双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

【三】追跡

「碧ちゃんお手柄だ。子猫二匹の死体を検査機関に出したら、死んだ原因は黄燐おうりんを含む殺鼠剤さつそざい――つまりネコイラズを食わされたからだということがわかった。胃袋からはネコイラズといっしょにかまぼこが出てきたよ」
 神谷さんからそんな報告を受けた私は、これ以上大須で子猫や子犬を殺すやつがいるなんて許せないと思い、自分から動くことを決めた。警察も死んでしまった犬や猫「ごとき」のためにはよほどのことがなければ動いてはくれないからだ。
 誰もあてになんかしない――子猫の敵は私が取る。
 すると神谷さんから話を聞いて、私と同じようなことを思ったという人物が現れた。街の自警団を取り仕切っている山高さんだ。
 夜のネオン街を山高さんと歩きながら呟いた。
「おなかからネコイラズを仕込んだかまぼこが出てきたからって……、本来のネズミを退治する意味で置いたのかもしれないし、よくよく考えれば別に犬や猫を狙って置いたわけじゃない可能性もありますよね」
 いや、と腕を組んだ山高さんが否定する。
「二度あることは三度ある。三度あったってことは意図的だろう。もしそのネコイラズの仕込まれたかまぼこを腹減らしたそのへんのガキが食った場合どうなる?」
 それは確かに恐ろしい想像だった。山高さんが低い声で吐き出した。
「この街の治安を乱すやつは許せねえ」
「でも、それなら巡回のさなかに、どうしてそんな下駄を履いてくるんです?」
 カランコロンと派手に響き渡る音を気にせず、山高さんは大股で歩いている。
「普段通りにしてねェと逆に怪しいだろ」
 二人で大須のひと気の少ない道を選んで歩き、空き地をいくつも見て回った。普段は何気なく通り過ぎている空き地でも、犬や猫が意図的に殺されたのだと思うと、そこに立っただけで変な汗をかいてしまう。
 山高さんは自警団のメンバーを数人巡回させているようで、コワモテの彼らとすれ違うたびに目で挨拶を交わしていた。マントから伸びた手で顎をさすりながら聞いてくる。
「それより、こんな時間にうろうろしてていいのか?」
「別にいいんです。まだ夜の十一時前だから、きしめん屋さんで仕事して帰るくらいの時間ですし」
「ふうん。でも信子さん、今は身体壊して家にいるんだろ?」
「お母さんのもとには金持ちの老人の医者がしょっちゅう往診にきてるから、私が家にいたらお邪魔なんです」
「へえ」
 山高さんは追及せず、なにか含めるような視線をよこしただけだった。私は肩をいからせるようにして歩く。
 武藤先生は最近も私のいないときを狙うようにして、お母さんを訪ねているようだった。
 もしかしたら山高さんはお母さんのもとへ武藤先生が通っていることを知っているのかもしれない。神谷さんから聞いた可能性だってある。家のちゃぶ台に、「直接持っていく」と神谷さんが言っていた「病院一欄」が置いてあった。たぶん、お母さんはそれを神谷さんから直接受け取っているはずだ。
 お母さんはまだ体調が優れない。むしろだんだん悪くなっているような感じさえする。最近は青い顔をして、重湯ばかりを口にしている。胃がむかついて味の強いものを受けつけないのだという。最低限必要な栄養については武藤先生が点滴を打ってくれるからと言っていたが……、本当に大丈夫なのだろうか。
 いろいろ聞きたいことがあっても、また体調を崩してはいけないと思うと、私もうまく話しかけられない。
 先日、小さな口論をしてから、富江さんと私はほとんど顔を合わせていなかった。富江さんはお母さんと違って、「わーッ」と遠慮なしに喋ることが多いから、つい私も強く言い返してしまう。だけどそれはそれで、こっちも遠慮しなくていいので、楽な部分があるのは確かだった。それに比べてお母さんは「胃が痛い」とか「辛い」とか、頻繁に口にするわけではないから、私も文句を言ったり、武藤先生のことを聞いたりしてはいけないような気がしてしまう。
