双葉社web文芸マガジン[カラフル]

よい人生、ぼくをくるむ(少年アヤ)

©少年アヤ

第3回

◯:◯:◯:◯

 小山田のバイト先からもらったサンドイッチをたべようと思ったら、野菜の水分でパンがびしゃびしゃになっていた。捨てたらもったいないのでお皿のうえにあけて、フォークとナイフで粛粛とたべる。
 形がくずれてしまっていても、小山田のとこのサンドイッチはおいしかった。だけどどうしても、思い出さないわけにいかない記憶が、びしゃびしゃのパンを頬張るたびに浮かんでくる。

 子どものころ、近所のおばあさんが庭で鯉を飼っていて、しょっちゅうエサをあげにいっていた。ぼくはちっとも行きたくなかったけれど、行きたくない、と言うことが、なんだかとても悪いことに思えて言えなかった。
 妹と一枚の食パンを分けあって、なくなるまでちぎって池に投げ入れるのだけど、水でふやけた食パンに、本能ひとつで群がる鯉たちを見ていたら、ほんとにかなしかった。まずそうでかなしかった。
 縁側では、おばあさんがニコニコと、うれしそうにぼくたちを見ている。
 ぼくはその視線を横顔に受けながら、とくにかわいいというわけでもない、ぶっとい腕みたいな鯉たちが、押し合うようにしてパンを奪い合う姿をながめる。
 そのすさまじい状況を、自分がつくっているということが、たまらなくおそろしかった。はやく終わらせたい一心で、黙々と食パンをちぎりながら、苔のにおいや、鯉のなまぐささ、おばあさんの家から流れてくる、おばあさんの家にしかないにおいに、頭がくらくらしてくる。

 びしょびしょのパンをたべていたら、そのすべてをくっきりと思い出してしまい、感傷を通り越して気持ち悪くなってきた。
 なのに今日も、小山田はビニールいっぱいのサンドイッチをくれた。ぴかぴかの笑顔でくれた。しかも野菜のやつばかり。
 ありがとう、と受け取りながら、気持ちだけもらう、ということのできない自分が心底情けなかった。いまはこれに生かされるしかないのだ。
 帰り道、順調に鯉のことを思い出して具合が悪くなり、吐きそうな顔で歩いていたら、久々に職質にあってしまった。
 歯ごたえのよさそうな太ももを、ネイビーのズボンでくるんだ警察官たちは、ビニールいっぱいのサンドイッチを怪訝そうに見ている。
 なにか身分証名できるものはありますか、と聞かれ、財布を開いたらなにも入っていなかった。レシートと小銭と、ハイチュウの包みしか入ってない。
 一刻も早く家に帰りたかったぼくは気が焦って、つい小山田のバイト先のことや、自分の経済状況、おばあさんの鯉のことまでベラベラと話してしまった。おかげでますます鯉のことを思い出し、吐きそうになってだまり込んだぼくのめまぐるしさに、警察官たちは困惑していた。ビニールいっぱいのサンドイッチが重い。
「なんか、サンタクロースみたいですね」
 もう押収してほしい。

◯:◯:◯:◯

 昨日警察官のお兄さんたちを見ていたら、高校の卒業式のあとパトカーで連行されたことを思い出した。一緒にいた友人の自転車が、なんと窃盗されたものだったのだ。
 フレンドリーだった警察官の顔は途端につめたくなり、ただちにパトカーに乗るよう友人に促した。
 友人はそのとき、舞台衣装みたくギラギラした赤い袴と、鳥の巣のようにふくらませたどでかい頭、それらに負けないギャルメイクという、あんみつ姫みたいな出で立ちだった。ついさっきまで卒業生代表として壇上ではりきっていたのに、いまは顔を真っ青にして震えている。
「うそよ……そんなわけないわよ……あたし……」(ほんとにこういう口調なのだ)
 こんなに派手な人が連行されるなんて、と思いながら、バックウインドウからのぞく鳥の巣がみるみるちいさくなっていくところを想像していたら、「おねがい、一緒にきてちょうだい……」と腕を掴まれ、ガーンと思いながらもパトカーに乗るしかない状況になった。ちなみにぼくたちは、ちょうど打ち上げのパーティーに向かう最中で、両手に風船やクラッカーを山のように抱えていた。

