持ちになるのかもしれないとか……いろいろ考えたよ」
 手を動かすのと同時に、紅玉さんの伏せた睫毛がゆれている。
「悪いのは留吉だ。あいつは『仕事で報われないから』とか『むしゃくしゃしてた』なんて言ってたけど……だからって誰もが同じことをするわけじゃない」
「留吉さんはもう、舞台には戻ってこられないの?」
 紅玉さんが頷いた。
「でもそれは、本人が望んだことさ。本当に芸人としてやっていきたいのなら、なにがあってもしがみつく。だけど留吉はあんなことをして、芸の道から離れたんだ。最初からあいつは辞めたかったのさ。辞める理由がほしかっただけなんだろう」
 鏡のなかでうつむいた紅玉さんの目から、重いしずくが、ぽたぽた落ちる。
「情けないね、まったく。あたしも見る目がないよ……」
 私の後ろで、しきりに潤んだ目を拭っている。
「交代」
 そう伝えて、今度は私が紅玉さんの背中を洗った。
 紅玉さんの肌は表面がなめらかなのに、押すと下の筋肉が張っていて、鍛え上げられているのがよくわかる。泣き顔を隠そうとする彼女に伝えた。
「お風呂だから、涙も鼻水もわかんないよ」
 紅玉さんはきッと顔を上げる。
「碧、おしっこするんじゃないよ」
「そんなことしないってば」
 風呂上がりにはすばやく服を着て、「せーの」と二人で声を合わせ、腰に手をあてながら瓶の牛乳を飲んだ。
 銭湯を出ると紅玉さんの提案で、空き地の、子猫と子犬のお墓に行って手を合わせた。
 そのあとは大須通り沿いに何十軒も並ぶ屋台のひとつに入った。
 どの屋台からも、味噌のいい匂いが漂ってくる。私は大勢の大人に囲まれながら、鍋で煮える「どて煮」と、その味噌出汁にさっとくぐらせた揚げたての串カツを頬張った。
「美味しい?」
 と聞かれ、ホフホフと白い息を吐きながら頷くと、紅玉さんは嬉しそうにしていた。
 私たちの背後を、琥珀色の光を放つ市電が何台も通りすぎていく。そのたびに、身を切るような寒風が足もとに届き、空には大きな月が浮かんでいた。

(第15回につづく)

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麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

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