双葉社web文芸マガジン[カラフル]

なまものを生きる(少年アヤ)

©少年アヤ

第21回

○:月:○:日:○

 新宿まで、久々に服を買いにいく。正直ぜんぜん欲しくないけれど、いまの自分には必要なのだ。外の世界に出ていくために。
 ボロボロの格好でいるのは気持ちいい。一度ボロボロのまま外を出歩くと、すぐに人目を気にしなくなって、どこにだって行っちゃえるようになる。それどころか、街じゅうで自分ひとりだけが、なにか真実めいたものに触れている気がして、ごてごてに着飾った人たちをまえに、妙に誇らしかったりもする。
 そのくせ、きれいな男の子がすらっとした身体にシンプルな服をまとって、すずしげに目の前を横切ったりすると、息が止まりそうになる。にせものの姿勢が崩れて、おわった、おわってしまった、自分はもうおわってしまったと痛烈に思う。そして、洗っていない服の臭いが、洗ってもまだくさい服の臭いが気になりだして、どんどん汗がでる。もくもくもく。だれのそばにも寄りたくない。
 結局、ぼくはつねにボロボロの、部屋のなかみたいな格好でいることで、広い世界のなにもかもを、自分の部屋に、自分の内側に引きずりこみたかっただけだ。そうでなければ、とてもおそろしくて、まともに世界と向き合えないから。だって実際、無理に出ていって、大怪我をしたんだもの。それでよけいにボロボロ。よけいにもくもく。
 でも、この件について葛藤はしない。身体がもたないからしない。ともかく、いまはビックロへ行くことだ。

 ビックロの電気は明るい。あまり服屋って感じがしない。スーパーっぽい。だからあまり緊張せずにいられる。そして服が安い。高田馬場のたんぽぽハウスには負けるけど。
 予算をなんとなく決めて、とりあえずズボンからチェックしてみることにする。しかし売り場に足を踏み入れた途端、苦々しい記憶が蘇ってきて、ずんと気が重くなる。
 ぼくは父ゆずりの小柄で、短足で、腰まわりがずんぐりしている。ただ小柄なだけだったら、ただ短足なだけだったら、ただずんぐりしているだけだったら、いくらでも似合うジーンズがあっただろう。
 数年前、どうしてもスキニージーンズを穿いてみたくなり、おそるおそる試着してみたことがあった。まさにここビックロで。
 自白をうながすような強いライトに急かされながら、なんとかボタンをとめることはできたけれど、裾は無限に余っていたし、無理やりねじこまれたテプテプの腹が、逃げ場を塞がれてパニックに陥ったネズミのような音を立てていた。太ももにいたっては、血が通っていない気さえした。すべてに絶望するしかなかった。
 なのであれ以来、スキニージーンズどころかズボンそのものを買うという発想をしない方向で、意識が統一されていた。一時的にものすごく痩せて、この世のどんな服でも着こなせる気分になっていたときですらそうだった。服といえば上半身に纏うもので、下半身はぶっといゴム入りの、おばあちゃんみたいなゆるゆるズボン2本のローテーションできまり。当然、気に入っているわけじゃない。気にいるわけがない。
 スキニージーンズに呪縛されているせいか、今日もできれば細身の、しゅっとして見えるズボンを求めていた。けれどあまりの種類と、鍵盤みたいにびっしりと折り重なったジーンズを前にしたら、「もうだめだ」と早速思った。なにを買ったらいいかまるでわからないのだ。
 みんな、どのズボンの、どのサイズを買うべきかちゃんと把握していてえらい。でかい珊瑚のかたまりの、どこをたべたらいいかちゃんとわかっていて、おのおのつついているちいさな魚みたい。かしこいな。ぜんぶがきれい。
 焦って下痢になりそうだったので、ズボンについてはまた後日考えることにして、今日はシャツとパーカーだけ買うことにした。できればあたたかいものが欲しかったけれど、あたたかそうなものはどれも高かった。今年も「いつも薄着だね」とか言われながら冬を越すしかないのかも。
 パンツや靴下は、3足1000円だとか、2枚1000円で売られていたけれど、安いのか高いのかよくわからない。もしパンツや靴下をつくれと言われて、ヒイヒイ言いながらつくって1000円しかもらえなかったら怒るけど、いち消費者としては、パンツや靴下に100円以上払いたくないと思っている。こういう当たり前で、必要で、そのくせあっという間にだめになっちゃうものにお金をかけるって、むかしからできない。長く使えそうなものか、あるいはなにも意味がないものにしか、お金を使う気になれない。洗剤やスポンジなんかもそう。なんか「人生」って感じがして重いから。
 無難なグレーのパーカーとワッフルシャツを選んで買い物を終えると、いくらか気分が軽くなっていた。手に提げたビックロの白い袋がなんともいえずうれしい。こんなふうですけど、ふつうに暮らしていますよ、パーカーなんて買ったりして、とかしらない人に言ってまわりたい。くやしいけどウキウキしてる。
 ウキウキついでにルミネをひやかすと、ある若い男の子向けのショップが目に入った。べらぼうに高いわけではないけど、ちょっと特別な感じのするブランドだ。
 ここのお洋服を、じつはひとつだけ持っている。4年ほどまえ、ちょっといい服がほしいけれど、なにを買ったらいいかわからないでいたとき、友人が「ルミネとか歩いてみて、なんとなくいいなと思ったお店に入ってみなよー」とアドバイスをくれて、その通りにしたのだった。そして、似合うかはわからないけど、いいなと思うお洋服を買った。買ってみる、ということに意義があったので、その後ろくに着ないまま、いまごろどこかでグシャグシャになっている。
 そうだ、あれ着てみたらいいかもしれない。
 そう思ったらいてもたってもいられず、はなまるうどんに寄るのもわすれて帰った。

