双葉社web文芸マガジン[カラフル]

なまものを生きる(少年アヤ)

©少年アヤ

第15回

○:月:○:日:○

 あたらしい病院に紹介してもらった、ちょっと遠くの大学病院へ。いなり先生(あたらしい病院の担当医)がすでに話を通してくださっているし、「人柄も技術も保証します!」とおっしゃっていたので、めずらしくあまり緊張しないでいられた。けれど、もう夏のものではない薄色の晴天と、芯から冷えるようなどぎついグレーのビル群が、どことなく不安を煽る。
 病院に着くと、狭い駐輪場にすさまじい数の自転車が停められていた。ほんのすこし空いていたスペースにロンリーを慎重に押しこむと、あまりにもきれいにおさまり、幸先がいい気がしてくる。しかし次の瞬間、べつのところで自転車を引き出そうとしたおじいさんが、うっかり隣の自転車を倒してしまい、あっという間にロンリーも巻き添えになって、駐輪場は取り返しのつかないほどめちゃくちゃになった。自転車って、単体だと凛として誇らしげなのに、重なるとまるでだめ、意味なさすぎ、なにもできなさすぎ。無抵抗な、ごっちゃりした、純粋とも言いがたい無機物、ほんのり意味やぬくもりをまとった屍体。
 さっさと去っていくおじいさんの背中を見送りながら、ぼくはなぎ倒された十数台の自転車をたったひとりで起こしていった。経緯を知らない警備員のおばさんが、「自業自得でしょ」とでも言いたげな目でこちらを見ている。ロンリーのサドルはまだあたたかかった。この熱がお前を不純にさせているんだよ。

 ロビーで受付を済ませ、近代的なつくりのフロアをのぼっていくと、あまり待たされることなく診察室に通された。広い空間におおきな機械がごろごろあって、もしここにひとりで閉じ込められたら、なんでもできそうなのになんにもできないだろうなと思う。
 いなり先生から「とてもおだやかな先生ですよ」と聞いていたので、トトロかサンタクロースみたいな人を想像しながら待機していたら、やけにツンとした男の医師が向こうからやってきた。あの人なんかいやだな、と思っているうちに、男はぐんぐん目の前に迫り来て、あれれと思っているうちにぼくの向かいの椅子に座った。「席まちがえてますよ」と言いたいのをこらえていると、男は黙りこんだまま、いなり先生から渡されたと思しきディスクを観はじめた。モニターにはいなり先生の病院で撮ったいくつかのレントゲン写真と、先生直筆の手紙が表示されていた。
『まえのお医者さまとのコミュニケーションがうまく行かず、歯科医恐怖症に近い状態になっています。リラックス外来をご希望ですので、どうぞよろしくお願いいたします』
 先生ーーーっっっとさけんで泣きたくなる。この尻を冷やすばかりの、陰鬱な革の丸椅子を蹴飛ばして、すぐにいなり先生のいる病院に駆けていきたい。
 男の医師は、まぶしそうに親知らずのレントゲン写真をチェックしてから、なにか考え込むようなポーズをとって、「リラックスねーーうーん」と唸った。
 リラックス外来というのは、心地よいマッサージを受けながら、極楽気分で歯を抜いてもらったり、ヒーリングミュージックのなかで笑気ガスを吸い、桃源郷のまぼろしなどを見ているあいだに、気がつくと歯が抜けていました、というようなことが起こる、ぼくのような臆病者にうってつけの治療スタイルだ。
「えっと、だめなんですか」
「いや。だめっていうより、あなた痛いの苦手なんですよね。こわいんですよね。だったら、全身麻酔で一気に抜いたほうがいいと思いますよ。その場合入院していただくことになります」
「局所麻酔ではだめなんですか?」
「局所ね。いいですけど、おすすめしませんよ。あなたの親知らず、ちょっと普通の状態じゃないので、要は相当難しい手術になるので、やってるあいだに麻酔が切れてしまうってこともありうるんです。そしたらどうなるかわかるでしょ。痛いのがいいっていうなら、それでいいですけど、どうなんですか?」
「ひぃ」
 ぼくは引きつった顔でマンガみたいな反応をしながら、あれれ、あれれとパニックに陥っていた。話がちがうじゃないか。なんだかどんどん身体が圧迫されて、あらぬ形に歪められていく感じがする。
「わかりました。では、入院させてください」
 そうしぶしぶ言うと、重くたれこめるようだった空気がぱっと晴れ、男の医師は見違えるほどおだやかな笑顔を浮かべた。そんな顔できるんだ。入院することにしてよかった、とぼくも笑顔になる。
「手術は二ヶ月後で。もしほかの医師でもよろしければ、もうすこし早くできますけど。どうします?」
「いえ、ぜひ先生にやっていただきたいです」
 どうしてか、こころにもないことを言ってしまう。医師は一瞬だけ元の顔に戻り、鼻でフン、と笑った。
「では日程ですが、ここらへんはいかがですか?」
 医師が指定したのは、月のおわりから翌月のはじめにかけての三日間だった。モニターに表示されたカレンダーはスカスカなのに、どうしてこんなところをピンポイントで、とやや不思議に思いながら、予定もないので「はい」と答える。そうしてあっという間に、ぼくの入院は決まった。

