双葉社web文芸マガジン[カラフル]

なまものを生きる / 少年アヤ・著

©少年アヤ

第11回

○:月:○:日:○

 虫歯の治療なんて、親知らずの手術にくらべればなんでもないさ、というつもりでいたけれど、よく考えたらすごくこわい。まずだれに聞いても「そんなに痛くないよ」と言うのがこわい。だったらなんで、こんなにもこわいイメージばかり広まっているのか。あと「そんなに」ってなんだ。
 つぎに、治療代はいくらするのか。そして、保険証はどこへ行ってしまったのか。ないとどうなるのか。いっそこっちのほうがこわい。
 真夜中、不安で仕方がなくなり、自転車で荒川の河川敷を走っていたら、警察に職務質問をされた。どこが怪しかったですか、と聞いたら、「目がうつろ」。

○:月:○:日:○

 いよいよ明日だ。
 気合いを入れるため、奮発してマクドナルドでフィレオフィッシュのセットをたべた。がぶ、と噛み付いたバンズが、赤ちゃんみたいにあたたかくて、やわらかくて、そのままズブブ、、と埋もれていきたくなる。
 コーヒーを飲みながら、母に歯のことを報告したら、「呪われてるとしか思えないな」

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 夕方から歯医者へ。せっかく早めに出たというのに、ビルの前に着いたときにはなぜか予約の二分前になっていた。そのうえ駐車場で腰が抜けてしまい、へたり込んだまま動けなくなってしまった。
 さも座りたくて座ってます、みたいな顔をして、道行く人々とすばらしい夏の夕焼けを交互に見上げながら、ぼくは自分が情けなくて仕方がなかった。
 いままでも、緊張やおくびょうで身体をこわしたことはあったけれど、腰が抜けたことなんてなかった。しかもたかが虫歯で。
 それなりにいろいろあった人生のあれこれがすべて消えて、とてつもなく真っ平らな紙のうえで、ただ虫歯と向き合っているみたいな気分だった。
 しかし結局今日は治療はせず、クリーニングだけして終わった。ほっとしつつ、ちょっとがっかりする。
「もう結構汚れているんですけど、歯磨きちゃんとしてます?」
 歯磨き自体はちゃんとしているけれど、そういえば歯ブラシの毛先が股裂きにでも遭ったみたいに開ききっている。
「ちゃんと買い換えてますか?」
「二ヶ月くらい……」
「それはダメ。それはケチ」
 ほんとは三ヶ月くらい使っている。
 歯医者になれていないせいか、とくにつらいというわけでもないのに、ずっと口を開けていられない。
「いたいいたい、噛んでますよ。私の指」
 気が付くと口を閉じて、突っ込まれたお姉さんの指を噛んでいた。たしかにカルパスみたいな親指の感触を、あたまの片隅では感じていたのに、なぜか開けてることになっていた。こういうのって日常でもある。歯ブラシの件もまさにそうだ。ボサボサだなあとわかっているのに、ぼんやり使いつづけてしまうのだ。自分の調律がうまくいっていない感じ。
 前回より短めのクリーニングが終わると、お姉さんは器具を片付けながら、「私、今月でここの病院やめるんです」と言った。
 ぼくはこういう、ちいさな永遠の別れがきらいだ。泣いたり、友達になったり、引き止めるほどでもない、なにもできない、する必要のない、軽くてささやかなんだけど、たしかに永遠というもののつめたさ、途方もなさを含んでいる別れ。
「すごくたのしかったです」
 そう伝えると、お姉さんは「私も、掃除しがいがありました」と笑ってくれた。27年も溜め込んでおいてよかった。