○:月:○:日:○

 帰宅してから、買ったばかりのパーカーそっちのけで棚をあさり、ようやく例の服を見つけ出した。いろいろなものがはいっているめちゃくちゃなカゴの底で、きれいに折りたたまれたままじっと時を待っていた。まるで記憶そのものだとぼくは思った。
 なんと形容したらいいかわからないけど、ちょっと変わってて、でもふつうに着られるデザインのトレーナーだ。トレーナーなのかな。アイロンをかけて着てみると、自分がちょっといい感じのシティボーイみたいに見えてくる。人生の大半をセンチに過ごしているけれど、根がお調子者でよかったと思う。
 そして、普段聴かない音楽をかけて、ちょっと気取ってみたりしながら、さんざん鏡のまえでかっこいいポーズをとった。家の鏡は裏切らない。でもズボンはおばあちゃんのゴムパンツだ。
 疲れて一息つくと、ベッドに横たわりながら、とても自然に友人のことを思った。いいもの買ったねって、笑ってくれた友人のことを。
 あの日、彼女はわざわざ新宿まできてくれて、買い物終わりのぼくとお茶をしてくれた。たしか仕事帰りで、普段とはちがう地味な格好をしていた。そんな彼女を見たことがなかったから、めずらしいねと言うと、あたしだってふつーの格好するよーと困ったように笑った。
 彼女はいつも派手だった。派手なのに、よく見たらシミがついていたりして、ちぐはぐなんだけど、ふしぎと貧乏くさくはない。なぜなら、彼女は装うってことを、いつもお祭りみたいにたのしんでいたから。もうちょっと気取ったらどうなのって思うくらいニコニコして。
 そうではない、地味な格好の彼女もニコニコしてはいたけれど、どこか本調子ではない感じがした。けれど、ぼくの買った服をめいっぱい褒めてくれて、今度それ着て丸ビルでピンクマティーニ飲もうよ、と言ってくれた。セックス・アンド・ザ・シティが大好きなぼくは、想像するだけで夢みたいだった。
 別れ際、京王線の改札まで彼女を見送った。いつもならもうすこしエレガントに歩いてみせるのに、そのときは異様に脇をしめて、ススス、とエレベーターの影に吸い込まれるように消えていった。視界からいなくなったら最後、もう二度と会えない他人の背中みたいに、存在を遠くに感じた。
 こうして彼女のことを思い返すだけで、とらえようのないショックと、怒りと、かなしみが、さらさらした意識の流れに渦をつくりはじめる。彼女がいなくなってからずっと、ぼくはこの渦になやまされている。
 部屋のなかにいたら、どんどん渦に飲まれていきそうだったので、外を散歩することにした。渦を、どこかしずかなところに置いてきたかったのもあるし、久々に袖を通した一張羅の着心地ってものを、ひっそりたのしみたかったっていうのもある。