 診察が終わると、指定された通りにロビーに向かい、入院の手引書をもらった。ほんとに入院するんだ、というショックと、たかだか親知らずかよ、というまぬけさに気が塞いでくる。
 それから病棟に足を伸ばし、入院する予定のフロアを見学してみた。良い意味で洗練された、あまり病院っぽくない雰囲気でちょっとウキウキしてしまう。推しの看護師さんとかできたりして。病院食も素敵だったりして。
 ところが晴れ晴れした気持ちで病棟を出て、帰宅しようと自転車にまたがった途端に、なにかがおかしい、という感覚に襲われ、頭が重くなった。あれれ、なんだろうこれ、と首をかしげていたら、どんどん平衡感覚がうしなわれ、よくわからない路地にはまってしまい、ちっともアパートに帰れなかった。

○:月:○:日:○

 実家に帰ると連絡をしたら、休日に暇を持て余していた父と妹がふたりで迎えにきてくれた。まだ3歳に満たないシュナウザーのクーパーは、はじめてぼくの住む街にやってきて、あちこちおしっこして回るのに忙しそうだった。
 ホームセンターの駐車場に車を停めたらしく、クーパーは妹のスカーフでぐるぐる巻きにされ、さも赤ちゃんみたく父の腕に抱えられながら、にぎわう店内をこそこそ運ばれていった。
「じいじ、かわいい孫ができてよかったねえ」
「おう、じいじはうれしいぞー」
 こんなこと真面目にやってる。
 クーパーは長い鼻をスカーフから出して、注意深くまわりの匂いを集めていた。そっと頭に触れてやると、「犬みたいな触り方しないで」と妹に怒られる。
 車酔いしながら実家に着くと、心配性のおじいちゃんが玄関で待ち構えていた。
「おい、おい、おまえ、ゆうくん、親知らずどうなった!」
 まだ靴も脱がないうちに、真っ赤な顔で歯のことをあれこれ聞いてくる。ぼくはわざとのろのろ質問に答えた。おじいちゃんは明らかに苛立っていた。
「おや、おやしらず、つまりだから、入院して抜くんだな。それで入院はいつなんだ。えっ、おやしらずをほら、入院してホラ、抜くんだろう」
 沸騰して破裂しそうになっているおじいちゃんの頭を冷ますように、おばあちゃんは穏やかな笑顔で「入院はいつからなの?」とたずねてきた。クーパーはその足元で、おばあちゃんの剥いていたりんごに夢中になっている。
「再来月のおわりから、翌月のはじまりだってさ」
「あら。月またぎじゃない」
「なにそれ?」
 えーっ信じられない、と妹がさけんだ。その場で調べてみると、なんだかよくわからないけれど、月をまたいでしまうと、余計にお金を取られるという情報が山のように出てきた。くわしく知るのがこわくて、薄目のままぼおっと情報の輪郭だけをながめていたら、かえって恐怖がふくらんでいく。でも直視はできない。するわけにいかない。
 そういえば入院を決めた瞬間、医師の態度が妙に柔和になって、流れるように、というか押し流すようにサクサク日程を決めて、とっとと診察を終わらせたのを思い出した。そういうことだったのか。
 おじいちゃんは心配がピークに達したのか、ショートしたように表情を失い、スーッとどこかへ消えてしまった。妹はあきれながら、「お兄ちゃんってだめだねー」なんて言って、りんごを食べ終えたクーパーとじゃれている。
 そのうちに、仕事に出ていた母が帰ってきた。
「遅くなってごめんなさい」
 母は汗だくのまま、慌てて家族6人分の料理をつくりはじめる。そんな母を、まさかだれも責めたりはしないけれど、気をつかおうともしていない。父はぼんやりインターネットをしている。
 こういう状況に、ぼくはこの家で暮らしてるあいだじゅう、ずっと傷ついてきた。自分の人生をそっちのけにして、このかわいそうな、まるまる太った背中しか見えなくなるくらいに。
 妹とふたりでサラダ作りを手伝いながら、ぼくは改めて歯のことを母に話した。月またぎについては、「そんなことも知らないの」と呆れ顔だった。
「あんた、自分を守れないってことはね、人も守れないってことなんだよ」
 ぐさっとくる。でもお医者さんに、なにがなんでも入院させたいという欲があるなんてしらなかったんだもん。
「それでお金はどうするの。あんた、入院できるだけの金があるの」
 家族のだれも聞いてこなかったことを、母は唯一聞いてきた。ぼくは母の背後にまわり、形だけの土下座をした。クーパーが、そんなぼくの耳のあたりをめちゃくちゃに嗅いでくる。
「お母様、今日はその件についてお願いしたいことがあり、こうしてはるばるやってきました」
「げー、ふざけんなよ。あんたなんかにびた一文も貸すもんか」
「そこをなんとか」
 情けないことなんてぜんぜん気にしてないみたいなフリをしていたけれど、内心恥ずかしさと悔しさでいっぱいだった。母だけには頼りたくなかった。なにもかも知るもんか、そのかわり絶対に頼るもんかって、家を飛び出したのに。
「それで、いくらいるの」
「まだわからない。たぶん10万をはみ出します」
「あんた、いますぐ帰れよ」
 そう言いながら、母はまんざらでもなさそうな顔で、ぼくの分の天ぷらを揚げていた。妹はすこしさみしそうに、黙々とサラダを作りながら、母とぼくのやりとりを聞いていた。

