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FP(ファイナンシャル・プランナー)住職の丸もうけ人生相談(高橋 泰源)

第3回

 こんにちは。好きなボカロソングは「般若心経ロック」、FP住職の泰源と申します。

 ではさっそく、今回も衆生の皆さまからいただいたご相談にお答えしていきます。

6.結婚が決まったとたん、昔の彼女への未練がぶり返しました。披露宴その他の費用は一部支払っているのですが、どうしたらよいでしょうか。(30代・男性)

 そうですか。フーン。いやフーンじゃないですね。私ですか? 結婚したのは30年近く前ですので、何も覚えておりません。ええ覚えていませんとも。はい。あ、誰も聞いてなかったですね。
(深呼吸)
 さて、まず仏教的アドバイス。こだわるな。

#色即是空しきそくぜくう
#諸行無常しょぎょうむじょう

 前回、前々回も申し上げた通り、万物はくうである。たまたまそこにあるだけ、あるいは、たまたまそこにあるように見えるだけ。だから、欲しいとか、手に入れたいとか、執着は禁物、です。これを踏まえて。

 現代の代表的な出版布教の実践者である僧侶の小池龍之介氏は『こだわらない練習「それ、どうでもいい」という過ごしかた』という本を出してしまったくらいに、人、もの、思い、住まいなどに徹底的に執着しない生活を提唱しています。彼が言うには、恋愛初期に双方が感じるエネルギーは、

 1)未知の相手への幻想
 2)まだ手に入りきっていない相手を手に入れたいという衝動

 から成るのだとか。そして、恋愛が成就し、安定期に入るにしたがって、「自分の枠を超えるエネルギー」が相手の心から枯渇し、幻想も衝動も、次第に消滅していくことを余儀なくされる。したがって次第にエネルギーも減衰し、愛情の水準が落ちる。それはある意味当然のことである。
 だから彼は「嬉しかった(時点の)ことにこだわってはいけない」と言っています。

*手の中に入れたものさえするすると握れば指の間より落つ

 要するに、

・どうせ「空」なんだから、出会い期には過度な幻想や衝動を抱くべからず
・どうせ「空」なんだから、出会い期のエネルギーを取り戻そうと必死になるべからず

 といったところですかね。

 さて、相談者さんの場合です。
 相手が元カノであれば、1の「幻想」はないとしても、2は「かつて手に入れていたものを取り戻したいという衝動」と変換はされますが、エネルギーの増加に寄与してそうですね。
 ですが、申し上げたように、仏教的には「かつて手に入れていたもの」という解釈自体が思い込み(空)ですし、それを取り返そうとすることは「執着」ですのでNG。かりに元カノさんに会って思いを伝えて、もう一度情が通じたとして、そこが頂点。エネルギーと愛情はそこから低下していく一方です。下手するとまた別の女性(元カノその2、とか)に同じ思いを抱いて同じてつを踏みかねません。

未練を断捨離

 では、そもそも結婚とはなんなのか。配偶者の存在も、夫婦という共同体も、家庭というシステムも、すべて空だと考えるなら、結婚自体意味がないのではないか。それどころか、相手に対する執着がより強くなって仏教的には好ましくないのではないか。そう言えば仏前結婚ってあったよね。そんな思いが浮かんできた方もおられますよね。ちょっと横道にそれますが、仏教と結婚についての話を聞いてください。

仏本行集経ぶつほんぎょうじゅっきょう」や「過去現在因果経かこげんざいいんがきょう」というお経に、こんな説話があります。
 むかし、ある国の王様が、仏さまにお花を供養すればその功徳くどくが大きいと聞いて、国中の花を城に集めるようおふれを出しました。
 雲童子うんどうじという青年もまた仏さまにお供えしようと花を探しますが、王がひとり占めしているため、見つけることが出来ず途方にくれていました。
 そこに7本の花を持って国王のもとに向かう一人の美少女が現れました。雲童子は自分の全財産と引き換えに5本だけでいいから譲ってくれないかと懇願しました。
 少女は拒みましたが、雲童子は「仏さまに供養することで多くの人々のためになりたい」と重ねて言いました。感動した少女は心を決めました。そして、二人は仏さまのもとにおもむき、青年はその5本を、少女は残りの2本をささげたのです。
 この縁によって二人は結婚しました。

