双葉社web文芸マガジン[カラフル]

碧と花電車の街 / 麻宮ゆり子・著

イラスト/河野真歩

(承前)

 医者が家にきた翌日、ポンパルへ行ってお母さんが仕事を休む旨を伝えた。
 次はいつ出勤できるかわからない、もしかしたら二日後の検査の結果次第では、ずっと先になってしまうかもしれない。そう告げるとマスターが心配そうに言ってくれた。「お母さんにはちゃんと治してからくるように伝えておいて。信ちゃんの働く場所は空けておくからって」
「ありがとうございます」
 頭を下げながら、つい気持ちがゆるんで目頭が熱くなった。だけど必死に自分に言い聞かせる。小さい頃から知っているお店だからといって、甘えすぎてはいけない。お母さんが大事にしてきた職場だからこそ、今は私が、お母さんの顔を潰さないように振る舞わなければ――。
 学校へ行ってからも、どうにも授業に集中できなかった。今朝も、お母さんの熱はまだ下がっていなくて、おかゆを作ったのだが食欲がないせいか、ほとんど口にしてくれない。買ってきた卵を入れると頑張って食べてくれたが、それがまた無理をしているようで痛々しかった。
 学校からの帰りには、お母さんが働いている夜の店へ寄ることにした。
 住所と店の名を元に探す。
 すると通りに並ぶスズラン灯が点き始めた頃、レンガ造りのキャバレーばかりが密集する一角に見つかった。厚い扉を開けたとたん、スピーカーから流れるジャズの大きな音に圧倒される。
「私がオーナーだけど」
 黄色のワンピースに真珠のネックレスを着けた女の人が出てきた。髪にきついパーマをかけている。お母さんの事情を伝えると、彼女はけだるそうに首を回して舌打ちした。
「困るのよねえ、休まれると。昨日もお得意さん……家に送っていったでしょ? 武藤先生よ。先生がきてたっていうのに、急にこうソファーに手を置いてよろけるようにして、おしぼりを口にあてたら血がついてて……。ちょっと、まさか結核じゃないでしょうね」
 目を釣り上げて睨みつけてくる。まだ病名ははっきりしていない。だが責めるような口調が嫌だったので、私は余計な誤解を与えないためにも、首を振った。
「いつ店に出られるって?」
「あの、まだ熱が下がらないし、検査もしてないのではっきり言えないんです」
「検査してないの!? 今結核じゃないって言ったじゃないの」
 そう言ってオーナーは露骨に眉を寄せた。
「……武藤先生が違うと言っていました」と私はしらを切る。
「へえ……。もう代わりの人入れちゃうわよ」
 黒電話の横にあるメモ帳を開いたオーナーの向こうでは、サラリーマンであろう男たちの隣に座って、女の人がお酌をしていた。女の人もグラスを傾けている。
「セーラー服のお嬢ちゃん、どうしたの?」
 と客の一人に手招きをされた。酔っているのか呂律が怪しい。オーナーが客の方へ顔を向ける。
「野坂さんの娘だって」
「そうか」と陽気に声をあげた。「アバズレ信子ちゃんの若気のいたりの結晶か」
 思わず耳を疑った。私はその場に立ち尽くす。
「ちょっと、いやだわ。お客さんったら」
 と、オーナーが店の出入り口から私を客の見えないところへと押し出した。「あの人、普段は真面目なんだけど酔うと口が悪くって。そうそう、あんた、お母さんの代打であの席に就いてみたら? あのお客さんはね、信ちゃんのことを気に入ってるの。だからあんなこと言って子供みたい。ねえ、お駄賃くらい出すけど、どう?」
 オーナーが顔を近づけてくると、えたにおいの息がかかり、店の淀んだ空気がそのまま伝わってくるようだった。
「いえ、また連絡します」
 と伝えて私はすぐに店を離れた。
 