 いろいろ考えていると、山高さんが突き離すように言った。
「おまえ、いらいらしてるな。いらいらしてる女は面倒だから帰れ」
「私、女じゃありません。まだ十代の女の子です」
「うるせえなあ」
 ふと、気になっていたことを質問する。
「前から聞きたかったんですけど、山高さんはどうして舞台監督をやろうと思ったの? 前に言ってましたよね、映画監督はなるものじゃなくて行きつくものだって」
「おまえの方こそ、今でも映画監督になりたいなんて思ってんのか」
「もちろん」
「なれないなんて考えたことはねェのか?」
「まさか。だって私、このへんの高校生のなかではたぶん、男子よりずっと映画を観てると思うし、ただ観てるだけじゃないですし……。映画監督になるってことについては不思議と疑ったことがないんです」
「そりゃあすごい。それを堂々と言える厚かましさは大したもんだ」
 山高さんに言われたくないよ、と思ったが「どうも」とだけ返しておいた。
「でも最近はお母さんも体調が悪いし、父親がいない分私も働かなきゃいけないだろうし……。もっと早くお金になるような、地に足の着いた仕事をしなきゃいけないのかなって思ったりもします」
「地に足の着いた仕事ねェ……。座れ」
 山高さんは道の横にある、他人の家の縁台に私と並んで座った。次に見回るべき空き地はすぐ隣にある。そちらの方を見張りながら声を抑えて話しだした。
「俺が無声映画時代に弁士をやってたのは知ってるな?」
「うん」
「当時の映画上映はな、今以上に客の数が多くて、とにかく熱気であふれかえってたんだ。なんせ他になんにも娯楽がねェだろ? 弁士もいろんなやつがいてな、それぞれファンもついて人気もすごかった。だが、音の出るトーキー映画が世に出たとたん、俺を含めた弁士たちは一気にお払い箱になった。もう見事なくらいに仕事なんてスッカラカンだ。それで、途方に暮れた連中のなかには、思いつめて命を絶ったやつもいた。俺にとってはかけがえのないライバルであり、腕のある仲間だったんだが……、どうにも俺は止められなかった」
 私は両膝に手を置いて聞いていた。近くにある街灯はぼんやりと暗く、たまにブーンと音をたてて明滅している。
「なんて声をかけてやったらあいつらを止められたのか、今でも考えることがある。生きてると必ず行く先に、でっかい穴が空いてたりするんだ。そこにはまるとまずいんだよな。暗くて前が見えねェもんだから焦っちまってなあ。自分が楽しんだり、人を楽しませたりっていう、生きる上での基本みてェなもんを忘れちまうんだ」
「うん、そうかもしれない」
 実際、今の私は深刻な気持ちから抜け出せずにいる。
「だから俺はな、少し向こうに底の深そうな穴が見えたら、肩の力を抜いて、別の芸を磨いてその穴を避けるようになった」
「芸っていうのは、仕事ってこと?」
「人さまから銭もらう仕事なんて芸の極みだろ」
「もし気づかずにその穴にはまったら、どうするの?」
「穴から出るために別の芸を身につける。自分はこれしかできないなんて、思い込んでいちゃあだめだ。俺が言いたいのはな、とにかくその芸のひとつがおまえの目指す監督業にすぎない、諦めさえしなければ、なるべき人間はなる。特別なことじゃねえってことだ」
「うん。それなら山高さんにとっては『財布女』も芸のうちなんだね」
「財布女……? よくわからねェが、財布女は財布でしかないんじゃねえのか」
 空き地に目をやった山高さんが、「しッ」と口の前に指を立てると身をかがめた。私も同じようにして息を殺し、山高さんに続いて空き地の隅に入っていく。
 雑草の茂る奥の方から、ガサガサと草をかき分ける不審な音がする。
 空き地の手前には左右に一基ずつ、灯りの弱い街灯があるだけで、今日は月も出ていない。
 しゃがんだまま草を透かし、必死に目を凝らしてみても、闇が続いているだけだ。だが、誰かが歩きながら地面に何かをぱらぱらと撒いている音だけは、はっきりと聞こえてくる。
 みゃあ、みゃあ、みゃあ。
 無邪気な子猫の声がした。――いけない、ネコイラズを食べてしまう! 
