双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ことわざ時代劇(瀬尾英男)

イラスト&タイトルロゴ:平田利之

第五話他山たざんいし

よその山から出た粗末な石でも、自分の宝石を磨く砥石といしとして役立てることができるということ。転じて、他人のよくない言行、失敗が自己を磨く上での参考や戒めになるという例え。

 徳善畜女とくぜんちくにょ
 それが、あの女につけられた戒名である。
 諸君、奴は滅びた。我らのかたきはめでたく過日、死んだのだ。
 徳を積み、善をなした女であったと、戒名は奴をたたえる。だが、その死に様はいかがであった。悲惨なものではなかったか?
 なるほど、諸君の中には、すでに奴を知らぬ世代も多いと見える。ではこの老いぼれが見聞きした奴の話を、ここに詳しくお伝えしよう。
 前置きとしてまず語っておくべきなのは、この時田ときた家に出入りする魚屋、太助のことだろう。
 平たいたらいに鮮魚を並べ、天秤棒てんびんぼうで担いで売りに来る、例の男だ。
「本日はさよりにひらめ、春の魚がようございます。焼くもよし、煮るもよし。ですが、この活きの良さをご覧あれ。手前のおすすめは、なんといっても刺身です。醤油もよろしゅうございましょうが、これを酢味噌で。いかがです? 想像するだに絶品でしょう。これにうどの千切りを添えてみますと口直しになりますし、春の気分も増すというもの。へい、さよりとひらめをお刺身に。毎度ありがとうございます。刺身のつまに、わかめを特別多くつけさせていただきます」
 このように上手い文句を言い募り、世のご婦人を日ごと籠絡ろうらく、手玉に取るのが魚屋稼業というものである。無論、我らが時田夫人も、その口車に乗せられる一員だ。
「ご新造しんぞ様。さよりの刺し身は、どのようにいたしましょうか? へい、細造りで。さすがはお武家の奥方様、お造りのご注文にも品があります。では少々、お勝手口の御前ごぜんを拝借いたします」
 太助はそう言って当家の前でたらいを下ろすと、その上へまな板を差し渡し、慣れた手つきで魚をさばく。そんな時、必ず飛んで来ておったのが、我らがかたきの女であった。
 威勢良く尻をはしょった太助の毛ずねにゴロゴロと喉を鳴らしてすり寄って、お愛想をするその姿。魚欲しさの一心でびを売る、浅ましい畜生である。それが我らのかたき、時田家の飼い猫だった。
 かくして奴は太助が来る度、魚をねだった。だが勝手に魚に手を出せば、太助にしたたか打ち据えられる。そこのところをわきまえていたのも、あの女。
 もしも魚を盗んで逃走すれば、太助は出刃でばをかざして追ってくる。その形相は、憤怒ふんぬの阿修羅。出刃を投げつけ、人を蹴散らし、「おのれ、貴様!」とダミ声上げて、追うその足は魔物の速さだ。それを知っていたがため、奴は欲と理性の均衡きんこうをどうにか保てたわけである。
「魚が欲しい。魚肉が欲しい。あぁ、その骨までねぶりたい。だけど、我慢しないと殺される」
 その身を焦がす煩悶はんもんが、あるいは直接的な空腹が、かのメス猫の尻尾を垂直に起立せしめた。喉を鳴らせた。そして人の毛ずねに頬ずりさせた。なんとも見下げた振る舞いである。
 だが一方で、そうした媚びへつらいをこよなく愛するのが人というもの。
 魚を強奪されれば殺気みなぎる魔人と化すが、猫が下手したてに出た途端、人というのはなぜだか俄然がぜん心を許す。そこへ畳み掛けるのが、ゴロンとまろび、腹まで見せる猫の嬌態きょうたい。しかのみならず、あのメスは太助の手足を手当たり次第に舐め回す。そしてこれを憎からず思ったのが、ほかならぬ魚屋太助の頭脳であった。
「よしよし、そうか。欲しいのか。待て、待て。やるから、すこし待て」
 こやつめが、こやつめが──。
 そのように目を細め、メスの首根くびねをグリグリなでるその様は、まさに骨抜き。かくして太助はこのメスに、日々、魚肉を丸めた団子を貢いだ。方々で魚を下ろして回る際、捨てる骨からすこしの魚肉をこそいでは、集めて練ったものである。