○:月:○:日:○

 今日から本格的に虫歯の治療がはじまる。穴の開いてしまった歯からさっそく手をつけていくらしい。
 担当医ははじめて対面した、わりと若めの男で、本人の醸しだそうとしている雰囲気を汲むとすれば、秀才のドSメガネって感じ。ただし肥満気味の。
 こういうちぐはぐな人に遭遇すると、「立ててやらねば」とか思ってしまう。純粋にいじめっ子っぽいからというのもあるけれど、せっかく作ったであろうキャラが崩壊したり、ほつれたりする瞬間を見るのがいたたまれないからだ。
 へこへこしながら「虫歯治療ってはじめてで、ちょっとこわいです」と言うと、男はつめたい目でぼくを見ながら、「でも、自分のせいですよね?」と言った。
「え?」
「こんなになるまで放っておいた、自分のせいですよね?」
 見上げた男の顔が、嗜虐心でゆがんでいた。
 いやな予感がする。
 治療はすさまじかった。麻酔の注射を何本も打たれ、よくわからない器具で穴をえぐられ、なにか決定的に痛いということはないのだけれど、「あとちょっと痛くなりそう」な瀬戸際を、延々刺激されている感じ。無理だったら手をあげてください、と言われていたので手をあげたら、当然のように無視され、すがるように顔を見上げたら「なんか、めっちゃ舌太いっすね」と笑われた。ぼくはへえ、だからよくベロを噛むのか、なんて納得しながら、口を開けたまま、だらだら涙を流して「あーーー」「あーーー」。
 治療が終わると、背中が汗だくになっていた。顔半分がじんじん痛んで、ようやく熱がおさまってきた朝みたいな、あまり現実感のない感じ。
 病院を出ても、気分がすっきりしなかった。ドSメガネが、もしかしたらすごく酷いやつだった気もするけれど、虫歯の治療というものを経験したことがないので、どういう感想を抱いたらいいかわからない。ほんとに自分がわるいのかも。
 夜になると、治療した歯が、シクシク泣いているみたいな痛みを発しだした。ぜったいになにか起きているんだけど、触れてはいけない感じ。こわくて、鏡で歯をたしかめてみることもできなかった。すぐに寝た。

○:月:○:日:○

 今日は、つい二年ほどまえまで世界いちかわいい、世界いちさいこう、世界いちいい男ちゅちゅちゅ、と思っていた男の人とランチした。
「なにか食べたいものあるかい」
「なんでもいいよう」
 目がハートになっちゃう。
 けれど内心、「もしステーキにしよう、なんて言われたらどうしよう」とハラハラしていた。そうなったら、しなない程度にブンなぐって逃走し、今日という日そのものがまぼろしであったと錯覚してもらうしかない。なかば本気でそう思ってしまうほど、昨日治療した歯に深刻な痛みを感じるようになっていた。
 地下にあった薄暗いパスタ屋に入ると、彼はじっくりメニューをながめて、たらこのパスタを選んでいた。きゃーたらこだって。かーわいい。
 ぼくもたらこの気分だったけれど、つぶが歯のなかに入り込んだら大変なことになる気がして、うにのパスタにした。高い。
「痛み止めはもらってないのかい?」
 時々つよい痛みに襲われ、泡を吹きそうになっているぼくに、彼が心配そうに言った。
「もらってないよう」
 目がハートになっちゃう。
「おかしいなあ。ふつう、痛み止めと抗生物質をセットでもらうんだけどなあ」
 歯の話はそこそこにして、ここしばらくの彼の話を聞いた。話しているあいだもずっとかわいかった。だけど、「そろそろ子どもをつくろうと思うんだ」という一言には、胸がぎゅっとなる。どうしてもなる。
 そのうちパスタがやってきた。結構な量だった。
  噛まなければいい。ただ飲み込めばいい。そう自分に言い聞かせ、ごく少量フォークに巻きつけては、つぎつぎ飲み込んでいった。習慣でつい噛んでしまうと、たちまちつよい痛みが走る。電撃としかいいようのない痛みだ。
 平静を装いながら、必死になってトッピングのうにを飲み込んでいるうち、だんだんなめくじをそのまま飲んでいるみたいな気分になってきた。油断したら這い上がってきそうで気持ち悪い。押し流すように水をガブ飲みする。染みて痛い。
 目の前では、かわいさ元世界王者の彼が、おいしそうにたらこのパスタをたべている。パインのジュースまで飲んでいる。ころろ。ぽて。もに。彼の音。