○:月:○:日:○

 神保町のあたりをサイクリングしていたら、とつぜん「アヤちゃん!」と声をかけられ、振り向いたらしのびさんがいた。
「近所みたいな顔で走ってるからびっくりしたよ」
 たしかに毛玉だらけのトレーナーを着て、寝ぐせもそのままだった。ちなみに神保町は、アパートからだいたい1時間かかる。
  しのびさんは、ぼくがまだ社会にいたころお世話になった編集者さんだ。いつも話を聞いてくれて、親身になって叱ったりもしてくれる。もちろんはじめからそうだったわけではない。最初のころはむしろ、あまりにもだめだめなぼくの様子を、どこかしらけながら見ていた印象がある。
 せっかくなので喫茶店に入り、コーヒーフロートをご馳走になりながら、会っていなかった1年ほどのあいだの話をした。平日昼間の喫茶店は、漫画家さんと編集者さんと思しき二人組や、スーツ姿で打ち合わせをする人たちで賑わっていて、自分だけ異次元から配置されたような気がしてくる。首をすくめ、こんなのはじめて、みたいな顔をしてバニラアイスをつつく。
 しのびさんに会うのは、去年共通の知り合いだった友人が突然いなくなってしまって以来だった。当然その話にもなったけれど、お互いにまだ、彼女とはもう二度と会えない、地球のどこにも存在しないということの重みを捉えきれていなくて、そそくさとべつの話題に移った。主にここんところのびんぼう話だ。
 しのびさんはずっこけたり、笑ったり、それはそうじゃないんじゃないの、とたしなめたりしながら、ぼくのびんぼう話を聞いてくれた。歯医者の話では、自分を守らなきゃだめだよ、とも。一瞬、月またぎのことが頭をよぎる。でも黙っておいた。
 そして話をしながら、いなり先生の病院で感じたなつかしさ、心地よさを、また感じている自分に気がついた。
 もしかしたら、このなつかしさって社会かもしれない。
 着ぐるみを纏って、社会でボロボロになっていたころだって、そういえば人のやさしさに、いつも助けられていたのだった。ひとりで戦って、ひとりで傷ついていたなんてことは、絶対になかった。
 なのに、なぜかいまのいままで、そういうふうに思いたがっていた。いじけていたいという、びんぼうでいたいという、気持ちひとつのために。
 それにしてもアイス、コーヒーの海で回るばかりで、ぜんぜんすくい取れない。

(第16回につづく)

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少年アヤShonen Aya

1989年生まれ。エッセイスト。ブログ「尼のような子」が絶大な人気を得て、エッセイ集『尼のような子』(祥伝社)を刊行し話題に。著書に『少年アヤちゃん焦心日記』(河出書房新社)、『果てしのない世界め』(平凡社)。

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