 立ち上がろうとしたとき、前にいた山高さんが振り返り、私の肩をつかんで制止した。
 みゃあ、みゃあ、みゃあーん。
 子猫の声を発していたのは、こちらを向いた山高さんだった。弁士時代の技だろう。よくよく聞くと子猫にしては少し声が低い気もするが……。
 空き地の奥にいる怪しい人物が、今まさに立っている場所の向こう側には小さな民家があり、その家から洩れるかすかな灯りが、草の海から突き出す人の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。
 細身で、手足のすらりとした背の高い男……。
 山高さんの「猫の声」に反応したらしく、少しだけこちらへ首を傾けた。だが、顔も身体の表面も、逆光のせいで、墨をぶち撒けたように真っ黒だった。
 その人影が、そろそろと靴で草を踏み分けながら近づいてくる。
 ――あ、くる。怖い。くるってば。どうしよう……。
 首を上に向けながら震える手で地面の石を探していると、男の足音がすぐ手前まできたとき、
「おら――――――――ッ」
 と山高さんが声をあげ、マントを開いて飛びかかった。
 慌てて踵を返す音があり、それと同時に山高さんがつんのめった。私がマントの端を踏んでいたからだ。
「あ、逃げる!」
 空き地を抜けようとする男のもとに街灯の光が届き、その姿を照らし出した。
 男は黒い服を着て野球帽を目深にかぶっている。えいと声をあげ、私が石を投げると、振り返った男はそれを避けるために一瞬足を止めた。男は目から下をてぬぐいでおおい隠していた。
 がばッと身を起こした山高さんが追うと、男は再び走り出した。二人の間隔は三メートル近くある。
「まだまだー!」
 叫んだ山高さんは突如、缶けりをする子供のように片足の下駄を飛ばした。
 下駄は見事に男の腰にぶち当たった。背をそらし、一瞬動けなくなった男に山高さんの手が伸びる。が、体勢を直した男はなんとか腕を振って繁華街の方へ逃げていった。
 ひょこひょこと歩きながら下駄を拾った山高さんが振り返る。
「なにやってんだ、邪魔しにきたのか!」
 びくッと肩をすくめた。
「……ごめんなさい。でもそのマントが長いから」
「まったく……。でもなあ」
 山高さんはにやりと笑う。「あれは相当腰にきたはずだ。もしや骨まで砕いたかもしれねェな……。やいばと言われた俺の足もまだなまってねェってわけだ」
 満足そうに足の指を開いている。
「下駄くらいで骨なんて砕けるわけないよ」と呟くと「ああッ? 聞こえてるぞ。誇張して言ってんだよ。わからねえやつだなあ」とぶつくさ言っている。
 山高さんを無視して、男が立っていた空き地の奥へ行った。マッチを擦って地面を照らすと、かまぼこと生肉の欠片が落ちているのが見えた。念のため軍手をはめた手で用意してきた紙袋に入れる。
「餌がありました!」
 山高さんは紙袋をのぞくと、「よしよし」と満足そうに頷いた。
「明日から骨接ぎや病院を回って、背中から腰のあたりに打撲があるやつを探せば……そいつが犯人ということになる。よし、神谷んとこへ行くぞ」
「おう!」
「いや、待て。おうじゃねェ。おまえは足手まといだから帰れ。もう深夜だ。ガキがうろつく時間じゃねえぞ」
 こぶしを握り締めて言い返す。「私、ガキじゃありません!」
「『十代の女の子』はガキじゃねえってか、矛盾してるぞ」
 山高さんは懐中時計をたもとにしまうと帽子をかぶり直し、マントを翻しながら行ってしまった。
 一人残された私は、背後の空き地が怖くなってきた。
 いつも以上に腕を振り家まで走って帰る。そして戻る間、草地で見た男の姿を懸命に思い返した。
 なんだか……会ったことがある人のような気がしたのだ。なにか記憶に触れるものがある。
 ――平野さん。財布女といっしょに映画館にいた乱暴な口調の若い男……。そういえば秋祭りのとき、平野さんは野球帽をかぶっていた……。
 さっき石を投げたとき、躊躇しなかったと言ったら嘘になる。山高さんには申し訳ないが、実は……もしも相手が平野さんだったらと思ったとたん、手の力が抜けてしまったのだ。
 映画のフィルムが入れ替わるように、今度は子猫の亡き骸が脳裏に浮かぶ。歯を食いしばって走っていたら、目頭が熱くなってきた。
 もしかしたら私は、生まれてすぐ殺されてしまった子猫たちを、お母さんから捨てられるかもしれないと恐れている自分自身と重ねているのかもしれない。
 私がいなければ、お母さんは胃潰瘍になるほど働くこともなかったし、口の悪い酔っ払いばかりを相手にする店でがまんして働く必要もないし、奥さんのいる威張った老人の医者に言い寄られることもなかっただろう。
 それに、もっと別の素敵な男の人と結婚して、幸せになっていたのかも……。
