双葉社web文芸マガジン[カラフル]

死に方がわからない(門賀美央子)

デザイン:大路浩実

第二十一回

 イナゴの一番目と二番目、すなわち遺体処理の目処がついたので(なんだか犯罪者の独白のようですな)、次は遺品処理だ。
 よほどのミニマリストでもない限り、遺品は必ず発生する。
 これをどう始末するか。見栄っ張りであるがゆえにフィニッシュはきれいに決めたい私のような人間にとって、大変重要なポイントだ。まったく手当無しのままこの世からトンズラを決め込むと、必ず誰かに迷惑をかける。その結果、死後に「門賀さんって本当に困った人よね。最期まで他人様に迷惑をかけるなんて」などと陰口を叩かれようものなら、死んでも死にきれない。名こそ惜しけれ、なのだ。
 現状、私の家を見渡す限り、生活必需品の量は常識的な範囲に収まっている。ものが少ないがゆえに各部屋もそこそこ片付いていて、さっぱりしたものだ。
 おそらく、遺品整理の業者に片付けをお願いしたところで、最低料金に限りなく近い金額でお願いできるだろう。
 奴らさえ、いなければ。
 そう、私には極めて厄介な同居人どもがいる。
 私の稼ぎの大部分を食い尽くし、時には引っ越しを余儀なくされるほど無限に増殖し続ける奴らが。
 その仇敵かたきの名を、“本”という。
 世間では「本を一冊見れば三十冊はあると思え」と言うが、こいつらはとにかくかさばるので、増えれば増えるほど物理的に収納場所を確保しなければならない。さきほど拙宅にある家具を数えてみたところ、半数以上が奴らの住処だった。
 今、拙文を書いているこの部屋にしたって、首を巡らせれば前後左右すべての面に奴らがいる。うんざりである。うんざりだが、奴らがいなければ食っていけない。私の稼ぎのほとんどは、奴らの助けなしに得られないのだから。
 蔵書家には一度買った本は絶対売らない、電子書籍断固拒否の右派もいるが、私のスタンスはそれとは真逆。近頃は小説の類は電子書籍で購入することが増えたし、年に一度は蔵書を見直し、適宜寄付に出すなどしてできる限り増殖を防ごうと努力している。
 だがしかし、それにも限界がある。
 まず、電子書籍というのはあくまでも閲覧使用権の購入に過ぎない。もし提供している企業が電子書籍ビジネスから撤退すれば、途端に購入した書籍はすべて読めなくなる。そこが現物購入との大きな違いだ。
 おそらく、一般的な読書家であれば、このシステムでもそう大きな不足はないだろう。
 だが、私のように生業に本が必要不可欠である人間の場合はそうはいかない。大事な商売道具が、「もしかしたら読めなくなるかもしれない」なんていう不安定な状態にあっては困るのだ。おまけに閲覧には必ず電力が必要だというのも、東日本大震災やら近年の大型台風を経験している身としては大きなリスクに映る。
 よって、資料となる類の本はやはり現物購入を選ばざるを得ない。また、資料系の本ほど電子化されないという事情もある。おまけに、たいてい少部数しか刷られず、すぐ絶版になる。だから、喫緊の必要性はなくとも、とりあえず買っておかなければならない。そして、買ったが最後、絶対に売ることはできない。また手に入るとは限らないからだ。
 こうして、どんどんどんどん、どんどんどんどん増えていく。
 もううんざりである。
 コレクター気質が欠片もなく、むしろ厳選したお気に入りだけを手元に置いておきたいタイプの私としては、単なる蒐集は歓びにつながらない。真に愛する本を三百冊ほど、つまり大きめの本棚一つ分ぐらいにしておくのが、本当は理想なのだ。物体として愛でたいほど美しい本というのは確かにある。けれども、中身があれば十分という造りの本も多い。造本が後者で、かつ資料として使うことはないのであれば、死蔵するより世に返して誰かの目に留まる方が本にとっても幸せだろう、というのが私のスタンスだ。
 いずれにせよ、本はあの世に持っていけない。どこかの時点で減らす方向に舵を切る必要がある。
 私の場合、物書きを引退する時がその「時点」になるのだろう。だが、定年のない仕事ゆえに、踏ん切りをつけるのはきっとかなり難しい。今のところ、七十五歳まで生きていたら、その辺りからは確実に減らしていこうと思っている。たぶん、それ以降は、よほど強健かつ気力が充実した超人でもない限り、多くの資料を必要とするような仕事はできないだろうと思うからだ。私みたいな気力体力時の運すべてが平均ちょい下ラインの人間には、到底無理である。仕事ができないなら、仕事の資料は必要ない。
 問題はその頃、資料系の書籍を買い取ってくれるような古書店が残っているかどうか――というより古本の流通システム自体が残存しているかどうか、だ。
 現在、すでに古本は飽和状態にある。よほどの稀覯書でもない限り、公共図書館などに寄付を希望しても断られるだけだ。いや、稀覯書だって最近は受け取ってもらえない。それを適切に管理保管するだけの予算と人員が図書館に与えられていないためである。司書不在の図書館が本の価値を正しく評価できないのは仕方あるまい。文化施設をそんな憂き目に合わせているのは、誰あろう我々有権者である。
 一方、古書店も大手チェーンは基本「本の価値」を「発行年」でしか見ない。つまり、新しい本は高く売れるが、古い本はタダ同然、あるいは本当にタダになる。単純に本の処理だと割り切ればそれでもよいだろう。だが、やはり価値をきちんと認めてくれるところに売りたいのが本好きの人情というものだ。
 とはいえ、価値ある本が一円二円の値をつけられ、若い人、あるいはそれを真に役立ててくれる人の手に安く渡るのであれば、それはそれで社会貢献になるかと思ったりもする。
 色々と考えるうち、結局愛着あるものは正しく価値評価してくれる古書店に、そうでないものは大量引取OKの大手チェーン店に、というのが落とし所であるように思えてきた。
 さて、そうなると「正しく価値評価してくれる古書店」を早めに見つけておく必要がある。
 望ましいのは、車で一時間以内ぐらいの距離にあり、若くて目利きの店主がいるような店だ。現在からおよそ四半世紀後に三百冊近くの本を適正価格で引き取ってもらうのであれば、この条件は不可欠だろう。
 問題は、そんな理想的な古書店があるかだが……。これは地道に探すしかあるまい。なければより理想に近いところを見つけるまでである。とりあえず、地元の古書店に通ってリサーチを開始しよう。うっかり大量の本を買うなどして木乃伊取りが木乃伊にならないように気をつけながら。
 よし、これで遺品整理の方針は立った。
 普通の遺品は、生前に契約しておいた遺品整理業者に任せる。あるいはこれという業者を見つけ、そこに依頼するよう書き残しておく。
 本に関しては、愛着あるものだけ目利きの古書店に任せる。もし、そこがすべての本を引き取ってくれるというのなら任すが、難しいようなら残りは大手チェーン店に任せる。理想の古書店が見つかる前に死んでしまった場合は、全点を大手チェーン店に。こればかりは致し方あるまい。
 得られたお金は、手続きを代行してくれた人に手数料として受け取ってもらう。
 ひとまずはこれでよし。早速エンディングノートに書いておこう。