 その青年は後にゴータマ・シッダルタに生まれ変わり、悟りを開かれました。これが経典に書かれている、ブッダ(お釈迦様)の前世譚です。

 さらっと言いましたが、「生まれ変わった」のですよ。ここがポイントです。「その青年がシッダルタです」とはいかないんです。

 実は、お釈迦さまは悟りを開く前に普通に結婚していたのです。ですが彼はその後、その何不自由ない家族での暮らしに疑問を感じ、妻子を捨てて出家してしまいました。悟りを開く前の一人の男の所業とはいえ、さすがにそんな話を仏前結婚式でするわけにはいきませんので、一般的にはこの「お釈迦様の前世の話」が戒師かいしを務める僧侶により話されます。前世譚にちなんで式の中で新郎が5本、新婦が2本の花をご本尊に供える所作が盛り込まれている宗派もあります。

 結論。結婚とは結局、

一組の夫婦となることにより、互いへの執着を断ち切ること

 ではないかと、私は思うのです。お互いによく見られようと格好つけあって暮らしていては息が詰まります。互いへの要求を突き付けあっているだけでは夫婦は破綻しますよね。だらしない面も適当な面もすべて見せ合い、虚飾を取り去って心身ともにすっぴんの状態で互いに向き合い、許し合う。「相手にとって自分が理想のパートナーになる」などと考えて無理をしない。相手にも「自分にとって理想のパートナーになること」を求めない。互いに背伸びをせず、背伸びをさせず、互いを敬ったり、補い合ったり、助言し合ったりしながら、居心地のいい空間を作り上げていく、それが結婚ではないかと、考える次第です。
 あ、結婚とお金に関してのお話は、また改めて。

*美術館の入り口でいったん別れ出口で待ち合わせてるのは夫婦


7.自分と妻が入る墓は見つけたのですが、長男夫婦はどうも海外転勤や移住を考えているようです。次男は独身ですが放浪癖があり、時折消息を絶ちます。長女は九州に嫁に行きそうなので、将来、子供たちの誰かにをその墓を継承させることが現実的に厳しそうです。どうすればいいでしょうか。(50代・男性)

 それぞれキャラ立ったお子さんたちをお持ちで、素晴らしいですね。はい、こういう方のためのお墓、これが「永代供養墓」です!
 ジャパネットの社長みたいなお答えになりますが、少しお付き合いください。
 永代供養墓とは一般的に、「(盆、彼岸、年会法要など)定期的・継続的に供養を行う義務が施主に発生しない集合型の墓地」をいいます。家に例えるなら、従来型のお墓は一戸建て、永代供養墓はマンション型の墓とでもいえるかもしれません。多くの場合、寺の墓地の中に作られている永代供養墓であってもその寺の檀信徒となる義務は負わず、年会費も発生しません。住職の考え方にもよりますが、寺としては「お骨を預かり供養を委託されている」という感覚に近いので、無宗教であってもキリスト教徒であってもイスラム教徒であってもゾロアスター教徒であっても、天理教の方であっても入っていただけます。私の寺でもそうです。もちろん私はゾロアスター教などの経典は読めませんので、私の宗派のやり方でご供養を行うのですが。

誰が「お墓を永代にわたり供養する」のか

 この永代供養墓、もともとは未婚者や子の居ない夫婦、つまり「お墓の面倒を見る人が存在しない方」向けのシステムであったのですが、昨今のライフスタイルの多様化に伴い、子や孫がいる方にとっての選択肢ともなりました。結果、都市部を中心に近年猛烈なペースで増えています。
 さて、この永代供養墓のメリットとデメリットを簡単にまとめます。

 まずはメリット。
・一般の墓より低価格である
 一般の墓は「そのご家族のための区画」に「そのご家族のための墓石」が建っています。まさに一戸建て住宅のイメージですね。しかしながら永代供養墓は多くの場合、石を組み合わせた直方体の中に多数の区画(骨壺の収納スペース)が作られており、見ず知らずの他人の骨壷と並べて入れられる(収蔵)、もしくは土に撒かれる(合祀ごうし)ことになります。当然、その分永代使用料は安くなります。FPとしての立場で申しても、エンディング関連のコストを見積もる際に墓所の購入・維持費用は重要なファクターなのですが、十分に検討する価値のある選択肢です。

・墓参や年会法要の義務がない
 これがまさに「永代供養墓」の「永代供養墓」たるゆえんです。墓地の管理者(霊園なら管理業者、寺墓地なら住職)が未来永劫にわたってご供養をしますので、ご安心ください、という意味です。ただ「安心」の意味が、当初は、
「お墓を守る跡取りがいない方もご安心ください」だったのが、
「お子さんお孫さんにお墓を守る義務を負わせたくない方もご安心ください」
 もしくは、
「お子さんお孫さんにお墓を守る義務を怖くて負わせられない方もご安心ください」
 に変わってきています。

