双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ことわざ時代劇(瀬尾英男)

イラスト&タイトルロゴ:平田利之

第二話ひとほうけ】

人にものを説く時は、相手の人柄、性質、教養などを考慮した上で、それにふさわしい処置を講じるのが大事だということ。

 飄々ひょうひょうとして見えて、案外名奉行なのかもしれませんよ、あのお方。
 誰って、新しいお奉行の石河土佐守いしことさのかみ様ですよ。
 今日、例の子供の裁きがありまして。あの火つけをした為吉ためきちという五歳の子。佐々木さん、あなたが先日しょっ引いて来た子です。
 私は以後の吟味ぎんみに立ち会って、一言半句漏らさぬように筆記に努めて調書しらべがきを作りましたが、為吉が住む長屋の大家、長兵衛を呼んで行った吟味の記録には、捕縛の様子が次のように記してあります。
 北町奉行所定町廻同心じょうまちまわりどうしんの佐々木晋作様が、わたくしども町役人の詰める自身番屋じしんばんやへいらっしゃいましたのは事件の翌日、元文三年三月十日のことでございます。ちょうど昼八ツ(午後二時頃)の鐘が鳴った後だったかと存じます。
 そしてわたくし長兵衛が、番屋に一晩留置した為吉とお引き合わせをいたしたところ、佐々木様はこう申されました。
「これ、為吉。その方、火つけをしたこと、しかと相違ないな。その罪状重大により、吟味中、入牢じゅろうを申し付ける。いざ神妙にばくにつけ」
 そのお言葉が終るやいなや、佐々木様のご指示を受けた岡っ引き、政吉親分が為吉の小さな体を縄で縛り上げました。
 これに至って為吉も事の大事を知ったのでしょう、大泣きに泣きまして。為吉の父、左官職の富蔵は、これを見て顔面蒼白。母のおひさは膝から崩れ、よよと泣く。
 それから今日で三日となります。
 あれ以来、おひさは水さえも喉を通らぬありさまで、やせ衰えてゆく一方。見るに忍びないとは、このことです。為吉はわたくしが差配さはいを務める長屋にてぼや騒ぎを起こしたもので、手前が世間に顔向けできた義理ではございませんが、なにぶん不憫で。
 はい。おっしゃる通り、火つけは死罪。
 そのことはこの長兵衛、しかと承知いたしております。
 しかしこれは、五歳の子供が誤ってしたことです。その責めは、店子たなこの監督者たる差配のわたくしが、甘んじて負う所存にございます。
 わたくしは火あぶりの刑であろうとも、江戸からの追放刑であろうとも、なんなりとお受けいたします。ですが先のある子供には、なにとぞ寛大なお裁きをお願いいたしとうございます。
 つらつらと、出過ぎたことを申し上げました。平にご容赦願います。
「よくもこう、一気呵成いっきかせいに話す言葉を記せるものだ」とお笑いなさるな、佐々木さん。
 これがこの奉行所で書役かきやくを務めるうちに、玉と磨いた私の特技。佐々木さんが岡っ引きの政吉たちを操って町の風紀を取り締まるなら、このくすのき清右衛門せいえもん、流れる筆で裁きの様子を描ききり、後世にまで判例として伝えてご覧に入れましょう。
 それにつけてもこの長兵衛、かねて佐々木さんがおっしゃっていた通り、差配のかがみとも申すべき人物で。
 え? それにひきかえ、父の富蔵がよろしくない?
 はい、そのようですね。
 佐々木さんが配下の者を件の長屋に忍ばせて聞き耳を立てたこと、吟味方与力ぎんみかたよりきの大久保さんから聞いております。佐々木さんの報告を受けた大久保さんが、「聞き捨てならぬ」と私に記録を命じられましたので。
 富蔵は、こんなことを言っていたそうですね。
「おひさ、心配するな。これは子供がしたことで、怪我人だって出ちゃいねえ。お奉行様も、きっとお目こぼししてくれる。物の道理を知らない子には、噛んで含めて正しい道を照らしてやるのが、かみ・役人ってもんだろう。吟味の間、数日入牢するだけで放免さ。それに幸い、為吉が左義長さぎちょうを真似て火遊びをしたことまでは、知られちゃいない」