 わーッと声をあげて涙を飛び散らしながら走った。
 どッと映画館から吐き出された人たちの渦に飛び込むと、肩が何度もあたって、そのたびに舌打ちされた。「なんだ、このガキが」とまた言われて悔しいったらありゃしない。
 ああ悔しい。悲しい。ふがいない! もういっそのこと消えてしまいたい。
 そんなことを胸の内でくり返した。

 朝起きると、お母さんは先に起きて朝ごはんを作ってくれていた。白いほかほかのご飯と、商店街の佃煮屋さんで売っている昆布と鰹節の佃煮、豆腐の入った赤味噌のおみおつけ。一人分だけがちゃぶ台に並んでいる。
「食べないの?」
「胃がもたれて食べる気がしないのよ。武藤先生も無理に食べると消化で胃に負担がかかるから、そういうときは一、二食抜いてもいいって」
 武藤先生――。
 その名を聞いてムッとした私は台所に立つと、勝手におかゆを作りだした。
 化粧っ気のない青白い顔のお母さんは、きゃしゃな肩に薄いカーディガンを羽織って横に立つ。
「なにやってるの碧。もういいから、早く自分の分だけ食べて学校に行きなさい」
「お母さん、お医者替えないの?」
 お米をことこと鍋で煮詰めていく。早くできあがるように火力を強めた。
「お医者? 病院のことを言ってるの?」
「そう。もう大須から通いやすい栄町の病院でいいじゃない。ほら、記者の神谷さんから病院一欄受け取ったんでしょ? 早く替えたほうがいいよ、あんな高級そうな病院、あとでいくら請求されるかわかんないよ」
「そうねえ。でも、神谷さんもあの一欄を持ってきてくれたときに、検査をした病院がいちばん病状をわかってるだろうから、いろいろ落ち着くまでは替えないほうがいいかもしれないって言ってくださったの」
 余計なこと言ってくれたものだ。舌打ちしたい思いだった。
「ねえ、お母さん。それだったらいっそのことあの先生の病院のそばに引っ越したほうがいいんじゃない?」
「……え?」
 眉を寄せて困惑するお母さん。胸を押さえる手の甲は、骨が浮き出て痛々しいほど病人らしい。
 こんなにも身体の弱っている相手に、言いたいことをぶつけてはいけない……。そう自分に言い聞かせる。
 けれどもう、あふれる感情を止められなかった。
「あんなでっかい黒い車がこんな貧乏臭い長屋の周りをしょっちゅううろうろしてたら、変な噂になるよ。はっきり言って私は迷惑。なんなのあのじいさん。私たちを見下すような目をして、お母さんみたいな病人を助けて、いい気になってるんだ!」
 後ずさりするお母さんの眉間の皺が深くなった。鍋が煮詰まり、たちまち焦げた臭いが部屋中に充満し始める。
「お母さんのばか! おかゆを食べないなら弱って死んじゃうだけだ。そう、お母さんなんて死んじゃえばいいんだ。そうすればもう、私はお母さんの事情に巻き込まれなくて済むからね!」
「碧……」
 淋しそうにお母さんがこぼしたとき、外から駆け込んできた人がいた――富江さんだ。
 彼女はすばやく台所の火を消した。それからこちらを向いて、白い煙のなかからたくましい浅黒い腕を伸ばし、私の顔を拳で殴りつけた。あたりどころが悪かったのか、それとも彼女の力が強かったのか……両方かもしれない。私は頬から鼻にかけての部位が吹っ飛んだような衝撃を受けた。
 しびれた感覚が顔中に広がり、鼻の奥が熱くなってくる。
 顔の状態を確かめようと手でひと撫でしてから離すと、指が赤いもので濡れていた。すぐにぽたぽたと床に流れ落ちる。
「弱ってるお母さんに向かってなにを言うんだ! 碧、謝れッ!」
 私はポケットからハンケチを取り出すと、止血しようと鼻に強く押しあてた。富江さんの後ろでお母さんは、おろおろしながらてぬぐいを差し出してくる。
「いらないッ」
 叫ぶと、仁王立ちする富江さんを睨みつけた。
 鞄を抱え、靴を履いて表へ出る。富江さんの物干し竿の下には籠があり、そのなかには洗濯板で一枚ずつ洗って絞った洗濯ものが山のように入っていた。気を遣ってくれているのか、お母さんの肌着も交じっている。私は籠を思い切り持ち上げてひっくり返し、乾いた土の上に全部をばら撒いた。
 よほど頭のなかがぱんぱんになっていたのだろう、気づくと市電の停車場に立っていた。鼻にあてていたハンケチを外す。
 それは二年前の誕生日にもらったもので、緑の糸で刺繍された市電の部分が赤く染まっていた。

(第13回につづく)

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麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

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