双葉社web文芸マガジン[カラフル]

なまものを生きる(少年アヤ)

©少年アヤ

第13回

○:月:○:日:○

 怒り狂ったぼくは、どうにかしてあの歯科医に、なにか仕返しができないかと考えていた。仕返しといっても、ぼくにしたひどいこと、に見合うだけのひどいこと、が、小太りの肉体にふりかかってほしいだけだ。たとえば神さまのリモコンがあったとして、押したら彼が骨折するような機能があったとしても、ぼくはそれを押さないし、だれにも押さないでほしい。ただ、ちょっとひどい目にはあってほしい。下痢とか、ねんざとか。
  とりあえず歯科医のフルネームを調べようとホームページを覗いたら、あっさり情報に行き着いてしまい、勢いのままそのままフェイスブックと、匿名でやっていたツイッターのアカウントを割り出し、出身地、出身校、および交友関係、趣味などをすべて調べあげてしまった。ヒーッヒッッヒと、血で処女を煮る魔王のような笑みを浮かべながら。
 それにしても、顔そのものはおだやかで老人受けしそうな印象なのに、長年の所業と、そのたびにつくってきたであろう表情が、やなやつとしかいいようのない、歪んだ人相をつくりあげている。 そう思いながら、ちょっと指の骨折くらいのことを望みはじめている自分に気がついて、慌ててブラウザを閉じた。
 いろいろ考えて、とりあえず友人から教えてもらったレビューサイトに、ありのままを書き記した文章を投稿することにした。しかし、「やってやるぜ」なんて息巻いてみせながら、内心あまり自信がなかった。
 着ぐるみを脱いで、自分をリセットしてから、ぼくはものを書く人間として、自分がどういうふうにものを考え、言葉を発し、人に見てもらいたいのかが、まったくわからなくなってしまっていた。自分をリセットし、つくりなおすというのは、そういうことだったのだ。着ぐるみにたいする甘えが、それだけ深かったということでもあるだろう。
 文章を書きはじめても、ちっともまとまらないし、なにが言いたいかもわからない。思考の断片の寄せ集めのようなものが、テキストボックスにこんもり出来上がるだけ。せっかく仕事をいただいても、たった1200字程度のコラムに、一週間以上もかかってしまう。
 前向きな気持ちはどんどん削がれていき、気がつくと文章を書くってことが、とてもこわくなっていた。
 投稿するための文章を書いているあいだにも、迷いがちらつき、手を止めてしまいそうになる。そしてほらね、やっぱりできなかったじゃん、という結論に、自分はだめだという結論に、すがりたくなる。
 しかし、今日はそれ以上に怒っていた。キーボードを叩く指が発火するかと思うくらい。
 二時間くらい経っただろうか。ぼくはテキストボックスいっぱいに、みっちりと文章を書き上げていた。
 読むだけでやけどをしそうな熱量の文章が、煌々と照りつけるマックのモニターに、蟻の行列みたくならんでいる。思わず立ち上がり、めまいを起こして腰を抜かし、また椅子に座る。
 か、書けちゃった。
 すべての宿便を出しきったような爽快さが全身をつつんでいた。こんなにも、書きたいことをただ書いてみたという経験は、生まれてはじめてかもしれない。いままでうじうじしていたのはなんだったんだろうという気持ちになりながら、そうしたびんぼうの日々の休息が、けっして無駄にならず、みずみずしい筋肉となって自分のなかにたくわえられていたのを感じていた。あとは、筋肉を動かすためのエネルギーだったのだ。この場合、それは怒りだったのだ。

○:月:○:日:○

 書き上げてしまったら、投稿する気持ちが失せてしまい、しばらくテキストを持て余している。気持ちとしては完全にすっきりしてしまっているけれど、でもおなじような被害に、おなじような小心者の患者が、とくに子供が遭うのだとしたら、だまっているわけにはいかない。
 とりあえず友人たちに話しまくっていると、いずよがものすごく心配してくれた。ほかの友人たちも心配はしてくれていたけれど、説明が下手すぎるせいかあまり伝わっていない感じだった。
 待ち合わせ場所に、いずよは例のみどり色のトートバッグを持って現れた。しかしよく見たら、いつもより色味が明るくなっている。まえは上品な深めのみどり色だったのに、いまは安い枝豆って感じだ。
「よく気づいたね。ボロくなってきたから、ハンズで革につかえるスプレーを買ったんだ……そしたらやたら明るい色になってしまってよう」
 いずよは、暗い顔で視線を落とした。
「スプレーなんて使っても、すぐにはげちゃうよって、妹にも言われてたんだ。でも悔しくって、ほとんど意地でやってしまった。でも、結局妹の言うことがただしかったな。こないだ塗ったばっかなのに、もうポロポロはげちゃってるの。諦めて、あたらしいバッグを使うよ」
「そっか」
 そこまでして使ってもらえるなんて、みどりのバッグは充分にしあわせだったと思うし、あたらしいバッグも、きっとすばらしい一生をまっとうできるって、押入れのなかでワクワクしてると思うよ。
 