 私が高校へ行っている間、献身的にお母さんの世話をしたせいだろう。検査当日に今度は富江さんがぎっくり腰になってしまった。
 腰を押さえながら悶絶する富江さんの横で、私は武藤先生の病院から送られてきた検査の同意書を読んだ。「検査の結果、緊急手術になるときは家族ないし家族に近い者の同意と記名が必要」と書かれている。
「向こうの医者はこの前の車で送り迎えするからって言うんだよ。なんだか至れり尽くせりで怪しいだろ? だから私が、アタタ……」
 腰をさする富江さんはうつむいて、苦しそうに黙っている。よほど痛むのだろう。私は腹を決めた。
「わかった。私がついていく。富江さんは休んでて」
「でもあんた、学校は……」
「一日くらい行かなくたって平気だって。富江さんのことは上田さんに言っておくから」
 けれど、立ち上がったときに、ある不安が頭をもたげた。お金のことだ。親子とはいえ、お母さんの財布に触るのははばかられる。先月私は夏休み中、きしめん屋で働いたおかげで、まとまったお給料が入っていた。そのお金と今月入ったばかりのお給料を合わせれば、なんとかなるはず。その後のことはまた考えればいい、と、そこまで考えたとき「碧」と声がかかった。
「おいで。まだ話は終わってないよ」
 富江さんの布団のそばに戻ると、「何?」と聞いた。彼女は痛みが消えたように、一瞬だけしんとした顔をすると、畳に置いてある自分の鞄から白い封筒を取り出した。それを無造作に折って私の制服のポケットにねじ込んでくる。慌てて返そうとポケットへ手を伸ばすと、その上から富江さんが手を重ねた。
「困ったときは、お互いさまだろう」
「……」
 気を張っているときに優しくされるのは、困るのだ。ついゆるみすぎて、甘えてしまいそうになる。結局、私は内側でくすぶる言葉を止められなかった。
「でも、でも……これからのこととか、どうしよう」
 お金という現実の問題を前にして、いかに自分が頼りない存在なのか思い知らされるようだった。中学を出てすぐに働いている子もいるというのに情けない。声が震えてしまう。そんな私に富江さんがぴしゃりと言った。
「おまえはまだ学生だろう? いつからそんな頭でっかちになったんだい? もしものときはうちの家賃を止めればいいじゃないか。子供のくせに水くさいこと考えるんじゃないよ」
「そんなことしたら富江さんのお金が……」
「ばか。誰もタダにするなんて言ってない。いつか碧が出世払いするんだよ。信ちゃんを見てごらん。必死に自分の生い立ちから抜け出そうとしているじゃないか」
 パチパチと気丈にそろばんを弾く音が蘇る。――アバズレと呼ばれたからって、なんだ。そんなお母さんの声が聞こえてくるようだった。夜の店のオーナーは、客はお母さんのことを気に入っているからあんな軽口を叩くのだと言っていたが、お酒を飲まない私からすると、酔っ払いでも言っていいことと、悪いことがあるように思う。この世には自分の外見や生い立ちを冗談混じりに話す人もいるが、他人から同じことを言われても平気でいられるとは限らない。仕事だからと感情を押し隠しながらも、本心ではお母さんも傷ついていたんじゃないだろうか……。
 私は冷静さを取り戻すために、一度深呼吸した。
「わかった、行ってくる」
「頼んだよ」
 家に戻ると、出かける準備をしていたお母さんに富江さんの事情を伝え、代わりに私がついていくと言った。
「碧、ごめんね。でも……」
 青白い顔のお母さんは手と首の骨が浮き出て、前よりずっと痩せているように見えた。言葉を発するのさえつらそうだ……。どうして私、もっと早く気づかなかったんだろう。
 自分自身に無性に腹が立つ。――だけど、今はその顔を見せてはいけない。
「いちいちごめんって言うのはナシだよ。ドーナツおいしかった、また作って」
 意識して口角を上げて伝えると、長屋のそばまできていた黒い車にお母さんとともに乗った。
 板塀に挟まれた道を歩いている人たちは、私たちの乗っている車が迫ると、羨望の色を浮かべながらけていく。映画館で観たモーゼの十戒のようだった。あまりにみんなが避けるので、運転手は狭い住宅街にもかかわらず、ほとんどスピードを落とさない。
「どうです? いい乗り心地でしょう」
 と得意げに言う。ランニングシャツを着た男の子が車体に手を伸ばすと、腹を立てたようにクラクションを鳴らし、驚いた子はよろけて塀に後頭部をぶつけていた。