・寺墓地でも住職と一定の距離を保つことができる
 上で触れましたが、墓参や年会法要の義務がありませんので、寺墓地であっても、必然的に寺との心理的な距離が遠くなります。「なんとなくあそこの寺の墓地をとったけど、どうもあの住職とはウマが合わない、できれば顔を合わせたくない」などという場合に、顔を合わせずにすみます(どんなメリットだ)。

 一方、デメリットとしては以下の点が挙げられます。

・墓が「家」単位でないため、子や孫に先祖供養の大切さを説明しにくい
 私は4歳から寺で育ったのですが、小さいころから、2世代、3世代など、ご家族連れでお墓参りに見える方たちをよく見かけました。「ひいじいちゃんやひいばあちゃん、ご先祖様に手を合わせてね」というお父さんの号令に従って強めに目を閉じて手を合わせていた子供たちの純真な表情を、今でも鮮明に思い出すことができます。「ご先祖の誰が欠けてもお前はこの世に生まれていない」という事実を認識させるには十分すぎる儀式であったような気がします。これが永代供養墓となると、そうはいきません。同じことを教えようと思ったら何か所のお墓を回ることになるのか。ちょっと大変ですよね。

・子や孫は別途墓所を探す必要がある
 当然ですが、永代供養墓は一代限りの墓所ですので、お子さんお孫さんは別途どこかにお墓を探す必要があります。その土地から離れない可能性が強いなら、通常の墓所を購入するほうが結果的に安くつく場合もあります。
「(永代でない)普通のお墓を買っておいてくれればよかったのに」などともらすお子さんもおられます。

そもそも供養は義務じゃないけど。

 さて、では「供養の義務がない墓地」の現状はどうなっているか、お花もお線香もあがらない、殺風景な墓所になっていないか、という疑問もあるかと思います。
 私の寺は首都圏にあり、車ではそこそこアクセスの悪くない場所にありますが、バスですと最寄駅から20分、決して交通至便といえる立地ではありません。8年ほど前に永代供養墓を造成した時は、そんな場所に建ててどうなるのか、という不安もなくはなかったです。しかしながら、おかげさまで多くの方から申し込みをいただき、現在では生前予約も含め全体の8割がすでに埋まっている状況です。そして、40体近くのご遺骨をお納めしておりますので、毎週末、どなたかのご遺族がお見えになり、色とりどりのお花を供えていかれます。「墓参・供養の義務がない」だけで「墓参・供養してはいけない」わけではないですから。というわけで、当初想定していたより、はるかに彩り豊かな、いついらしてもお花の絶えない、明るい墓所になっております。お申し込みはお早めに。

 営業か。

*顔も見たことのないどなたかが我が先祖にも花を供えて


8.お賽銭っていくらが相場?そもそも「お気持ち」ならばお賽銭ナシでもOKでは? 神社とお寺、どっちに払ったほうがご利益があるんでしょう?(20代・男性)

 なかなか率直なご意見ですね。面白いと思ったのは、基本的に「お賽銭を上げることで願いが叶うかもしれない」と、思われているところです。さすがに努力なしで満願成就とは思ってはいないでしょうが、ここまでドライな発想があるなら相談者さん、「賽銭などという経済合理性が見いだせない行為に俺はくみしない、神社にも寺にも行かないっ」とか思ってもよさそうなものですが、そうでもないのですよね。

 まず、神社へのお賽銭と、寺へのお賽銭の意味合いの違いについて考えます。

近未来か未来か、的な。

 ざっくり言うと、神道は現世の、仏教は来世の幸せを主に願う、とでも言えましょうか。わかりやすいところで、受験生の合格祈願。湯島天神、北野天満宮、太宰府天満宮など、神社系宗教団体さんがほぼ一手に祈願を引き受けています。もちろん寺院でも学問成就の祈願を行いますが、「目先の試験に合格したい」という、現世利益げんぜりやくの典型。この引き受け手は、やはり神社のほうが感覚的にしっくりきますね。
 宗派にもよるのですが、仏教は基本的に「現世において修行を積めば、来世において仏となれる」と説きますので、現世における成功や幸福、目的を成就させる請負人としては必ずしもプロフェッショナルではないと考えられます。もちろん「即身成仏そくしんじょうぶつ(現世でも仏になれる)」を教義としている仏教の宗派もありますし、静謐せいひつな空間で仏像に手を合わせることで精神的な安らぎを得、勉強にさらに身が入る、といった効果も見込めますので、仏教寺院で現世利益を祈るという行為が無駄であるということは全くありません。