 手間をいとわぬ、その奉仕。だが、なぜ彼はそこまで尽くすようになったのか。その答えは、かの毒婦のさらなる魔性の振る舞いにある。
 あの女、魚をもらう時にはへつらうが、それ以外の時はどうであったか。
 道で太助とすれ違っても、彼が手ぶらと見るや白眼視はくがんし。天秤棒を担いでいない魚屋風情ふぜいがいくら呼んでも、おつに澄まして見向きもしない。
 そのような冷遇は、男の心をひどくくじくものである。だが、それと同時に奮起もさせる。すげなくされればされるほど、「あの女、振り向かせたい」と思うのが、男の頭脳。そしてこの場合、太助に魚肉の団子を作らせたのだ。
 諸君。これすべて、かのメス猫の策略である。
 男女の間で優位と劣位が揺れ動く、色恋に似た高等遊戯。場面によって異なる心理、あるいは力の均衡を余すことなく知り尽くし、そのことわりを思うがままに利用する。それが奴一流の男あしらいなのである。
 その術中に見事はまった魚屋太助は、当家あつらえの刺身から出るアラの一部も、時田夫人の許しを得るなり、そそくさと貢ぐ始末であった。
「まぁ、仕方のない猫だこと」
 夫人はこの時、そう言ってほほ笑んだものである。
 さて、諸君。
 我らはここで一度話を置いて、思案を巡らす必要がある。
 仮に我らが魚肉を欲し、人に対して同じ手口で甘えてみたら、どうなるか。それを考えてみて欲しい。
「まぁ、仕方のないねずみだこと」
 夫人は果たして、そう言うか。
 いな金輪際こんりんざい、言わぬであろう。
 猫と鼠の間に引かれた、差別の一線。悲しいかな、そこに現実というものがある。
 太助にしても、我らが毛ずねに頬ずりすれば、どうするか。これは当然、振り払う。口汚く面罵めんばする。「二度とするな」とくぎを刺す。
 こういった人による不当な差別が、我々の外見からくるものか、はたまたはらめば二十日で子を産む多産の質が災いしたのか、それはわからぬ。だがともかくも、人は我らを忌み嫌う。嫌うがゆえに、猫を飼う。「鼠を狩れ」と指令する。
 かくしてあのメス猫は、我らに対する刺客として現れたのだ。
 だが、諸君。鼠に生まれた身の上を嘆くではない。天は我らに神出鬼没の術を与えた。我らは天賦てんぷの才を生かすのみ。敵の目をかいくぐり、かつ大胆に子を作る。そして我らは屋根裏に、秘密裏ひみつりの帝国を築くのだ。
 そのために大事なことは、一体なにか。
 それは敵を知ることである。
 まずは当家の人畜じんちく、その心理と振る舞いを観察すること。敵を深く知ることで、我らの取るべき道はおのずと決まる。今日、諸君に集まってもらったのは、それを改めて告げるためなのだ。
 では、話をメス猫のことへ戻すとしよう。
 あの憎らしい、我らの宿敵。足裏のぷっくりとした肉球さえも人々に愛でられた、あの女。その死亡事件をひもとけば、我らを取り巻く環境もおのずと知れるというものだ。
 あの事件が起きたのは、およそふた月前のことだった。まず、この界隈かいわいに魚屋太助が病気で寝込んだという噂が流れ、かの売り声もしばし途絶えた。太助は若く、独り身である。さぞかし困っていることだろうと、時田夫人も他人ながらに気を揉んだ。
 そして音沙汰のないままに半月が過ぎた頃、太助はすっかり様変わりして当家の前に現れた。
 かつてはよく日に焼けて、精悍無比せいかんむひとも言えたその顔が、青白くやせ衰えた病み上がり。そして太助はこの時、たらいを持っていなかった。それもそのはず、彼は長く寝ついたことにより、商いの元手をすっかりなくし、当家へ借金の相談にやってきたのだ。
 だがそんな男を、あのメス猫が出迎えるはずもない。
 そこで太助が当家のあるじ、時田儀一郎ぎいちろう氏に「猫は元気でしょうか」と尋ねると、儀一郎氏は口を濁した。
「うむ、猫か……。あれはもう、おらぬのだ」