 検査はまる一日かかった。
 結局、喉の麻酔と多めに打った鎮静剤の効き目が切れるまでは頭がふらふらして危ないから、という理由でお母さんはひと晩の入院を勧められた。私はこのあとアルバイトもあるし、学校もある。
「今日は帰って、明日はちゃんと学校へ行きなさい」
 ベッドに横たわったお母さんにそう言われ、確かにひと晩ここで休んだほうが、万が一何かあったときのためにもいいのかもしれない……と思った私は市電を乗り継いで大須まで帰ることにした。
 アルバイトのまかないの時間、きしめんの量を聞かれた私は「めんは三倍、出汁はちんちんでお願いします」と一平さんに伝えた。「今日は特にちんちこちんにしといたわァ」と、 置かれた熱々のきしめんをもりもり食べる。
 お母さんが弱っているのに、私まで体力をなくしてどうする。 
 そんな思いが頭のなかを占めていた。けれど検査のときの――私はなかへ入れてもらえなかったのだが――お母さんの苦しそうな声を思い出すと、箸が止まった。
 さまざまな検査の一つとして、お母さんは胃の内視鏡検査を受けると説明された。口から胃の内部までカメラのついた長い紐を入れるのだと聞いて、酸っぱいつばが湧いてきた。ただでさえ食欲を失くしているのに、そんなものを口から入れられて、何かあったらどうするんだ? お母さんは実験台じゃない! と私は武藤先生に噛みついた。
「うちはねえ、この検査を昭和三十年からやってる全国でも数少ない病院の一つなんです。信用できませんか……。ああ、そう。子供なのにずいぶんとうたぐり深いね。私生児のせいかな。気が散るから外へ出して」
 先生が「しっしっ」という感じで手を払うと、突如私は大柄な看護婦に両脇を奪われ、検査室から追い出されてしまった。
 それから……。
 う、ううッ、ううーッ、と苦悶の声が聞こえてきた。
 野坂さんの手を握ってあげて――はい。涙ふいてあげて、よだれも――はい。もうすぐ終わるからがまんしてねえ。野坂さんがんばってくださいねー。うう、ううーッ。ちょっとうるさいよ、集中できないから静かにして。すみません、ふみません……。
 武藤先生と看護婦、そこへときどき混じるお母さんの折檻せつかんされる子供のような声。私は心配でたまらず、検査室の前をうろうろした。苦しそうな声がするたびに、のどが詰まり、息をするのも忘れてしまう。
「まだ終わらないんですか、ちょっと!」
 辛抱できずに鍵のかかったドアを叩くと、またどこからともなく大柄な看護婦がやってきて、私は引きずられるように別室へ遠ざけられてしまった。

 バイトを終えて長屋に帰ると、上田さんの連絡で針の治療を受けたという富江さんが、布団から上半身を起こして待っていた。私を見ると身を乗り出し、イタタと洩らしながら聞いてくる。
「医者、何と言ってた?」
「命に別状はないけど……胃潰瘍だって。血を吐いたのは胃の粘膜がただれて、そこから出血したんだろうって言ってた」
 富江さんの指示を受け、本棚にあった厚い医学書を取ると彼女に渡した。今日の結果を前に、元教師の上田のおじいさんから借りてきたのだという。
「胃潰瘍の原因は気の遣いすぎ、あと睡眠不足と休息不足。いろんな疲れがたまって身体の仕組みが暴走し、必要以上に胃液が出て……自分で自分の身体に悪さをするって書いてあるね。なになに」富江さんは枕元の老眼鏡をかけ、ページをめくる。
「夏目漱石はこの病気をこじらせ……死んだってあるじゃないか」
「うん、確かに重症化するとまずいって。それで血が茶色かったのは強い胃液のせいなんだって。武藤先生が、ひとまず今日は入院させて明日車で送って帰すって言ってた」
 病院で受けた緊張がまだ解けていない私は、ひと息に話した。富江さんは大きなため息を吐く。
「どっちにしろ昼と夜と、二つの仕事をやりくりするなんて無理があったんだ。むしろ胃潰瘍になってよかったと思った方がいいのかもしれないね、大病する前に気づけたわけだから。信ちゃんはしばらく安静だ」
「富江さんもね」
「まったく、こんなときに情けない……」
 富江さんは少し考え込むようにうつむいた。そのあと、ふいに顔を上げて目をすがめる。
「あの武藤って医者、またくるかもしれないから気をつけな」
「気をつけるって?」
 うーんと洩らして、小さな目をさらに細めて老眼鏡の上の皺を深くする。
「まあいいさ。結果がわかったんなら、あの先生に紹介状さえ書いてもらえば、もう同じ病院に通う必要はないだろう。この近くにだって消化器系をてくれる医者はいる」
「でも、病気に気づいてくれたのはあの先生なんだから、悪いんじゃないかな?」
「悪いもんかね。医者は病気を見つけるのが仕事なんだ。先生は医者としての義務を果たしたまでだ。続けてその病院に行くかどうか決めるはこっちのこと。今日の病院の住所、覚王山かくおうざんって言ってたね。私たちとは住む世界が違うような客が行く病院さ。それに車もない人間が通うには、銭もかかるし遠すぎる」
 私は武藤先生にお母さんの病を見つけてもらった負い目を感じているせいか、富江さんの言い方は少し意地悪な感じがした。
「こっちでも調べるけど、碧も近くにいい病院がないか、ちいと誰かに聞いてみやァ」
 うんと言って、ポケットから出したペンでてのひらに書いた。
「字が違う。それは火を消す方の消火器だよ……。大丈夫かね、この子は」
 へへへと笑い声が出て、富江さんもつられるように少しだけ笑った。
 とにかく、すぐに命に関わるような病気じゃなくてよかった――。