○:月:○:日:○

 部屋を出ると、最初の曲がり角に酔っ払いがいた。電灯のしたで真っ黒い影になって、ふらふらと左右に揺れている。酔っ払いは揺れるものだけれど、それにしても揺れすぎていた。メトロノームみたいだった。平気かなあ、と思いながらスニーカーにカカトをねじこんで、さめた気持ちで彼の横を通りすぎた瞬間、身体が血まみれになっていたことに気がついて、はっと振り返ったまさにそのとき、酔っ払いはドサッと音を立てて地面に倒れた。
 あわてて駆け寄ると、酔っ払いはヘラヘラしたまま、「いやあ、こんなことってはじめてですよ」と言った。なにがどうなっているのかわからないくらい服も手も顔も血まみれになっている。コンクリートも血まみれだ。
「おじちゃん、どこからきたの、痛くない」
 そうたずねると、彼はのんびりした調子で「おや、たしかに血だ、いやあ、こんなことってはじめてですよ」と繰り返した。そして、なんてことないみたいにひとりで起き上がろうとするのだけど、脚に力が入らないせいか、肩を貸してやっと立たせることができた。いま思えば、あのまま座らせておくべきだったのかもしれない。
「おじちゃん、酔っててわからないかもしれないけど、ちょっと怪我をしているから、救急車を呼ぼうか。ひどくなったら大変だよ」
 すると、酔っ払いはむきになって、「たいした怪我じゃないですから。これくらいいつものことですから」と答えた。さっきからはじめてって言ってるじゃん。
「わかった。じゃあおじちゃん、おうち近いの。近いんなら、このまま送らせてよ」
「いや、ひとりで帰れますから。ご心配はいりません」
 酔っ払いは頑固だった。ぼくは相手のテンポに乗せられないよう一呼吸おいて、なるべく子どもみたいな口調でおっとりと言った。
「ぼくにも、おじちゃんぐらいの父がいるんです。おじちゃんと話していると、父と話しているみたいでうれしいの。だから孝行させてほしいよ」
 すると酔っ払いは、やっと警戒心をゆるめて、ぼくの肩にずっしり体重をあずけてきた。重い。
「いやあ、じつにめんぼくない。こんなことってはじめてですよ」
 聞くと、新宿で仕事仲間とベロベロになるまで飲んで、なんとか終電で帰ってきたらしい。てことは、こんな状態でホームを歩いてきたの。どうしてだれも守ってあげなかったの。
 ゆっくり歩きつづけて、やがておおきな下り坂に差し掛かると、酔っ払いは急に足を止めた。
「いやあ、ありがとうございました。ここまでで結構ですよ」
「こんな坂道、おじちゃんひとりで歩かせられないよ」
 だけどおじちゃんは、ぜったいに動かなかった。それどころか、ちょっと苛立ちはじめていた。万事休すって感じだ。
 するとそのとき、うしろからやってきた大学生カップルが、「道にずっと血がついていたんですけど、もしかしてこのおじさんのですか?」とたずねてきた。ぼくが事情を話すと、「じゃあ、お兄さんはこのままおじさんを送ってください。ぼくたちは先にお家へ伺って、ご家族にお話ししておきますから」と言ってくれた。すごいスマートだ。てきぱきしている。居酒屋でバイトしてるでしょう。
 おじちゃんがおちょぼ口で渋々住所を言うと、カップルはすぐにスマホで場所を割り出して、小走りに坂をくだっていった。おじちゃんは複雑そうに彼らを見送ると、観念したように脚を動かしはじめた。
「いやあ、申し訳ない。こんなことってはじめてですよ」
 ぼくはなにかべつの話題をと思い、おじちゃんどんな仕事をしていたの、とたずねてみた。すると「これは失敬。名刺を」と言って、皮がぐしゅぐしゅになった手で、インナーポケットにしまわれた名刺を渡してきた。ぼくは痛そうで痛そうで、ヒィーッとさけびたいのを懸命にこらえながら名刺をうけとった。どうやら、どこかおおきな会社の社長さんらしい。そういえばコートの手触りがなめらかで、いかにも高級ブランドって感じがする。血まみれだけど。
「おじちゃん、社長さんなんてすごいね。えらいね」
 そう言うとおじちゃんは急に元気になり、自分がいかに社会ですばらしい業績や、記録を残してきたかを、いきいきと語りはじめた。友情や、うらぎりについても。
「いまはすべて引退して、たまに仲間たちと飲むんですよ。月に一度くらいね」
「すごいね。じゃあ、お家もきっと立派だね」
「家は三年ほどまえに建てましてね、娘夫婦と住んでいるんです。いやあ、たいしたことないですよ。もともと持っていた家のほうが、こう言ったらなんですけど、立派だった。でも、ひとりで住んでいてもね。妻は10年前に亡くなったので」
 すこし沈黙がながれた。ぼくは間を埋めるように咳払いをした。
「息子はいまアメリカでね。それなりに成功をおさめているみたいですよ。娘も立派に子どもを産んで、いやあ、しあわせですよ。じつにいい人生だった」
 じゃあなんで、おじちゃん血まみれになってるの、なんて、ぼくはぜったいに言えなかった。
「おじちゃん、おしまいみたいに言わないで。まだまだこれからだよ。お酒もいっぱい飲みたいでしょう」
「いやあ、もう84の老いぼれですから」
 思わずえっ! と声をあげてしまう。せいぜい還暦をちょっとすぎたぐらいかと思っていたのだ。
「おじちゃん、若いね」
「いやいや、だけど本当に、こんなことってはじめてですよ」