○:月:○:日:○

 彼と別れたあと、痛みはどんどん強さを増し、固形物はおろか、水分すらも採れなくなった。うにの呪いかもしんない。
 ぼくはゆるんだゴムのようにだらしなく口を開けながら、一晩じゅうただベッドにもたれていた。もしいま、脅されたりしてハイチュウをたべろとか言われたら、いっそ殺してくれって答えると思う。

 関係ないけれど、ぼくはスケートシューズが苦手だ。尖ってて、ひかってて、いかにも怪我をしそうだから。
 よってフィギュアスケートも、あまりずっとは見ていられない。するどい刃が、すべすべした氷上をサーッと勢いよくすべっていくのがこわくてたまらないのだ。
 たぶん、本来ギギーッとかガリガリとか、はげしい音がしているはずなのに、優雅なBGMにかき消されて、ほとんどなにも聞こえてこないせいかもしれない。そして聞こえてこないという違和感から、ほんとはすごいんでしょ、どうなの、と氷に感情移入してしまって、結果見ているだけでも「あーーいたい」とさけびだしそうになる。氷にほとんどダメージがないのも、現象としておかしいと思ってしまうし、想像で現実を埋めたくなる一因だ。

 なぜその話をしたかというと、いままさに、スケートシューズでひっかいたような痛みが、ぼくの歯にやってきているからだ。真央ちゃんが、やめてって言ってるのにやめてくれないって感じ。痛い痛い痛い、なのにスピンスピンスピンって感じ。正直ぼく、真央ちゃんもこわくて見てられない。
 とりあえず今後、ぼくがますますスケートシューズを嫌悪することはまちがいないだろう。
 ネットでしらべると、頭痛薬として使っている薬が、じゅうぶん鎮痛剤として機能すると出てきて、たしか数粒残っていたはず、と棚とひっくり返して探し出し、飲んでみたけれど、まったく効果がない。
 シャワーであたためればいいというのを見て、修行僧のように数十分間お湯を浴びていたけれど、全身がふやけただけだった。水を口に含むというのもやってみたけれど、また真央ちゃんがスピンスピンスピン。

○:月:○:日:○

 一睡もできず痛みに耐え、朝9時になると同時に歯医者に駆け込んだら、売れなかった世界線のキロロみたいなけだるい受付のお姉さんに、「はあ……痛み。ですかあ?」と、まるでクレーマーかのような対応をされてしまった。口をろくに開けないまま必死で説明し、やっと診察室に通してもらう。
 例の男の医者は、相変わらずドSメガネみたいな態度で「あー。やっぱそうなりましたか」と言い、やっぱ??やっぱって??と混乱するぼくをよそに「じゃあ、神経を抜きましょう」と言った。
「し、しんけいをぬくって、いたいですか」
 顔面蒼白のぼくに、男は例の嗜虐的な笑みを浮かべながら「めちゃくちゃ痛いですよ。僕も絶対、神経だけは抜きたくないですから」と吐き捨てた。
「でも、前も言いましたけど、自分で放置してきたせいですからね」
「そうですよね。へへへ」
 なななんでこんな卑屈にならなきゃいけないんだろうと思いながら、でも痛いとこ預けるんだもん。自分でも見えないようなとこいじってもらうんだもん。すべて預けるしかない。機嫌をそこねたら殺されるかもしれない。
「もしそんなに痛いのがいやだったら、僕の出身大の病院に紹介状を書きますんで、そこで強い麻酔使って抜いてもらいます? その場合、紹介料が3000円かかりますけど」
「お願いします」
 即決だった。
「じゃあとりあえず、今日は僕が半分だけ抜くんで。めちゃくちゃ痛いけど、がんばってくださいね」
 そう言うと、男はふう、とかったるそうにため息をついて、早速治療をはじめた。ぼくはごめんなさい、とか思ってしまってくるしい。
 治療は、歯と神経をめちゃくちゃにこわされるような痛みだった。真央ちゃんのスピンどころではない。もっと無邪気で、暴力的な痛みだった。子どもがなにもしらないで凶器を振り回しているみたいな。あるいはハイパー真央。
 とにかく痛い。数年前に、肛門に血豆ができて、無理やり鉄の器具を突っ込まれたときも相当痛かったけど、あれの百倍は痛い。
「ああもう、舌邪魔だなあ」
「おめんあさ……」「しゃべんないで」
 なにが起きているかはわからないけれど、口の中から轟音が響き、骨を伝って頭の全体が震えていた。
 すると痛みが臨界点に達した瞬間、ぼくの意識は遠のいて、またべつの視点から痛みを感じるようになった。