「家の前にクラウンが停まってたって? どういうことだ?」
 三日ぶりにポンパルへ入ったとたん、肩をいからせて大股歩きでやってきた神谷さんが、目の前に写真を突きつけた。ボロの長屋、もの干し竿にしまい忘れた洗濯もの、その前に停まるピカピカの高級車。まるで合成写真のような不自然さだ。
「大須担当のカメラマンが撮ったんだ。俺はその場にいなかったけど、けっこうな人だかりができてたって聞いたぞ」
「暇なカメラマンさんですねえ」
「そうだ、暇で結構。で、この車は何だ? 信子さんと何の関係がある?」
 すると奥から出てきたポンパルのマスターが、神谷さんを押しのけて聞いた。
「信ちゃんどうだって?」
「あの、胃潰瘍だそうです」
 胃の数カ所に炎症部分が見つかった。そう言い渡されたお母さんは、お酒やたばこなどの刺激物はしばらく禁止。睡眠をたっぷりとって日中は安静にすること。炎症止め、胃酸止め、排菌薬など渡された粉薬を一日三回オブラートに包んで飲み込んでいた。たまにそれが喉に貼りつくらしく、カエルの声に似たうめき声をあげることもある。
「そうすると、しばらく店にはこれないねえ」
「はい、すみません。ご迷惑をおかけします」
「まあええて。信ちゃんには今まで緊急で出てもらったこともあったから。信ちゃんの接客に癒されていた人なんかは残念かもしれんけど……」
 マスターは神谷さんをちらっと見た。神谷さんはめがねの奥の瞳を潤ませながら、腕を組んで子供のようにそっぽを向いている。
「神谷さん、胃潰瘍にいい病院って知りませんか」
「胃が痛くて、たまに行ってる小さい診療所なら知ってるけど」
「そこでいいです」
「いや」神谷さんは大げさに片手を広げて前に突き出した。「確か、会社にこのへん一帯の病院一覧があったはずだ。それを今度碧ちゃんの家まで持って行くよ。急ぎだよね?」
「いえ、しばらくは最初にきてくれた先生が診てくれるみたいで、急いでいるわけではないんです」
「するとその先生がこのへんの病院を紹介してくれるんじゃないかな? それとも、わざわざ市内のライバルを紹介することもないか? そのあたりどうなのかな?」
 すると、私たちの話を聞いていたお客さんが「その地図、あたしにもくれないかねえ」「わしにも」と口ぐちに言って、あっという間に神谷さんを取り囲んだ。
「タダじゃないんですよ。信子さんは病気だから特別なんだ!」
 と声をあげると、「いつからそんな偉そうな口をきくようになった」「あたしたちをネタにしてメシの種にしてるくせに」「わしはおまえをそんな記者に育てたおぼえはないッ」と、さらに十人以上の常連客が彼の元に押し寄せた。
 私はもみくちゃにされる神谷さんを置いて、こっそり店を出ると、アルバイト先へ向かった。