 身一つで生まれてきた私たちは、死ぬ時もまた身一つで逝くしかない。
 バブル期に大金をはたいて買い漁ったゴッホやルノワールの名作絵画を「死んだら一緒に焼いてほしい」と言って世界中から大顰蹙を買ったコレクターもいたが(遺族の言によるとあくまで軽口だったそうだが)、一緒に焼いたところであの世に持っていけるわけではない。
 所有は生きているからこそ意味がある。所有欲が生活を狂わせるのであれば、無意味どころか害になる。
 多くの蔵書家には悪魔の所業の如く忌み嫌われている「断捨離」や「こんまりメソッド」だって、私は正しい方策だと思っている。
 SNSなどでは時折、家族が勝手にコレクションを捨てたと憤る声が流れてくるが、もしまともに整理整頓もせず、ホコリまみれのまま、家庭の邪魔モノになるまで放置していたのであれば、捨てられて当然だ。大事なのであれば、そうとわかるように管理し、家族に迷惑をかけないようにしておけ、という話である。普段の生活を他人任せにしているから、そんな事態に至るのだ。自業自得である。
 それに、どうせ死んだら捨てられる。集めたモノたちに愛情があるならば、最初から行く末をきっちり決めておくべきだ。手放し時を見失ってはならない。
 愛着は生活を豊かにするが、度が過ぎて執着に化けると物心両面で人生を損なう原因となる。
 幸せなんて主観的なものなんだから、本人が良ければそれでいいじゃないか。
 そう嘯く向きもあるだろう。
 もし、完全に一人で生きているのであれば、その理屈も成り立つ。
 だが、多くの人は家族とともに住み、空間を共有している。もし、コレクションが家族共有の空間や財産を浸食、あるいは生活上の阻害要因になっているのであれば、当人の幸せだけで話は済まない。
 独り者にしても同じ。生きている間は迷惑をかける相手もいないが、死後はそうはいかない。誰かに後始末をしてもらう必要がある以上、その誰かの負担が減るように塩梅するのは独り者人生を全うする上での義務のようなものだ。
 負担減のためには、どこかの時点であらゆるものを捨て始めなければならない。
 それは人生で溜め込んできたあれこれを、一つ一つ削いでいくことに等しいのだと思う。
 私の大叔母は、八十歳を過ぎた頃から身辺整理を始めた。それはもう徹底した見事な整理ぶりだ。元々きれい好きで、やることがなければ掃除ばかりしているような人ではあったが、今では部屋に生活上必要なものだけが整然と置かれていて、死後必要となる書類などはファイルにひとまとめにし、遺族がすぐに取り出せるように整えてある。
「これだけしてあったら、いつ何があっても大丈夫やろ?」
 そう私に笑いかけた大叔母の顔は、晴れやかだった。年齢が年齢だけに認知症も出て、必ずしも穏やかな時間ばかりを過ごしているわけではないが、少なくとも後顧の憂いを一つ自力で断てた事実は、ある種の「老いの自信」を大叔母に与えたのではないかと思う。
 私自身、今やっている「死に方探し」にある程度目処がつけば、自然と「老いの自信」を得ることができるんじゃないかなという気がしてきている。老いの自信は、老化して衰えていく一方である今後の人生に灯る明かりになるだろう。そして、その明かりがあれば老化に別の意味を見出すことができるかもしれない。いや、そうしたい。
 死に支度は老い支度であり、老い支度は生の肯定である。
 新年一発目なので、ちょっとかっこよく締めてみたが、どうだろうか。
(第22回へつづく)

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門賀美央子Mioko Monga

1971年、大阪府生まれ。文筆家。主に文学、宗教、美術、民俗関係の分野を手がける。著書に『自分でつける戒名』『ときめく妖怪図鑑』『ときめく御仏図鑑』、共著に『史上最強 図解仏教入門』など多数。

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