 ほんとはいつもの洋食屋に入る予定だったけれど、今日はなんだか冒険をしたくなり、ぼくの提案でベトナム料理屋に入ってみた。店に着くと、入れ違いに出てきたカップルがなんともいえない渋い顔をしていたけれど、あまり気にしないで中に入った。いずよはあきらかに異変をキャッチして、どこか警戒している様子だった。
 そのベトナム料理屋は、さびれた郊外の遊園地のプールみたいに、つくりものの草が天井じゅうに張り巡らされていた。壁には、雰囲気で描いてみたけれど、とくに気に入っているわけでもなさそうな、おそらくベトナムの風景が、よりによって一面に描かれている。しょうもないんだけど、でもいい人たちが、一生懸命いい空間にしようとして作ったって感じがする。
 店員さんは、若くてかわいいベトナム人の男の子ふたりだった。ベトナムからはるばるやってきて、たったふたりだけでお店を切り盛りしているらしい。そうか、この子たちが……と思うと、つくりものの草にも、ぱっとしない壁画にも泣けてくる。がんばったんだね、と言いたくなる。
 いずよもぼくもあまりお腹が空いていなかったので、おつまみとして生春巻きと、揚げ物やなにかの盛り合わせをたのんだ。盛り合わせについては、「これ、日本人あまり好きじゃないです……」とかなしそうに言われたので、「好きだよ」と言ってあげたい一心でたのんだ。そんなにまずいってこともないだろうと思ったのだ。
 とりあえずビールで乾杯しながら、まず歯医者のことを話した。いずよは適当に聞くってことをしないから、わからないところがあると納得がいくまで細かく質問してくる。ぼくは思いついたことをどんどん口にしてしまうタイプなので、いずよとの会話は静と動が相殺しあって無、という感じになりがちだ。
 そのうちに生春巻きが出てきた。よしよし、ビールがキンキンなうちにきてくれてよかった、と言い合いながら、チリソースに思いきり浸して頬張る。
 とても違和感のある味だった。まずいわけではないんだけど、うまくもなくて、ふつうだね、とも言えない感じ。いま思うと、料理屋じゃなくて、あまり大手ではないスーパーの惣菜って感じの味だった。野菜が乾いていて、うまみが完全に漂白されている。なのに、なぜか「へーおいしいね」とか言ってしまっていた。いずよはもぐもぐと咀嚼をしながら、力なく「そうだね……」とつぶやいていた。
 しばらくすると、つまみの盛り合わせがでてきた。とんでもないおおきさの丸皿に、ソーメンを束にしたようなものと、揚げ春巻きのようなものと、茹でた豚肉がならんでいる。盛り付けもとてもきれいで、すごくおいしそうだ。
 ところが、薬味皿にたっぷり盛られたソースをつけてたべるのだけれど、そのソースがまずい。カニが腐った感じで、まず苦味がきて、そのあと臭みがきて、最後にとうとう旨味がくるかと思いきや、なにもこない。にがい、くさい、終わり。あんまりだ。
 これには驚いたけれど、店員の男の子もチラチラこっちを見ているし、またしてもやせ我慢で「あーおいしい」とか言ってしまう。いずよはもはやなにも言わず、ソーメンの束みたいなものを箸でつついたり持ち上げたりして、さもたべているような仕草だけしつづけている。
 しばらくして、気持ちよりも先に、身体がカニのソースを受け付けなくなった。食べようとしても、手がどうしても動かないのだ。もう、箸の先にちょん、とつけた程度でも口に入れたくない。
 とうとうあきらめて「……まずいね、これ」と言うと、いずよは待ってましたとばかりに「うん、うん」とうなずいた。いずよは、ずっとぼくに気を使っていたのだ。申し訳なくて胃がきゅうっとなる。
 結局三分の一ほど残してしまい、店員の男の子にかなしそうな顔をされながら店を出た。とても胸が痛かったけれど、しばらくしたら、やっとあのカニのやつのまずさについて、ふたりで笑いあうことができた。