 問題は、最後のところ。
 左義長を真似たとは、捨てておけない言葉です。
 しめ縄などの正月飾りを焚き上げる左義長が、江戸市中では防火のために、何度も禁令を出されているのは周知の事実。直近の町触れが出てからは、かれこれ二十年が経つはずです。それなのに、五歳の子供が左義長を真似るとは。
 つまりこれは、隠れて正月飾りを焚く者が、今も市中にいるという証です。
「正月飾りは、各家に新年を寿ことほぎに訪れる年神としがみ様のしろで、年神様はその依り代を焚いた煙に乗ってお帰りになる。それを焚かずに捨てろとは、お上も無粋」
 こうした声は今も耳にしますし、取り締まっても堂々巡り。左義長の火であぶった餅や団子を食べると、その年は息災で暮らせるという言い伝えも根強くあって、いまだ根絶やしとはまいりません。
 ええ、そうそう。子供の頃、あの餅や団子を食べるのが、それはもう楽しみでしたよね。あまり大っぴらに話せたことではないですが。
 それはさておき、佐々木さん。話は今日の裁きのことですよ。
 しかしその顛末は私が下手に話すより、この記録を読んでいただく方が早いような気がするな。はい。昼間、佐々木さんが町を廻っていた間に白洲しらすで起きた出来事を、お奉行の第一声から記してあるんです。
 ではお手数ですが、こちらをお読みいただけますか。
「一同、おもてを上げよ。神田白壁町しらかべちょう左官職、富蔵がせがれ、為吉。調書によればその方、木屑紙屑にみだりに火をつけ遊んだ挙げ句、家を焼いたとあるが、まこと相違ないのか」
「…………」
「いかがした、為吉。黙っていては、わからぬぞ」
「…………」
「為吉、なにか申してみよ」
「おそれながら、お奉行様」
「む。その方、富蔵であるか」
「はい。手前、為吉の父、富蔵にございます。おそれながら、お奉行様に申し上げます」
「許す。申してみよ」
「はっ。我が倅、為吉はいまだ五歳の身の上。受け答えも、心もとのうございます」
「いかにも、そのようである。では差添人さしぞいにん、富蔵。その方に尋ねる。為吉が火つけをしたこと、しかと相違ないか」
「相違ございません」
「火つけが死に値する罪であることは、その方らも存じておろう」
「はっ。それは手前どもも重々、承知いたしております。しかしながら、お奉行様。火つけと申しましても、これは子供が誤ってしたことで」
「ほう。頑是がんぜない幼子おさなごの火遊びで、思わず知らず長屋に飛び火したと申すのか」
「はい。またその火事もぼやにて収まり、怪我人の一人も出してはおりません」
「さようか。では富蔵、改めて尋ねる。その為吉の火遊びが、左義長を真似たものであるというのは、まことのことか」
「えっ……」
「いかがした、うろたえて。調書にはそうあるが。それとも、この調書に相違があるか」
「……いえ、相違ございません」
「では、その方に重ねて尋ねる。五歳児の為吉がなにゆえ、法度はっととなって久しいはずの左義長などを存じておるか」
「…………」
「富蔵。なにか申してみよ。その方が倅、為吉はなにゆえ左義長などを存じておるか。聞かれたことに、きりきり答えい」
「……それは、私がやって見せたからでございます」
「なに。その方、正月飾りを焚いたと申したか。なにゆえ法度を破った」
「はい、それは……」
腹蔵ふくぞうなく申せ」
「為吉は昨年、病で長く伏せることがありました。そこで今年の正月は左義長の火であぶった餅を食べさせて、一年の息災を願おうと」
「ほう。その方、法度と知り置きながら左義長を敢行し、倅の無病息災を祈念したと申したか」
おおせの通りにございます」
「では、富蔵。その方も罪に問われて、致し方あるまいの」