「と、申されますと?」
「それは、あれだ……つまり、打ち殺して埋めたのだ」
 思いもよらぬ話の流れに、魚屋太助は固唾かたずを呑んだ。
「……まさか。一体、どうしてですか?」
「実は先頃、当家で小判が一枚紛失してな。そこで気をつけていたところ、数日後、なんとあの猫が小判をくわえ、逃亡を企てたのだ。こうなると、先の紛失もあの猫のしわざに相違ない。飼われた恩をさようなあだで返すとは、不届きな奴。そこで成敗してくれたのだ」
 儀一郎氏は嫌な事件を思い出し、苦虫を噛みつぶしたような顔である。一方、太助は無言のままで畳を見つめた。かくして重々しい沈黙が続く中、やがて太助がなにか大変なことを思い出したかのような顔をした。はっとしたその顔は、血の気が引いて蒼白になっている。
「太助、いかがした。顔色がすぐれぬようだ。まだ無理をせぬ方が」
「いえ、そうではないのです。……時田様。そのなくなった小判は、おそらく私のもとに……」
「なに? 太助、それは一体どういうことだ」
 グイとひと膝乗り出して、武家の主が「詳しく申せ」と間近に迫る。にじり寄られた魚屋は、たじろぎながら言葉を継いだ。
「は、はい。私はここ半月、高熱に浮かされてとこに伏せっておりました。ところが五日目を過ぎた頃、朝になって目覚めると、枕元に覚えのない小判が置かれていたことがありまして」
「ほう。だがそれは、同じ長屋の住人が見かねて貸してくれたのではあるまいか?」
「私も最初はそう思い、隣近所に聞いてみましたが、皆一様に知らぬと言います。しかし考えてみれば、それもそのはず。貧乏長屋で一両小判を人に貸せる者など、そうはいません。それに私は、内側から戸締まりをして寝ていたのです。つまり……」
「そなたが寝ている間、誰も中に入れたはずがなかった、と?」
「おっしゃる通りでございます。結局、小判の持ち主はわからずじまいとなりました。しかし私も当時、仕事に出られず食べるにも事欠く日々でしたので、背に腹はかえられず」
「怪しい金とは知りながら、それで飯を食い、医者にかかったと言うのだな?」
「恥ずかしながら……。そしてようやく本復し、ご迷惑もかえりみず、本日ご相談に上がった次第にございます」
「だが、太助。その小判を、なぜ当家のものだと思うのだ」
「はい。実はその晩、私はご当家様の猫の夢を見たのです」
 太助の夢に現れた、我らの天敵。
 その夢で、奴は寝ている太助の枕頭ちんとうへちょこんと座り、彼の顔をペロペロ舐めた。桃色の女の舌が、熱でほてった頬や額を這いまわる。そしてひとしきり魚屋の顔を舐め、頬ずりすると、奴はみすぼらしい長屋の玄関、すなわち穴だらけの腰高障子こしだかしょうじへ近づいて跳躍一閃ちょうやくいっせん、穴の向こうへ消え去った。
 それが太助の脳裏に刻まれた、一夜の甘美な夢である。
「ですが、時田様。おそらくそれは夢ではございませんでした」
「なぜ、そう思うのだ」
「それは、夢にしては真に迫った舌の感触があったからです」
「なに、猫の舌の感触が?」
「はい。今にして思い返せば、私はその晩、顔にざらりとした痛みを覚え、寝ぼけまなこを開けた記憶があるのです。熱で朦朧もうろうとしていたために、実際に猫を見たのかどうかは判然といたしません。ですが夢うつつに痛いと感じたものは、まごうかたなきあの猫の舌の感触。ご当家様の猫には日頃からよく手足を舐められたものですが、猫の舌というものは、案外痛いものでして」
「…………」
「また、いくら戸締りをしていても、身軽な猫なら障子の穴から飛んで出入りもできましょう」
「そして奴が、当家の小判を置いていったと?」
「そのように考えますと、辻褄つじつまも合おうかと。時田様、申し訳ございません。私がそれに早く気づいて、申し出ていましたら……。あの猫を殺したのは、この私なのかもしれません」
 悔恨しきりの、魚屋太助。だがそれは、儀一郎氏も同様だった。