 仕事が終わる前に、きしめん屋の一平さんから出前を頼まれた。注文主は紅玉さんである。
 岡持おかもちを運んでいくと、紅玉さんが『大奥』の外壁に寄りかかってたばこを吸っていた。私に気づくと手招きをする。ロングコートを羽織って華奢なサンダルを履いている紅玉さんが言った。「お疲れさん、重かった?」
「ううん」
 紅玉さんに三人分の丼を渡すと、二つの丼は控え室の裏口から顔を出した、手足の長い二十歳くらいの男の人に、「精つけな」と言って渡していた。痩せぎすの男の人は遠慮がちに受け取ると、気を遣うように財布を取り出したが、「いいから」と紅玉さんに遮られ、ペコペコと頭を下げて引っ込んだ。
「誰? 今の人」
「トメちゃん。留吉とめきちって一年前から前座をやってる芸人さ。他にも何人かいるよ」
「へえ、知らなかった。留吉さんは末っ子なのかな」
「名前からすると、たぶんね」
 二年前、十四歳のときの「Vの字事件」以降、私は『大奥』は出入り禁止になっていた。十六になった今も禁止令は解かれていないので、劇場内どころか控え室さえも入れない。だから紅玉さんの個人的な注文を受けたときだけ、こうして建物の外で手渡すようにしていた。
「全国を周るときも芸人さんって、ついていくものなの?」
 踊り子さんたちはずっと大須にいるわけではない。全国のストリップ劇場を巡業することもある。
「もちろん。なんせ女ばっかりだからね。怖い人や変な男が寄ってきたときは、用心棒代わりになってもらうときもある」
「用心棒……。留吉さん、そんな強そうには見えなかったけど」
「ふふん。そこは派手なネックレスをつけたり、パーマをあてて腹巻きをしたり、ハッタリを効かすのさ。たとえハッタリの度胸でも、何度かやるうちに本物になる。ちょっとまだ頼りない連中ではあるけど、親が戦争で死んだとか、台風で兄弟がいなくなったとか、そういうやつらが多いから……あたしも気の毒でねえ」
 それでたまにこうして、きしめんをご馳走してあげるというわけか。きっと芸人さんたちの行く末を気にかけているのだろう。紅玉さんの言葉には異性というより、弟に向けるようなぬくもりがこもっていた。
 紅玉さんは帰ろうとする私の肩を叩くと、自分の隣を指さした。私は少し湿った外壁を背に、紅玉さんと並ぶようにしてしゃがんだ。
「Vの字事件」のあと、紅玉さんに迷惑をかけてしまったことを、私は申し訳なく思っていた。でもなんせ「Vの字」なものだから、何をどう伝えたらいいのかわからなくて、彼女を避けていた時期がある。けれどある日、「あそこまで見せたんなら裸で仲直りだ」と紅玉さんに誘われて二人で銭湯へ行った。私は彼女の背中を洗いながら「ごめんなさい」と素直に言えて、それから『大奥』に出向き、そこで働く他の人たちにも頭を下げることができたのだ。
 目前の通りには、店の名を掲げたネオン管が重なるように光って、赤や青や緑色が水たまりに映り込んでゆらめいている。
 光の洪水を見ても、私は前ほど素直にきれいだと感じられない。あの輝きの向こうで、お母さんはアバズレだとか私生児を産んだ女だとか……たぶんときにはもっと見下すようなことを言われて、でもお酒の場だから、仕事だからと聞き流しながら働いてきたのだ。そして、そのお金で自分やお母さんが生活してきたのもまた事実だった。
 紅玉さんは外気に湯気を漂わせながら、わかめ入りきしめんをすすっている。
「寒いからなかで食べたら?」
「ここでいい。信子さん、倒れたんだってね」
「うん」
「だいたい聞いたけど……ほしたら、よふのおひへは……」
「いいよ、ゆっくり食べて」
 紅玉さんは麺を咀嚼しながら頷いた。
「お母さん、夜のお店は休むっていうか、お酒を控えないといけないから辞めなきゃいけないんだって」
「いいんじゃない? 命より大事なものはないからね」
「でも、仕事を減らさなきゃいけないことがショックみたいで、なんだか落ち込んでて……。それにいつも、私に謝ってばっかり」
 うまく言えない。お母さんの憂鬱そうな感じ。私の心配する気持ち。それらがうまく噛み合わないことについて。
「碧、あんた高校辞めようなんて考えるんじゃないよ」
「えッ」少し考えていたので、びっくりした。
「女一人で生きるのだってたいへんなのに、信子さんはあんたみたいなコブつきで今までがんばってきたんだ。そんなお母さんをナメちゃいけない……。身体が弱ってるときは誰だって気持ちも弱くなる。弱気になる権利くらい信子さんにだってある。だから今は弱気なお母さんのままでゆっくりさせてあげたらいいんだ。身体が元気になれば『ごめん』以外の言葉も出てくるさ、たぶんね」
 紅玉さんは顔に器を乗せるようにして出汁を飲み切ると、ぷはーッと盛大に息を吐いた。
「私はどうすればいいのかな?」
「いつも通りにしてりゃいいんだよ。猪突猛進の碧のままでさ」
 いつも通り――。そう言われて急に神谷さんから聞いたことを思い出した。
「あのね、最近子犬や子猫にネコイラズを食べさせて殺して、大須の空き地に捨てる悪いやつがいるんだ。そういう人、知らない?」
 紅玉さんは眉を上げて目を見開き、指からぽろりとたばこを落とした。すばやく拾い、セーフと言ってほこりを吹き落とし、またくわえる。
「ずいぶん物騒な話だこと」

(第11回につづく)

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麻宮 ゆり子Yuriko Mamiya

1976年埼玉県生まれ。2003年、小林ゆり名義で第19回太宰治賞受賞。
13年、第7回小説宝石新人賞を受賞し、翌年、受賞作を表題作にした『敬語で旅する四人の男』を刊行。16年『仏像ぐるりの人びと』を上梓した。

  • 双葉社
  • 小説推理
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