 警察署に着いてから、友人だけが取調室のようなところに連れていかれ、ぼくは薄暗い廊下で5時間ちかく待たされるはめになった。おまけにすごく寒い。やがて携帯の電池も切れ、だれかと連絡をすることもできなくなってしまった。
 窓からは街を走る国道がよく見えた。ぼくは景色に見入るふりをしながら、行き交う警察官と目が合うのを避けつづけていた。ふだん接するおまわりさんとちがって、口笛を吹いていたり、飲み会の話をしていたりして、なんだか見てはいけないもののような気がしたのだ。
 傍にはパーティーグッズが置かれている。いまこの街に、こんなにも無意味なものがあるだろうか。
 はあ、とため息をつきながら、でも本当は、打ち上げなんかには行きたくなかったんだよなと、うっすら窓に反射した自分を見て思った。男の子たちもみんな来ると言っていたから、きっと羽目を外してお酒なんて飲んで、ちょっとお互いを意識しあったりするんだ。そのなかで、ぼくはどうしていたらいい? 邪魔にならないよう会話に参加しつつ、ゲイであることは隠さなきゃいけないって、どうしたらいい? お酒を飲んで、うっかりなにもかもしゃべってしまったらどうしたらいい?
 結局友人の自転車は、彼氏の知り合いから譲ってもらったものらしく、その知り合いも、どこかで拾ったものだということが確認できて、ひとまず解放された。
 友人は泣きすぎてにじんだマスカラと、こころなしかしぼんで見えるどでか頭で、「あんたまで打ち上げに行けなくてごめん」と謝っていた。どこからか現れた彼女のお母さんも、「あんた、こういうのを友情っていうんだよ。アヤちゃんに感謝しな」とか言っている。
 ぼくはかえって感謝したいくらいなのに、恐縮です、みたいな顔をしながら、「べつにいいんだよ」なんて恩着せがましく答えたりしていた。
 桜並木を、つめたい風が、なにやらたのしげに吹いてまわっている。

◯:◯:◯:◯

 まだ鯉のことが気持ち悪いのに、スーパーで安売りのブリの刺身なんて買ってしまった。案の定たべる段になってなまぐささに耐えられなくなり、ひとつひとつをフライパンで炙ることにした。
 クリアなピンクいろから、どんどん濁った色になっていくブリをながめていたら、二度ころしたような気がした。自分がこんなことされたらどうしようと思う。

◯:◯:◯:◯

 仕事おわりの小山田から、これから森とカラオケに行くけど、あんたもくる? と連絡がきた。ぼくはちょうど長すぎる昼寝から目覚めたところで、ご飯どうしようかな、なんて考えていたところだった。シャツがじっとりと汗ばんでいて気持ち悪い。
 どうしよう。とりあえずシャワーをあびてから返事をすることにした。

 森は、やっぱりピンク・レディー同好会のメンバーだったけれど、穏やかそうな見た目に反して、地元のよくわからないけどこわい感じの人間関係に詳しかったり、練習中に絡んできたヤンキーをひょいと去なすのが得意だった。けれど中学のころは生徒会長だったらしく、成績もかなりいい。
 凄みがある。
 ピンク・レディー同好会へはほとんど付き合いで入ってくれて、いつも淡々と歌っている印象だった。たのしそうにしているときもあったけれど、ぼくは勝手に申し訳ないような気持ちになって、なるべく負担のないよう文化祭でも簡単な曲ばかり振り分けたりしていた。
 でもそれだけじゃなくて、ほんとは森のことが苦手だった。単に圧倒されていたのもあるけれど、彼女の猫みたいな目で見つめられると、ぜんぶ見透かされる気がしてこわかったのだ。
 そんな気持ちを、森はとっくに見抜いていたはずで、ぼくが引いた線をけっして踏み越えないようにしながら、必要以上に会話をしたり、あそんだりすることもなく、卒業まで正確にその距離を保ってくれていた。ときにすっかり打ち解けている、みたいな笑顔さえ見せながら。
 結局のところ、そういうことのできる人だから、ぼくは森のことがこわかったのだと思う。
 再会してからは、ちょくちょくラインで会話をするようになって、あの頃よりはずっと打ち解けることができた。くだらない話も、真面目な話もなんでもできる。
 今度飲もうよ、なんて言い合いながら、だけど実際に会うのはちょっとこわかった。自分のなかで、まだなにか引っかかりがあったのだ。それを察してか、森も具体的に誘ってはこなかった。