 坂道をくだり、ようやく家が見えてくると、カップルがそわそわしながらおじちゃんとぼくを待っていた。傍には、30代ぐらいの男の人が立っていて、ものすごい形相でこちらを睨みつけている。そして着くなり、「てめえなにやってんだよ! 人に迷惑かけて!」と怒鳴った。おじちゃんは、いじめられた虫みたいに背中をまるめた。
 男は怒鳴るだけ怒鳴ると、おじさんとぼくとカップルを置いて、さっさと家に引っ込んでしまった。あまりのことに、ぼくもカップルも呆然としてしまう。ちいさくなったまま、張り付いた顔でニヤニヤしているおじちゃんに、ぼくはかける言葉がなかった。
 すると今度は娘さんが出てきて、ぼくとカップルにひたすら謝りだした。切腹でもしてしまうんじゃないかというくらい謝っていた。しかしぼくはそれよりも、さっきの男がなんだったのか気になってしょうがなかった。この人の旦那さん? それとも、普段アメリカにいるという息子さんだろうか。
「ごめんなさい、お洋服も汚してしまって……クリーニング代をお支払いするので、ご連絡先をうかがってもいいでしょうか」
 見ると、一張羅がオペでもこなしたみたいに血だらけになっていた。どうしてよりによって、この服を着ていたんだろう。おじちゃんはしゃんと背筋を伸ばして、だれのほうも見ずにヘラヘラしている。背は娘さんのほうがおおきい。

 ひたすら謝る娘さんと別れ、カップルとも別れてしまうと、急に夜道に放りだされた。宇宙でひとりみたいな気がした。
 ぼんやり歩きながら、だんだんとおじちゃんのことで胸がいっぱいになる。会社を立派にしたこと、名刺をいまでも持ち歩いていること、かつてあった豪邸のこと。もうどこにもいない奥さんのこと。そして、怒鳴るだけ怒鳴って消えた男の人のこと。
 すべてが、血まみれになるまで酔っ払ったおじちゃんの今日をつくっているにちがいない。肩に置かれた手から伝わってきた、さみしさ、やりきれなさ、くやしさ。
 ぼくは思いきり泣きたいのに、変なアドレナリンみたいなものが出ていたせいか、脳と感情がうまく連動しなかった。あるいは泣いてやれるほど、おじちゃんのことがまだ好きではなかったのかもしれない。
 だけどおじちゃんの人生が、このまましぼんでいくのではないように、近所からそっと祈っているよ。それはうそではないよ。

○:月:○:日:○

 あのあと帰宅するのも大変だった。別れたばかりのカップルが、おおきな通りのまんなかでキスをしていて、とても追い越せる雰囲気ではなかったので遠回りをしたら、うっかり曲がる道を間違えてしまい、よりによってカップルの目の前に登場してしまったのだ。お互い気まずい。
 気が動転したせいか道に迷ってしまい、やっとアパートへ続く路地に出たと思ったら、またしてもそこにカップルがいた。しかも、さっきよりも情熱的なキスをねっとりしている。一刻も早く、血のついた服を脱ぎたいのに、お腹も空いてるのに。
 仕方なくさらに遠回りをして、異様にビクビクしながら家路についた。いったいなんだったんだろう。くだらない気分だった。おしっこがすごく出た。

(第22回につづく)

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少年アヤShonen Aya

1989年生まれ。エッセイスト。ブログ「尼のような子」が絶大な人気を得て、エッセイ集『尼のような子』(祥伝社)を刊行し話題に。著書に『少年アヤちゃん焦心日記』(河出書房新社)、『果てしのない世界め』(平凡社)。

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