 それからカラオケに行った。ぼくは久々にピンク・レディーを歌い踊った。大抵のことに自信がなく、自尊心もポンコツなぼくだけれど、ピンク・レディーを歌い踊れるという件については、ちょっとそこらへんの人には負けないつもりでいる。
 ピンク・レディーの振り付けは、随所に難解なステップが組み込まれていたりして、とくに「ペッパー警部」はすごく大変なのだけれど、振り付けそのものを真似るだけだったらきっと簡単だ。けれど、かっこよく見せるのがむずかしい。踊りというより、じつはポーズの連続で、手足のながいミーちゃんケイちゃんでなくてはきまらないようにできているのだ。そして疲れたからといって省略したり、かっこつけようと思うと、振り付けがしぬ。おまけに歌は、キーがやたらと低く、テンポものっそりしている。休めるパートはほぼない。
 ずんぐりしているうえ、声量のないぼくがやっても、当然かっこよくはならない。けれど、やっぱりそこらへんの人には負けないと言わせていただく。
 いずよはレディーガガをノリノリで歌い踊っていた。しかし、ポーカーフェイスの「ポポポ」をできるだけ正確に歌おうとして、モニターの歌詞を必死で追いかけた結果、ややフライング気味に表示されるせいか、ポが異様に多くなってしまっていた。それにしても、2008年の映像って、いつのまにこんな古臭くなっちゃったんだ。
 途中おしっこがしたくなり、ついでにドリンクを取って戻ると、いずよはレディーガガから一転、レディオヘッドのクリープを歌いながら号泣していた。ぐるぐる回転するミラーボールの下で、鼻をぐずぐずしながら、声を震わせて歌ういずよ。
「これはねえ、自己否定のうたなんだよ……わたしにはわかるんだ……」
 そのつぎにピンポンパン体操を入れていたぼくは、どういう相槌を打ったらいいかわからなかった。

○:月:○:日:○

 カラオケの帰り道、ベトナム料理屋でのことを思い返していていたら、しみじみかなしくなってきた。またしても、きちんと働いていたセンサーを無視して、脅威に順応してしまったなあと思ったのだ。
 本当だったら、店の前でカップルとすれ違った時点で、ここはおかしい、やめようと言うべきだった。生春巻きをたべた時点で、もしキャンセルできるようなら、するべきだった。お店の男の子のためなんて言って、ほんとは脅威と、最悪のシナリオと向き合うことがこわかっただけだ。自分ひとりならまだしも、今回はいずよを、大切な友だちを巻き込んでしまった。
 回想をしているうち、またねむれない感じになってきたけれど、考えれば考えるほどカニのソースの味が思い出されるようになっていて、途中でやめざるをえなかった。吐きそうになり、床に転がっていたプリキュアの飴をまとめて三粒ほど頬張った。もういい。この件はおわり。今度から気をつければいい。おやすみなさい。くさい。

○:月:○:日:○

 まだテキストをどうするか結論を出せないまま、夕暮れの商店街にアイスを買いに出かけたら、スーパーの階段からあの歯科医が降りてくるのが見えた。あっ!と思うと同時に、あまりおどろいていない自分もいた。なぜなら、診察台で、白衣の奴を見上げていたときと随分印象がちがっていて、拍子抜けするほど子どもっぽく見えたからだ。
 やつはぼくに気がつくと、気がつく前よりちょっとだけ表情を硬くさせて、そのまま会釈もせず去っていった。その様子に、なぜか「勝てる」と感じたぼくは、こっそりうしろを着いていくことにした。べつに撲殺とかしようと思ったわけじゃない。
 奴の背中はまるく、どことなくくたびれている気配があった。左手にはちいさな買い物袋がぶらさがっていて、お箸がアンテナみたいに飛び出している。なに買ったんだろう。なにを思って買ったんだろう。
 あ。ため息ついた。
 白い買い物袋に、だれにも触れられない奴の生活があった。ぎゅっと握りしめる手が、かにぱんみたいにちいさくて、なにかとぎれそうなものを、必死でつないでいるように見える。
 ぼくは足を止め、シュワシュワと炭酸が抜けていくみたいな気持ちを味わいながら、駅へと消えていく奴の背中を見送った。べつに、許したわけではけっしてない。文章についても、きちんと投稿するつもりでいるし。
 それからいつもより遠回りをして、夕日のきれいな陸橋に寄った。そのあとアイスを買い忘れたことを思い出して、また商店街に戻った。そしたら財布を忘れた。

(第14回につづく)

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少年アヤShonen Aya

1989年生まれ。エッセイスト。ブログ「尼のような子」が絶大な人気を得て、エッセイ集『尼のような子』(祥伝社)を刊行し話題に。著書に『少年アヤちゃん焦心日記』(河出書房新社)、『果てしのない世界め』(平凡社)。

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