 サプライズで登場してよ、という小山田の提案を受けて、ぼくは徒歩でゆっくりと下北沢に向かうことにした。電車ならあっという間だけれど、すぐに着いてしまうのはこわかった。ゆっくりこころの準備をしたかった。
 指定されたカラオケ屋さんに着くと、店員さんに事情を話して、緊張しながら部屋に向かった。部屋に近づくと、爆音でピンク・レディーメドレーがかかっているのが聞こえてくる。
 ちょうどウォンテッドが終わったところで、勇気を出して部屋に入ると、森は飛び上がっておどろいて、「なんであんたがここにいるの!」とさけんだ。
「サプライズだよ〜〜」
 小山田とふたりで言うと、森は笑いながら号泣しはじめた。
「なんだよ、なんでお前ここにいるんだよーーー」
 ぼくの予想では、たいしておどろいてもらえず、鼻で笑われるのが関の山だろうと思っていたから、泣きまくる森の姿におどろいて、引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。言い出しっぺの小山田も困惑したように笑うばかりで、森ひとりが号泣しながらスベっているみたいになってしまった。
 そのままでいたら気まずいので、ぼくたちはとりあえずピンク・レディーメドレーのつづきを踊った。小山田はうれしそうに踊り、森も泣きながら踊っていた。
 それから店員さんの計らいで大部屋に移り、気の済むまでピンク・レディーを踊った。
 小山田はもちろん、森がすごくたのしそうだった。ピンク・タイフーンではとうとうテンションが振り付けをはみだし、子猿のように飛び跳ねていた。ぼくもはしゃぎすぎてマイクを思いきり歯茎にぶつけ、かなり痛かったけれど「血とサングリアって合う〜〜」とか言いながらお酒を飲みまくり、踊りつづけた。
 ひととおり踊り終えるとソファに倒れ込んで、むかしはこんなのへっちゃらだったのにねーなんて言い合いながら、ゆっくりお酒を飲んだ。
「アヤがうちらのとこに帰ってきてくれてもさー、結局ラインだけで、なんだかんだ会えないんだろうなって思ってたんだよね、わたしは」
 ぼくは内心ぎくりとしながら、わたしは、という言葉に反応しないよう、「そんなことないよー」とか適当なことを言って、テーブルに並んでいたポテトをまとめて頬張った。同時に、小山田はトイレに立ってしまった。
 部屋にふたりだ。
「ねえ、これ見てよ」
 森がそう言うのでスマホを覗き込むと、どこかのスナックで、ベロベロになりながらピンク・レディーを踊っている森の映像が映っていた。
「同好会のおかげで、いくつもの飲み会で救われてきたわ、この10年」
 そう言って笑いながら、飲み放題のハイボールをぐいっと飲んで、「うっす」と毒づく。
「ていうかアヤ、すげー腹でてね?」
「あんたはアゴが伸びたよね」