 いま痛みを発しているのは、たったひとつの歯だ。全体でいったら、ごくちいさい、コンマみたいな一点だ。
 だけどいま、コンマひとつの痛みのために、身体じゅうが一緒になって軋んでいる。背中はこわばり、脳みそは混乱し、爪の食い込んだ手のひらは悲鳴をあげている。地区としてはもっとも遠い足の指もまるまっている。すべてがそっぽを向いていなかった。すべてがコンマとつながっていた。
 ぼくはそのことに、しずかな感動を覚えていた。
 社会もそうなんじゃないか。たったひとりの痛みが、全体から完全に切り離されて、孤独な惑星のようにただそこにある、ということはありえない。結局すべてつながっていて、だれかひとりだけが痛いということも、ひとりだけがおかしくなったということもないのだ。逆に言えば、たったひとりのために、みんなで痛みを共有してあげるってことが、ほんとはもっとできるんじゃないか。そしたらきっと世界って……。
 地球もそうなんじゃないか。どこかの木が倒れたら、どこかの星がこわれたら、目には見えない力で、ぜんぶに痛みが、あるいはぜんぜん遠いどこかに、そのかなしみが伝わっているんじゃないか。たとえそのことに気がついていなくても、ほんとのところでは、わかっているんじゃないのか。だったらよろこびも、うつくしさも、宇宙も、銀河も。
「はい、終わりましたよ」
 医者の声とともに、銀河の果てにまで拡大していたこころがピタッと身体におさまった。すごくフィットする肌着を着たような感じだった。心地いい虚脱感が全身を覆っている。Tシャツは余すところなく汗に濡れていて、うすみどりが、ぼくの好きな深いみどりに変色していた。
 術後は、じんじんとリズムを持った痛みが数分おさまらず、受付で会計をしながら、次回はいつにしますか、なんて言われてもなにも答えられなかった。力なくへら、と微笑むと、例のキロロに「大丈夫ですかぁ?」と、怪訝な顔をされてしまう。
 またしても手ぶらで帰されそうになったので、「あの、なにかお薬はいただけないんですか」とたずねてみると、信じられない、とでも言いたげな顔をされ、「えー……、ちょっと待っててくださいね」
  ドアの隙間から見えた医師は、「なんか痛み止めほしいらしいんですけど」というキロロの言葉にやや声を荒らげ、「ちょっと待っててもらって」。え、ぼくそんなにおかしいこと言ったかな、と弱気になる。
 結局、はげしい痛みのなか15分ほど待たされ、やっと処方箋をもらえた。
 ちなみに痛み止めだけで、抗生物質はもらえなかった。もちろん、言えばよかったんだろうけど、そういう問題なのかな。なんか、どういうことなんだろう。
 ぼくはしずかに混乱しつづけていた。

(第12回につづく)

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少年アヤShonen Aya

1989年生まれ。エッセイスト。ブログ「尼のような子」が絶大な人気を得て、エッセイ集『尼のような子』(祥伝社)を刊行し話題に。著書に『少年アヤちゃん焦心日記』(河出書房新社)、『果てしのない世界め』(平凡社)。

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