「では、のちにくわえて逃げようとした小判も、再びそなたに届けようとして……。奴、そうであったか。知らぬこととは申せ、不憫なことをした。猫、許せ」
 これに至って儀一郎氏は、泥棒猫が盗み損ねた小判を一枚差し出した。
「太助。これを猫の遺志により、そなたに授ける。だが自慢できたことではないが、当家も至って手元不如意てもとふにょいだ。万が一そなたがこの先、巨万の富でも築いたら、その際は返却いたせ」
 太助はこれを押し頂くと、猫のむくろを掘り起こし、本所回向院ほんじょえこういんとむらった。その際、つけられたのが徳善畜女などという奇怪な戒名なのである。
 諸君、奴は滅びた。
 我ら鼠をなぶり殺した、あの女。その最後は、このようなものだった。
 たしかに、奴の死にまつわる話は美談に聞こえるかもしれぬ。だが我らはそれを、異なる視点で検証してみるべきだろう。
 まず猫を打ち殺したのは、家中の誰か?
 これ、実は時田夫人なのである。
 御家人ごけにんというしがない身分の時田家は、武家といえども苦しい家計。儀一郎氏が傘張りの内職に励む一方、奥方が狭い庭で野菜を自作していることは、諸君も承知のことだろう。そんな涙ぐましい暮らしの向きを、奥方がうまく切り詰め、ようやく貯めた箪笥たんす貯金の小判とやらを、いとも安易に横領したのが、かの徳善。そしてこれに憤怒したのが、奥方なのだ。
「まぁ、仕方のない猫だこと」
 かつてそうほほ笑んだ、優しいお方。太助の病を気にかけた、典雅てんがなお方。その方が血まなこで、怒髪天どはつてんく勢いで、「おのれ、貴様!」と裾ひるがえし、木刀片手に猫を追うその様は、まさに夜叉やしゃ心胆しんたん凍らす光景だった。
 さて、諸君。
 我々がここから学ぶべきことは、一体なにか?
 それは、人は金を盗まれると怒るということである。
 金。それは我らにとって、無用の長物。だがそれは、美しいご婦人を戦慄の夜叉へと豹変せしめる魔的な代物。人が心底欲してやまず、失えば途方に暮れるものなのだ。
 夫妻の話を盗み聞いた限りでは、一両あれば蕎麦なるものが三百杯も食べられるというではないか。その価値をわきまえず、重ねて窃盗に及ばんとした浅はかな徳善畜女。
 諸君。我らは今、奴が犯したしくじりの全容を知るに至った。これを他山の石として、同じてつを踏まぬことこそ、肝心なのだ。
 金を盗めば我らは早晩、殺される。
 満身の怒りをもって、誅戮ちゅうりくされる。
 もとより人から忌み嫌われる、我らが境遇。根絶やしにされることは必定ひつじょうである。そうならぬよう、注意せよ。これがかのメス猫の遺訓なのである。
 よいか、諸君。金目のものには手を出すな。その上で本日も食糧調達、あるいは子作りにご励行いただきたい。
 では各々、ご存分の働きを。
[余滴]
 この話の素材としたのは、宮川政運みやがわまさやすの随筆『宮川舎漫筆みやがわのやまんぴつ』巻之四「猫恩ねこおんふくむ」。
『宮川舎漫筆』は江戸時代の見聞や奇談を集めたもので、著者の宮川政運(生没年不詳)は、幕臣で儒者としても知られた志賀理斎しがりさい(1762〜1840)の次子。
 原典の「猫恩を報」では、猫の飼い主は時田喜三郎、猫の戒名は徳善畜男とくぜんちくなん、謎の小判が時田家のものと知れたのは、それが時田氏の筆跡がある紙に包まれていたから、となっています。この猫の話は、ほかの書物においても様々なバリエーションで散見される、江戸時代の有名な噂話のひとつです。また、墨田区両国の回向院には、この話にまつわる猫塚が残っています。
 
(第六回へつづく)

瀬尾英男Hideo Seo

編集者/ライター。1971年生まれ。出版社勤務を経て、フリーランス。著書/『ボタニカ問答帖』『花暦 INTERVIEW WITH PLANTS』(京阪神エルマガジン社)、『描くひと 谷口ジロー』構成・編集担当(双葉社)

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