「…………」
「神田白壁町左官職、富蔵」
「はっ」
「子を思う親の心が、あだにのう」
「…………」
「惜しいことよの。だがその心、この奉行とてわからぬでもない」
「えっ」
「また、その方が正月飾りを焚く姿を、この目で見たという訴えは、本日ただ今までに出ておらぬ。情状酌量の余地、そんな言葉もあるがのう」
「…………」
「さて、いかがするかの」
「お奉行様。わたくし、二度と左義長などはいたしません」
「ほう、富蔵。その方、二度と再び左義長は行わぬと申したか」
「二度と再び、行いません」
「その言葉に二言はないと申すのか」
「誓って二言はございません」
「ふたごころなく誓うと申すか」
「ふたごころなく、お誓い申し上げます」
「さようであるか。ならば差添人、富蔵。その方が左義長の禁を破りし一件、今般に限っては差し許す。これはあくまで、その方の親心に免じた特例である」
「お奉行様っ……ありがたき幸せにござります」
「だが、以後は許さぬ。これに背けば即座に引っ立て、情け容赦はいたさぬぞ。この江戸市中においては奉行所の与力同心、そしてその配下の者らが、千の目を光らせておる。その旨、しかと心得よ」
「ははっ。ご厚情、生涯肝に銘じます」
「では、これより本題に入る。本日の裁きの的は、その左義長を真似た為吉の火つけの一件。火つけとあらば、たとえ小児の戯れであれ、罪の重さに変わりはないぞ」
「ですが、お奉行様。その火事はぼやで済み、怪我人も」
「黙れ、富蔵。それは不幸中の幸いというものである。為吉が起こした此度こたびの出火、早々に鎮火したのは、誰のおかげか」
「同じ長屋の住人のおかげにございます」
「さよう。その方ら両親ふたおやが為吉から目を離す間、隣近所が代わって目配りをしたがため、大事に至らず済んだのではあるまいか」
「仰せの通りにございます」
「だが万一鎮火に手間取れば、かかる隣人を死に至らしめるおそれもあった。また、些細な火遊びであったとしても、ひとたび風に吹かれたら、これはどうなる」
「…………」
「さよう。木と紙でできた町など瞬く間に焼失し、無辜むこの民が死ぬのだぞ。富蔵。その方、かような事情も打ち忘れ、軽々にぼやにて済んだと申したか」
「……申しわけもございません」
「さらには長屋の店子から火つけの罪人を出した、差配の立場はいかがする。慣例に照らせば、長兵衛にもとがは及ぼうぞ。また、この数日に限っても、町内で肩身の狭い思いをしたことは必定ひつじょうである」
「…………」
「その方、かかる事情に寸毫すんごうも目を向けず、我と我が子に利する弁明のみに終始するとは、不束至極ふつつかしごく。この件で周囲にかけた迷惑を忘れたかっ」
「……申しわけもございません」
「では、為吉。これより裁きを申し渡す。この奉行の申すこと、よく聞くのだぞ。神田白壁町左官職、富蔵が倅、為吉。その方、戯れに屑へと火を放ち、人様の命を危険にさらしたることは明白。小児とはいえ、非道な振る舞いである。その所業、不届きにつき極刑はまぬがれぬ。よって、火あぶりの刑を申し渡す。本日ただ今この場にて、両親に今生の別れを告げておくがよい」
「まさか、そ、そんな……。お奉行様お待ち下さい、そればかりはっ」
「ええい富蔵、控えおろう。そしてその妻、おひさ。幼子に事の善悪を諭し、噛んで含めて正しい道を照らして見せる親の務めを怠った、その方らの責任も極めて重大。よって刑余のむくろはその手で受け取り、悔悟の上で下がるがよい。奉行所の門前で待て。一刻ののち、為吉が亡骸なきがらを引き渡す。本日の白洲、これまで」
 いやいやお待ち下さい、佐々木さん。
 白洲を見に行ったところで、人を焼いた形跡などありません。この奉行所内で人を火あぶりにするなんて、まさかそんなことが本当にあるわけがないじゃないですか。