 まだ終電には時間があったけれど、なんとなく電車に乗る気になれず、ゆっくり歩いて帰ることにした。強めのチューハイを飲みながらジャンクションを見上げると、いままさに宇宙から帰ってきたような気分になった。それはどこにでも行けるし、どこからでも帰ってこれる、みたいな気分だ。
 道路沿いにある牛丼屋さんに入ろうかと思ったけれど、カラオケで結構お金使っちゃったしな、と思い直し、山手通りをますますゆっくり歩いた。
 東京にはすてきな道路が無数にあるけれど、山手通りの初台から要町にかけての感じがとくに好きだ。道幅の広さと、なめらかなコンクリートのうえを車がサーサー走っていく感じに、いつも清々しさを覚える。ほとんど高い建物がないのもいい。
 深呼吸をしながら、たのしそうだった森の姿を思い浮かべて、急に泣きそうになる。
 足を止めて、実家で見つけた文化祭の曲目リストの写真を見返してみると、森はおとなしめな曲ばかりを担当していて、ほかのみんなより1曲少なかった。ぼくの独断で振り分けたわけじゃないけれど、あれを歌いたいとか、これを歌いたいとか、森はぜんぜん言ってこなかったから、それに甘えてしまった結果だと思う。
 でも、もし言ってこなかったんじゃなくて、ぼくが言えなくさせていたんだとしたら。ほんとはすごくたのしんでいたのに。あれもこれも、踊りたかったのに。
 森は今日、自分の担当だった曲以外の振り付けも、歌詞も、すべて完璧におぼえていた。サウスポーも、ペッパー警部も、モンスターも、カメレオン・アーミーも完璧だった。
 彼女の青春にたいして、取り返しのつかないことをしてしまった、という実感が一気に襲ってきて、胸がつぶれそうになる。むしろ当時からずっと、そのことを突きつけられるのをおそれていた気がする。
 あの、たのしそうな顔。子どもみたいな顔。飛び跳ねる背中。ボロボロの泣き顔。

◯:◯:◯:◯

 昨日カラオケで、ふいにいやなにおいが漂ってくる瞬間があった。空調かな、とも思ったけれど、どう考えても洗っていない服のにおいだった。
 ぼくは真っ先に小山田を疑っていた。忙しいのにお金がないと言っていたし、いつもお洋服がほしいとつぶやいているからだ。
 そうか、小山田……と思いながら、まちがっても「くさ」とか言わないよう気を引き締める。そして、さくらんぼのボタンがついた薄手のカーディガンを、それでも今日は着たかったのだ、という彼女の気持ちを、なんだか愛おしく思ったりしていた。

 なのに帰り道、森のことで泣きながら鼻水を吸ったとき、ふわっとあのにおいがした。振り返っても小山田はいない。
 え、とパニックになって、シャツのにおいを嗅いでみたけれど、べつに変なにおいはしない。背中のほうもしない。
 気のせいか、と安堵し、あらためて歩きだすと、またふわっとあのにおいがした。はっと顔が青ざめる。もう自分でまちがいない感じだ。
 もしかしてズボンだろうか、と膝のあたりに顔を近づけると、悪臭のまさに爆心地を鼻の穴がすっぽりと覆う形になり、あまりのくささに混乱しながら、でもちがうもん、ちがうもん、と、悪臭を振り払うように走りだした。
 山手通りきれい。 
 だけどズボンは永遠にくさい。

◯:◯:◯:◯

 洗濯したズボンをはいて散歩していたら、汗ばんでくると同時にまたあのにおいが漂ってきた。とっさに振り返るんだけど、やっぱり小山田はいない。
 そろそろ潮時だろうかと思いながら、でもこのズボンは、一緒にびんぼう時代を生き抜いてきたズボンなのだ。やぶれるたびにおばあちゃんが縫い、またやぶれたら当て布をしてまた縫い、それでも裂けたら開き直って穿いていた。
 つまりぼくの皮膚だ。ぼくの身体そのものだ。
 とか言いながら、ほんとはめんどくさいだけな気もする。
 以前も似たようなことがあった。着倒したハリーポッターのTシャツが、異臭を放ちはじめても着続け、とうとう人にそのことを指摘されても、「くさいのはハリーポッターじゃなくて、ぼく自身だから」と開き直っていたのだ。それはやっぱり、買いに行くのがめんどくさかったから。それだけのために、自分自身がくさいという屈辱的な理屈を掲げていたのだ。
 ずるずるとにおうままでいたハリーポッターと、さも愛着があるふりをしているズボンがぴたりと重なり、やばい、という感覚が全身をつらぬく。そして眠気がやってきた。
 寝た。

(第4回につづく)

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少年アヤShonen Aya

1989年生まれ。エッセイスト。ブログ「尼のような子」が絶大な人気を得て、エッセイ集『尼のような子』(祥伝社)を刊行し話題に。著書に『少年アヤちゃん焦心日記』(河出書房新社)、『果てしのない世界め』(平凡社)、『なまものを生きる』(双葉社)。

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