現世利益は寺とミスマッチ

 実際に私の寺でも年に一度の例祭にあたっては商売繁盛、病気平癒、家内安全、交通安全などの各種祈願を受け付け、お札を書き、加持かじして、お渡ししています。
 ただし、僧侶という立場にある者としてよく申し上げるのは、平素からの行い、積極的に人に施す(布施)、決まりを守る(持戒じかい)などのふるまいを常々行ったうえでの祈願であってほしい、ということです。普段は自堕落の限りを尽くし、「坊主丸もうけイエーイ」などと憎まれ口を叩いておいて、いざという時だけ仏頼み、これでは虫が良すぎるというものでしょう。

 一方、神社はある意味、積極的に現世利益をアピールしているところが多い感じがしますね。お札、お守りに加えて「毎年購入し続けると事業・商売が拡大するといわれます」などとうたって熊手を販売されている神社もあるのは皆さまご存じのとおりです(いや別にディスってないです)。

 さて、今回の相談者さんの願いごとは明示されてはいないものの、「世界平和」とか「万民豊楽」とかのワールドワイドでエモーショナルなものではなく、「一攫千金」とか「一石二鳥」とかのパーソナルでインディビデユアルなものである香りがするのですが、仮にそれであれば、神社に行かれるほうがベターかなとは思います。神社さんも、そのようなあまりに俗人的な願いについて本当の本当はどう思っているかはわかりませんが。あ、もちろん、「俺は世界平和を願うんだよ!」ということであれば、神仏を問わずお近くの宗教施設にお参りしていただいて結構です。

 お賽銭の金額の多寡が願いの実現に関係するかといったら、それは関係ありません。それぞれの方のお気持ちで結構です。語呂合わせに都合よく便乗して5円(ご縁があるように)とか45円(始終ご縁があるように)とかをお入れになる方も多いようです。うちの賽銭箱に入っている5円玉の多いことと言ったらまあ。お金のない時はまあ、手を合わせて祈るだけでも、そこに真摯な気持ちがあれば、祈らないより祈るほうが心もすっきりするでしょうし、いいかもしれないですね。でも本当にお金がなくなったら、神仏に頼らず役所等に行って相談してください。

 なお、お賽銭とは別の話ですが、祈願のお札とか熊手とかのアイテムはサイズ等によって金額が決まっていますので、それに従ってください。「お気持ちちゃうんかい!」と言われそうですが、あの手のアイテムはきちんと仕入れ原価がありますし、お札なら祈願者のお名前を書いたり加持したりする手間も加わっています。それを完全お気持ち価格にしたら、売れれば売れるほど大赤字なんてことになりかねません。宗教者側の事情もご理解ください。

盗人にさい銭

 余談ですが、賽銭泥棒の話を。ほんと多いです。ほとんどの神社仏閣で被害にあったことがあるのではないでしょうか。人のいない時を見計らって不心得者がすーっと境内にはいってきて、機敏な動きでお賽銭をさらっていきます。
 賽銭箱のひきだしに施錠すればいいじゃないかとおっしゃるかもしれませんが、施錠したら夜中に賽銭箱をひっくり返されます。結構な重さの箱なので、翌朝、箱をもう一度もとに戻すのが大変です。「罰当たり」という言葉は使いたくはないのですが、宗教心のかけらもない行為を目の当たりにすると正直、残念な気持ちになります。精神的にもきついです。   
 いやもちろん、神仏を信じるも信じないも個々人の勝手ではありますが、窃盗ですからね。
 こちら側の対策としては、防犯カメラを設置したり、こまめに賽銭箱を空けて中身を回収したりするくらいしかないのですが、お参りの人が見えている時にお賽銭を回収している姿を見られると、なんとなくばつが悪いです。皆さん、寺や神社で僧侶や神主さんのそんな姿を目撃したら、指さしてニヤニヤ笑うことなく、自然体を装ってスルーしてやってください。

 では今回はこのへんで。また15日後にお会いしましょう。

*気持ちよくポンと払う人「いくらでもいいの?」と聞く人盗んでく人
(第4回へつづく)

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高橋 泰源Taigen Takahashi

密教系寺院の住職、1級ファイナンシャル・プランニング技能士、CFP ®認定者。大学在学中に僧侶資格を取得。専門分野は宗教法人の税務・資産運用。宗教法人経営者としては「寺院の真摯な運営」、宗教者としては「人々の心身の安寧」を志向し、埋葬と瞑想と妄想の日々を送っている。

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