 考えてもみて下さいよ。大体、町奉行といえども、死罪を一存で決められるはずがないでしょう?
 そうですよ。死罪、遠島えんとうの判決をお奉行の独断で下すのは、越権行為。その場合、老中へ仕置伺しおきうかがいを出し、評議にはかるのが習わしというのは、私より古参のあなたこそよくご存知のことではないですか。
 え? 石河様は先月ご着任されたばかりの方だから、しきたりをご存知ないのかと思った?
 さすがに、それはないでしょう。ただ、このお裁きに立ち会った私も大久保さんも、この人なにを言い出すのかと、肝を冷やしはしましたよ。
 ですが石河様のこの狂言、富蔵一家には効果てきめんだったようでして。
 佐々木さんが探った通り、富蔵はやはり極刑はないと踏んでいたらしく、思わぬ裁きに茫然自失。母のおひさは気の毒に、本当にやせ衰えていましたが、髪を乱してこの世の終わりと半狂乱。為吉は鼻をたらして泣きに泣く、阿鼻叫喚の光景でした。
 ですが、それも束の間のこと。
 為吉は両親から引き離されて、奉行所内の座敷へと移動させられました。
 ええ、なぜだかお奉行の用部屋(執務室)へ引っ立てられて、待っていたのはしたり顔の石河様。その手には、丸めたもぐさと火のついた線香が握られていたのです。
 もう、おわかりでしょう?
 本当に変わった火刑があったものです。
「この一件、こんな仕置きでいかがかな? 人を見て法を説け、と言うではないか」
 石河様は、そんなことをおっしゃって。私も大久保さんも、これには膝を打ちました。
 為吉ですか?
 約束通り一刻ののち、門前でうなだれる両親のもとへ走って行きました。首の後ろに、大きなお灸の跡だけつけて。
 これであの両親も、きつくお灸を据えられたことでしょう。
 これが石河土佐守様、本日の裁きの顛末です。どうですか、佐々木さん。あのお方、名奉行になられるとは思いませんか?
 ただ、私が今悩ましく思っているのは、このお裁きを書役としてどう記録するべきか。
 これ、判決は「叱り」とすればいいんですかね?
 え? 流れる筆で裁きの様子を描ききり、後世にまで判例として伝えるのは貴公の仕事? まったく、余計なことを言うんじゃなかったな。
[余滴]
 この話の素材としたのは、山田三川やまださんせん著『想古録』所収の「火刑の代りに灸」。山田三川は江戸時代後期の儒者で、『想古録』は近世に生きた人々の逸話集。
 原典は、ドンド(左義長)の真似をして誤って家を焼いた子供に、町奉行石河土佐守が火あぶりの刑と称してその首筋にお灸を据えたのち、放免したと短く伝えています。
 火事と喧嘩は江戸の華とも言われたように、江戸の町では頻繁に火事が発生。明暦三年(1657)に起きた明暦の大火では、江戸の大半が被災しました。放火や失火は重罪とされ、のちに八代将軍吉宗の代に編まれた幕府初の内規集『公事方御定書くじかたおさだめがき』では、放火は生命刑で死罪(火あぶり等)に相当。失火は焼失の多少や、将軍の外出日か否に応じて、お咎めなしから数十日の座敷牢入り、手鎖てぐさり(手錠の上、謹慎)などと定めています。
 なお、江戸北町奉行の石河土佐守には、父・政朝まさとも(1686〜1765)と、子・政武まさたけ(1724〜1787)の二人が実在しますが、政武は町奉行就任の三ヶ月後に死去。ここでは政朝(1738〜1744年まで北町奉行)をモデルとしました。
(第三話へつづく)

瀬尾英男Hideo Seo

編集者/ライター。1971年生まれ。出版社勤務を経て、フリーランス。著書/『ボタニカ問答帖』『花暦 INTERVIEW WITH PLANTS』(京阪神エルマガジン社)、『描くひと 谷口ジロー』構成・編集担当(双葉社)

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop