双葉社web文芸マガジン[カラフル]

惨殺―川崎中一殺害事件の深層― / 石井光太・著

第三章 逮捕

遺体発見
 多摩川の水音が響く岸辺で、遼太の遺体が発見されたのは、殺害から三、四時間後の午前六時すぎのことだった。
 その朝、まだ薄暗い土手の草地を、七十歳になる一人の女性がカメラを持ってやってきた。写真が趣味で、この日も川辺の朝焼けを撮影しようとしていたのである。夜が完全に明ける前の川辺の風は、縮み上がるほど寒かった。
 彼女が土手から見下ろしたところ、護岸斜面の近くの草地に、人形のようなものが横たわっていた。何だろうと思って近づくと、全裸の男の子が体をくの字に曲げて倒れているのが見えた。首のあたりには、鋭利な刃物で切り刻まれた傷が多数あり、全身が血と土で赤黒く染まっている。
 ――死んでいる。
 女性は背筋が寒くなるのを感じた。
 たまたま土手を、別の男性が通りかかった。女性は呼び止めて、事情を説明。男性もことの重大さを察し、即座に一一〇番通報して警察へ知らせた。
 間もなく、数台のパトカーが赤色灯を回して駆けつけた。現場は制服の警察官に取り囲まれ、立ち入りが禁止された。少年は川崎市内にある聖マリアンナ医科大学病院へ運ばれることになった。
 大学病院では、医師によって死亡が確認され、司法解剖が行われた。全身の切り傷や打撲の痕がくまなく調べられ、「出血性のショック」が死因と診断された。左首の傷が致命傷となって、体の三分の一以上の血液が流出していたのだ。
 神奈川県警は、これを受けて事件性のある死体遺棄事件として捜査を開始。被害者が少年ということもあって、慎重にマスコミに向けた発表が行われた。
 この日の午後に、マスコミは事件のニュースを配信した。読売新聞は夕刊で次のように報道している。
 
 ■多摩川の河川敷に裸の若い男性遺体
 20日午前6時15分頃、川崎市川崎区港町の多摩川河川敷で、近くを通りかかった男性から「人が倒れている」と110番があった。
 神奈川県警の捜査員が駆けつけたところ、10~20歳代とみられる若い男性が倒れており、すでに死亡していた。
 男性は服を身につけておらず、首の右後ろあたりに外傷があった。
 県警は、男性が事件に巻き込まれた可能性があるとみて調べている。
(二〇一五年二月二〇日 読売新聞 東京夕刊)

 最初の発表では、警察は被害者の年齢や大量の傷についての詳細を明らかにしていなかった。そのため、何人かの記者によれば、事件がそこまで話題性のあるものとは考えず、警察発表を右から左に流すように記事を書いただけだったという。第一報であまり大きく扱われなかったのはそのためだったのだろう。
 多くの事件報道は、事件の発生と犯人の逮捕をつたえた時点で終わりとなる。事件によほどの特異性がないかぎり、人々の関心が長続きしないのだ。この事件とて被害者が中学生であったり、未成年によるめった刺し事件でなければ、何カ月も報じられることはなかったはずだ。
 だが、今回は、この小さな一報が事件報道の幕開けだった。翌日から、膨大な数の記者や事件を悼む人々が川崎に押しかけ、インターネットではまるでゲーム感覚で犯人捜しが行われ、デマや中傷の言葉までもが飛び交うようになる。
 まさに、事件の〝終わりの始まり〟となったのである。
さまよう
 マスコミの取材合戦が本格的にはじまったのは、川崎警察署に捜査本部が設置された二月二十一日からだった。
 警察が被害者の氏名と年齢を公表したことで、メディア各社が色めき立ち、トップニュースの扱いで事件を報じたのだ。中学一年の少年が刃物で全身を四十カ所以上刺されたというだけで話題性は十分だったのだろう。神奈川県内の地元記者ばかりでなく、全国から記者が押し寄せて、学校や河川敷、公園など事件の関連現場を回った。
 全国紙の記者は語る。
「中学一年生が全裸で殺されたと聞いて、大きなニュースになるなっていう感触はありました。うちの社でも遊軍記者がまとめて取材に回されました。最初の時点では通り魔的犯行なのか、知り合いの犯行なのかはわかっていませんでしたが、おそらく少年犯罪なんじゃないかっていう予感はありましたね。
 取材は学校や、その近辺を張って遼太君の同級生に話を聞くというところからはじめました。そしたら、不登校になっていたとか、悪い先輩たちと付き合っていたという話がボロボロ出てきた。特に日吉で遼太君が虎男に殴られて顔が腫れていたという話は衝撃的でした。地元の少年たちも、日吉事件と殺人事件が何かしら関係あるのではないかという口調で話をしていました。虎男の名前が浮上してきたのはその流れからです。これによって僕たちの中でも加害者は少年だという見方が強まっていったんです」
 他のメディアの記者たちの間でも、少年犯罪ではないのかという話は早くから出てきていた。
 警察は犯人像を公表することには慎重だった。一つ一つ手に入れた証拠品を分析していく段階にあったのだろう。警察署に呼ばれた遼太の父・善明も、なかなか犯人に通じる情報をもらえなかった。
 二十二日の朝、川崎警察署を訪れた善明は、遼太の遺体と対面した後、刑事から「犯人はまだわからない」と言われ、捜査に協力することになった。犯人について手掛かりになるようなことは何一つ教えられていなかった。
 警察が善明に依頼したことは大きく二つあった。一つが携帯電話の情報公開の手続きだ。警察は河川敷に投げ捨てられていた遼太の携帯電話を発見し、中に入っているデータの確認をしようとしていたのだ。
 もう一つが遺留品の確認。伊勢町第1公園の女子トイレから、焼け残ったスニーカーの靴底が見つかっていた(他はすべて灰となっていた)。このスニーカーが遼太のものだと特定することができれば、公園近辺の防犯カメラからそれを運んでいる者たちの映像を見つけ、犯人の身元や足取りを明らかにすることができる。刑事は善明にスニーカーを見せ、購入場所、色、サイズ、素材などの詳細を尋ねたのである。
 署内で一連の作業が終わった後、刑事は善明に被害者支援室の担当者を紹介した。被害者支援室とは、犯罪の被害にあった人やその家族をサポートするための機関だ。事件の被害者や家族は、家庭裁判所の少年審判や刑事裁判へ参加する権利があるし、それに伴う法的支援も整えられている。彼らはそれをきちんと被害者や家族に説明し、弁護士を紹介するなどして権利を活用できるようにするのだ。また、事件が大々的に報じられ、マスコミに追われるようなことがあれば、報道被害を防ぐために間に入ってくる人も必要になる。
 同時に、刑事は次のような提案もした。
「事件のことで精神的にもかなりのご負担があると思います。もしご希望でしたら、カウンセラーなどご紹介いたしますが、いかがいたしますか」
 善明は険しい表情で答えた。
「やめておきます。カウンセリングというのはあまり信じないもので」
 西ノ島で雅子と離婚した時に、精神不安を危惧して子供たちがカウンセリングにかかったことがあったが、善明の目にはまったく変化はなかったことから、臨床心理士を信用していなかった。それに頭に血が上っていることもあって、今の自分の心境が他人にわかってたまるか、という気持ちがあったのだ。
 刑事は無理強いすることなく言った。
「わかりました。それと、これから捜査を進めるにあたって、いくつか確認したいことも出てくると思います。もし川崎におられるようであれば、こちらでお話をうかがいたいのですが、いかがでしょうか」
「それは大丈夫です。しばらく川崎にいるつもりですので、何かあれば、携帯へ電話ください」
 遼太が殺害されたことがはっきりした以上、西ノ島にとんぼ返りして漁業の仕事を再開する気にはなれない。加えて事件の推移を見届けたいという気持ちもあり、川崎に残ることに決めたのである。
 この時はまだ、善明自身、犯人捜しに明け暮れ、その後三週間も川崎に残ることになるとは予想もしていなかった。

 川崎に滞在することを決めた善明は、この日からホテル以外にも、インターネットカフェやサウナを転々とする生活をはじめた。一つのホテルに長期間泊まらなかったのは、金銭的な負担を少しでも軽くするためだった。
 事件の被害者家族には、精神的、経済的打撃を和らげるための犯罪被害者給付制度や、裁判への参加を支援する被害者参加制度などが整備されているが、捜査時における金銭的支援は十分になされておらず、川崎に滞在する費用は自己負担しなければならなかった。そのため、善明は貯金を切り崩して、宿泊費ばかりでなく衣類や生活必需品を買い足していく必要があったのだ。
 川崎に滞在中、警察から時折電話がかかってきて、事件の捜査協力を求められた。電話で小さな確認をするだけで済むこともあったが、警察署へ赴いて長い時間拘束されることもあった。ただ、善明の目から見るかぎり、捜査が順調に進んでいるようには感じられなかった。
 刑事と話をするたびに、こう尋ねた。
「犯人はわかったんでしょうか」
 刑事は言葉を濁すだけだった。
「いや、まだです」
 おそらく警察にしてみれば、LINEの記録を手に入れた時点で、犯人の目ぼしはついていたにちがいない。だが、遺族であっても捜査の進展状況を漏らすことはできないし、加害者が未成年とあってはなおさらだ。遺族にもマスコミにも、捜査の内情は厳しく伏せられていたのだ。
 善明は語る。
「警察から教えてもらった情報は、マスコミの報道以上のものはありませんでした。捜査の進展状況を聞いても、これといったことは伏せられていたのです。僕としては、警察から聞くのをあきらめて、テレビとかネットのニュースを見て事件の内容を把握するしかありませんでした。あの時は遼太がどうやって殺されたかすらもよくわからなかったので、ちょっとした記事でもむさぼるように目を通していました。それでも、なかなか犯人たちの情報は出てこなかったと思います」
 メディアの記者は、普段から警察と懇意にして、いざ事件が起こると「夜討ち朝駆け」といって出退勤の途中で彼らを待ち伏せして少しずつ情報を教えてもらう。それをつみ重ねてニュースにしていくのだ。
 今回もマスコミは同じことをして捜査の進展状況を確かめたり、独自に集めた虎男のネタをぶつけたりしたが、警察関係者の口から容疑者についての情報はほとんど漏れてこなかった。警察の裏付けなしで、未成年を容疑者として報じるのは難しい。そのため、記事の大半は遼太の生い立ちや人柄に関することばかりだった。
 インターネットの中で、犯人といわれる男の名前が浮上するのはこの頃だった。虎男である。何者かが虎男が犯人かもしれないという書き込みをし、それがネットで大きな話題になったのだ。善明もそれに真っ先に気づいた。
「警察の捜査に協力していましたが、署内に丸一日いたわけではありませんでした。警察からの連絡も来たり、来なかったり。なので、基本的に川崎にいてもすることがなく、遼太のことばかり考えてもどかしい時間をすごしていました。
 それで僕はネットカフェに入り浸って、事件のことを検索してばかりいた。新しいニュースは配信されていないか。犯人にかかわる情報が出ていないか。遼太のために何かしらのことをしていないと頭が変になりそうだったんです。
 ネット上に、虎男が犯人じゃないかという書き込みがあるのを見つけたのは、そんな頃でした。地元の少年らしき人たちが『こいつが犯人です』みたいなことを書いていた。えっ、と思いましたよ。犯人はもうわかってるんじゃんって。
 最初は情報が錯綜していましたね。犯人と名指しされている人も何人かいて、別人の顔写真もあがっていた。事件とは無関係のリンチ事件についても言及されていた。どの情報を信じていいかいまいちわからなかった。
 それでも、僕にしてみれば大きなことでした。警察からは何も教えてもらえない。マスコミの情報もいまいち踏み込めていない。ネットの記事はまちがったものが大半だけど、犯人の情報を流しているのはそこだけでしたから」
 インターネットに虎男の名前が出て間もなく、彼のフェイスブックやツイッターが特定され、そこから個人情報が拡散することになった。犯人捜しの掲示板などもつくられ、多数の顔写真を掲載するところも出てきた。その中には、虎男だけでなく、家族や友人の情報まで含まれていた。
 後から判明するのだが、事件から数日の間に拡散した情報には、重大な誤解があった。取材にあたったテレビ局の記者は語る。
「ネットの犯人捜しは、関係ない事件を巻き込んではじまったんです。遼太君が殺される数時間前、川崎の隣の横浜市にある公園で、別の少年たちがリンチ事件を起こしたことがありました。十六、七歳の少年たちが中学二年生の生徒を公園のトイレへつれ込んで集団で暴行し、意識不明にしたという事件です。年上が中学生に暴行するなど、川崎の事件と似ている点がいくつもあった。
 事件の翌日、横浜市の事件がネットで騒ぎになりました。犯人たちが逃げ回っているということで、彼らの顔写真や名前がSNSに上がって『こいつらが犯人です。見つけてください』みたいな書き込みが広がった。つまり、横浜市の事件の犯人捜しの方が初めに行われたんです。
 これだけなら大したことはなかったでしょう。でも、事件が似ていたせいもあって、ネット上では横浜の事件の犯人と、川崎の事件の犯人とが一緒だっていう話になった。そして、その加害者の中に、なぜか川崎の事件の虎男の名前が入っていたんです。
 横浜の事件と川崎の事件の犯人グループが別だってことがわかるのはだいぶ後のことです。逮捕が近づくにつれて、剛志や星哉の名前が出てくることになるのですが、最初の頃は主犯が虎男で、横浜の事件の加害者二人が少年Bと少年Cだと言われていた時期もありました。そういう意味では、ネットの犯人捜しはこの二つの事件が混同されてはじまったと言えるのです」
 ネットでの犯人捜しとは別に、現場で取材をしていたメディアの記者たちの間では、早い段階から横浜の事件と川崎の事件が別物だと判明しており、容疑者として虎男、剛志、星哉の名前が上がっていた。あとは、グループの仲間たちの証言を集め、事件当日のアリバイをつかめば、犯人を特定できたはずだった。
 ところが、記者たちはここで新たな壁にぶつかった。加害者三人を知る仲間たちが不良だったこともあって、取材が容易に進まなかったのだ。通常の取材では、事件現場や学校周辺にいる少年たちに声をかけて話を聞かせてもらい、そこから別の仲間を紹介してもらうなどする。記者たちはこのやり方で取材を進めようとしたのだが、不良たちはその見返りに金銭を要求してきたのである。
 前述の記者は語る。
「川崎の取材で出会った子供たちの間には、取材を受ける代わりに金を要求しようみたいな空気がありましたね。話を聞かせてくれと言ったら、じゃあ何万円払えよみたいな言い方をされるんです。無理だと言ったら、それなら酒屋で酒おごれ、今から酒買ってきて、みたいに言われました。虎男の仲間や、吉岡兄弟の仲間が、そういう質の悪い不良だったことはまちがいないです。
 どの社の記者たちも、とんでもないガキたちだって憤慨していました。事件報道が過熱していた時、イスラム国と重ねて『カワサキ国』なんて言い方をマスコミがしていたじゃないですか。川崎は漫画『北斗の拳』で描かれるみたいな無秩序な町で、犯人の少年たちはイスラム国の真似をして遼太を殺したんじゃないかって。ああいう報道は、記者たちがさんざん地元の不良たちにかき回されていたことと無関係じゃないと思いますよ。記者たちが『川崎はとんでもない場所だ』って言うので、その空気がニュースや記事をまとめる側にもつたわっていったんじゃないですかね」
 世間では、マスコミは取材をする際に謝礼を支払うという誤解が広まっている。だが、テレビ局や新聞社には、原則的に取材の謝礼を払ってはいけないという共通のルールがある。金銭要求に応じると、取材がマネーゲームになってしまうことから、事件でなくても取材で謝礼を支払うことはないのだ。
「ネタは、喉から手が出るほどほしいけど、うちはテレビなんで絶対に支払えないんです。もし金を払ったり、酒をおごったりして、別のメディアにそれを報じられたら社内外で大問題になりますから。
 その中で、週刊誌だけは払っていたと聞きます。彼らはうちら(テレビや新聞)とちがって少額なら払える。それで彼らの取材が先行したって部分はあったかもしれない」
 こうしている間に、ネットの犯人捜しはメディアの取材の成果もあって、少しずつ情報が精査されていく。虎男、剛志、星哉の三人に容疑者が絞られていくのだ。
 毎日、ネットで更新されていく犯人の情報を見ていた善明は、次第にいても立ってもいられなくなった。どうして虎男が犯人だと名指しされているのに、警察は彼を事情聴取で引っ張ることさえしないのか。虎男たちが危険を察知して逃げてしまったらどうするつもりなのか。
 ――もし警察が動かないなら、自分の手で犯人を見つけて事実をたしかめてやる。
 そう考えるようになり、善明はネットカフェを飛び出して自ら少年たちを捜し出すことを決意した。
 頭の中には、ネットに流出していた虎男たちの顔や名前が叩き込まれていた。虎男と剛志はフィリピン系のハーフの顔立ちをしているので、会えばすぐにわかるはずだ。星哉も切れ長の特徴的な目をしているので気がつくだろう。彼らをつかまえ、本当におまえたちが遼太を殺したのかと問い詰めたかった。
 主に歩き回ったのは、住所が判明していた加害少年の自宅や、地元の不良のたまり場となっている大師公園や商店街、神社などだ。彼らの出身中学校の前も何度も通った。どこにもマスコミの記者たちの姿があり、自宅を取り囲んだり、周辺の人々に聞き込みをしたりしていた。
 善明は事件の関連現場を回るたびに、胸が苦しくなった。彼らの出身中学は自分の母校であり、遺留品が燃やされた公園は子供の頃によく遊んだ場所だ。楽しい思い出がたくさんつまった土地を、四十歳を越えて息子を殺された怒りに身を震わせ、歩き回ることになるなんて……。
 町は二月の冷たい空気に包まれていた。白い息を吐きながら何時間も町を歩いたが、虎男たち三人を見つけ出すことはできなかった。それもそのはず、虎男や星哉は自宅に閉じこもり、剛志は記者や友人に疑惑の目を向けられて逃げまどっていたのである。いくら地元の地理を把握しているからといって、記者たちがあふれる町で彼らをつかまえるのは容易ではない。
 その頃、善明の携帯電話にはさかんに友人から連絡が入るようになっていた。メディアが事件を報じるにつれ、友人たちが次々と連絡をよこしてきたのだ。「殺されたのは本当に遼太君なのか」といった内容のものから、「精神的に大丈夫か」「力になれることがあれば言ってくれ」という激励の言葉もあった。
 善明は友人たちの厚意だとわかってはいたものの、メッセージが届くたびに複雑な気持ちになった。犯人を捜して町を歩き回っている間は怒りで気が立っているのだが、携帯電話が鳴って慰めの言葉をかけられると、ふと子供を殺された父親という立場を自覚し、みじめな思いに駆られるのである。善明は周囲からの心配を受け取る余裕がなく、かといって自分が何を欲しているのかもわからず、「もう放っておいてくれ」という気持ちで電話はもちろん、メールに関しても一切返信するのを止めた。
 一日のうちでつらかったのは、夜の寝る前の時間だった。夜になってホテルやネットカフェに一人でいると、遼太を失った悲しみが湧き起こって胸が引きちぎられそうになるのだ。彼はそんな感情を紛らわすために、毎晩アルコールを浴びるように飲んだ。意識を失うほど泥酔することが、事件を頭の隅に追いやる唯一の方法だったのである。
 多摩川の河川敷を訪れたのは、そんな中でのことだった。遼太が殺された場所へ行って手を合わせたい。そう思い立って、京急大師線のガード下のトンネルをくぐって、現場へ向かったのだ。
 味の素の工場を横切り土手から見下ろすと、想像もしなかった光景が目に飛び込んできた。草地に何百という花束が供えられていたのである。十メートル四方はあるだろうか、花以外にもバスケットボールやプリントアウトされた遼太の顔写真、それに色紙に書かれたメッセージなども置かれていた。
 善明は足を止め、心の中でつぶやいた。
 ――すごいな。
 河川敷には何人もの報道陣がカメラやノートを手にして集まっていた。献花に訪れる人々が日に日に増していたことから、その光景を撮影したり、事件の感想をインタビューしたりしていたのだ。そうしている間にも、また一人、大きな花束を抱えて土手を下りて河川敷へと向かっていく。
 どうしてなんだろう、と思った。これほど多くの人々が息子の死を悲しんでくれるのはありがたい。ただ、大半の人たちにとっては、見ず知らずの他人の事件でしかない。ここまでしてくれることが不思議だった。
 善明は集まっている人々の間をすり抜け、献花台の前へ歩いて行った。報道陣が目と鼻の先にいたが、遼太の父親だと気がつくものは少ない。たまに声をかけられても、言葉を返すことは一度もなかった。善明は一般の人のふりをして、大量の花の前に立った。甘い花の香があたり一面に漂っている。そっと目を閉じ、手を合わせた。
 ――遼太、つらかっただろうな。おまえの無念は絶対に晴らすから。
 冷え切った川のせせらぎの中で、心にそう誓った。
献花
 事件後、河川敷に供えられたのは、花束だけで千を優に超えた。その他、ジュースや寄せ書きのノート、バスケットボールなども手を合わせに来た人々によって並べられた。休日には一日で何百人とやってくることがあったので、マスコミも含めて河川敷を訪れた人の数は、合計で一万人をはるかに超えていたにちがいない。
 花は河川敷に敷きつめられるように供えられた。冬の寒い時期だったことから、せめて明るい色の花で彩ってあげたいと思った人が多かったのか、赤、黄色、橙色といった花が目立った。遼太を想う気持ちが膨らむあまり、新種の桜の木を運んできて記念樹として土手に植えようとする者までいた。河川敷への献花は、一種のブームと思えるほどだった。
 もっとも、事件の直後に河川敷へ献花にやってきたのは、遼太の学校関係者が大半だった。半年をすごしたD小学校の同級生、D中学のクラスメイトやバスケ部の仲間たち、あるいはゲームセンターで遊んだ少年たちである。
 同じ頃に現場に来た一人に山中俊之介(事件当時七十歳)がいる。
「最初は、遼太君の同級生や先輩たちが献花に来たんだよ。寄せ書きなんかをして置きに来る人もいたね。でも、彼らも学校や友達の間で、思うように遼太君のことを話せなかったみたいだ。川辺でじっとしていて、誰かに聞いてほしいというように、遼太君の思い出をポツポツと語りはじめることがあった。心の内を誰かに聞いてほしかったのかもしれないな」
 山中自身も、すでに述べたように事件前から遼太と面識があった。遼太が小学六年生の頃に学校のグループで集まっていたところに出くわし、西ノ島の出身だと聞いていたのだ。
 山中は遼太のことを忘れていたが、ある日ふとしたきっかけで思い出すことになる。遼太の知り合いだった孫がテレビを見ていたら、突然「ウエリョウだ!」と叫んだのだ。被害者が特定され、名前と顔写真が報じられたのである。孫は青ざめた顔で「なんで、なんで」とつぶやいている。山中はそんな孫を見て、「殺されたのは、あの少年だったのか」と思った。
 山中は、脳裏に蘇った遼太の屈託のない笑顔を忘れられず、河川敷に行って手を合わせようと思い立った。土手を越えると、すでに供えられた花が風であちらこちらに転がっていた。お供え物も悪くなりかけている。
 ――こんな景色を天国の遼太君に見せられない。できるだけきれいにして、せめて西ノ島の海に近づけてあげよう。
 山中はそう考え、誰に頼まれるわけでもなく、毎日のように河川敷に通って、清掃ボランティアをしたのである。
 彼は語る。
「全国から献花の方々が来るようになったのは、同級生たちが来た後だね。メディアの人たちが、河川敷で祈っている同級生たちの姿を撮影したり、インタビューしたりして、ニュースで流したんだ。それを観た人たちが自分も献花に行こうと考えたみたい。
 休日ともなれば、ものすごい人だったよ。百人を超していた日だってあった。九州や北海道から来たなんて人もいたからね。それだけの人たちが花やお供え物を置いていったんだ……。
 河川敷に来る人たちは、胸にいろんな思いを抱えていた。遼太君と同じくらいの孫を持っている人とか、不登校の息子を持つ親とか。自殺を考えて悩んでいる人もいた。何かしらの事情があったからこそ、遼太君のことが他人ごとに思えなかったんじゃないかな。清掃のボランティアをしながら、そんな人たちの話を聞いていたよ」
 そして花の片づけを始めた。風で草むらに散らばった花を集め、枯れたものは捨て、きれいなものだけを一カ所にまとめる。日が経つと、お供え物の整理も欠かせない大切な作業になった。お菓子やジュースや果物が腐って悪臭を放ち、虫がつくようになったのだ。山中はそれらをゴミ袋にまとめて捨てていた。
 河川敷は見違えるようにきれいになった。花が奥に置かれ、手前にはお供え物が並べられた。白いバスケのユニフォーム、「上村家」と書かれた卒塔婆、ガンダムの玩具、地蔵、風車、釣竿、お菓子……。どれも、遼太を想う気持ちから持ち込まれたものだった。
 やがてある人が墓石の香炉を持ち込んだことから、それを正面に置いて焼香できるようにした。訪れた人々がメッセージを書き残すことのできる大学ノートとペンも置いておくことにした。すると、人々は線香に火をつけて手を合わせた後、大学ノートに自分なりの思いを書き綴るようになった。
 ある人は次のように記した。
 
 上村遼太君
 ここに来るのは2回目です。
 辛かったですね。
 忘れないからね。
 大人が悪かったです。
 本当にごめんなさい。

 また、次のようなメッセージを書いた紙をクリアファイルに入れて置いていった人もいた。
 
 りょうた君 ごめんなさい
 冷たく痛く苦しかったでしょうね。
 私達大人が少しも助ける事が出来ず、
 親を思い、友達を思い続けた、その
 小さな胸を見過してしまいました。
 君の事、絶対に忘れないよ。
 楽しかったあの島にもう一度帰り そこで
 あの笑顔で過ごしてください 今度こそ
 誰れにも邪魔されない時間をもって
 下さい 忘れないから 忘れないから
 ごめんね。(原文ママ)

 連日にわたって事件が報道され、河川敷の大量の献花やお供え物がテレビに映し出されたことで、また続々と全国から人が集まってくるようになった。そうした人たちの中には、少しでも役に立ちたいとの思いから、清掃ボランティアに加わりたいと志願してくる人もいた。
 佐伯大郎(仮名/事件当時三十一歳)もその一人だ。彼は三重県伊勢市からやってきた時のことを次のように語る。
「実家は愛知県でした。大学を卒業して企業に就職し、伊勢にある支社にいたんです。事件を知ったのはニュースだったかな。すぐに脳裏をよぎったのはご遺族のことでした。僕は、十年くらい前から身近で事故や自殺で人が亡くなることが多くて、そういうご遺族との付き合いも結構あったんです。間近で、遺族の悲しみや苦しみを見てきた。なので、事件を知った時も、遼太君のご家族や周りの友達がどれだけつらい思いをしているかが、自分の体験を通してわかったんです。
 ものすごく胸が痛みましたよ。でも、自分は伊勢に住んでいるし、直接の関係もないから何もできないと思って、毎日流されるニュースを追っているだけでした。そんなある日、事件のニュースを見ていたら、多摩川の河川敷が映し出され、一般の人たちが集まって清掃ボランティアをしているのを知ったんです。
 テレビに映る彼らの表情は疲れ切ってやつれているように見えました。じっとしていられなくなりました。僕もあそこへ行って、あの人たちのサポートをしたいと思った。それで新幹線に乗って川崎へ行くことを決めました。
 初めて白い花を手にして河川敷で手を合わせた時のことは鮮明に覚えています。急に遼太君はどれだけ西ノ島に帰りたかったんだろうっていう思いがこみ上げてきて、その場で泣き崩れてしまったんです。周りにいた人たちが駆け寄ってくれて、大丈夫ですかって声をかけてくれた。嬉しかったですね。
 僕は仕事があったので、毎日来るわけにはいきませんでしたが、休みの日には手伝いに来たり、月命日の二十日には有休をとって川崎へ来ることにしたりしていました。それとは別に、遼太君の冥福を祈るために事件後に二回、西ノ島へ行きました。彼の育った景色をきちんと見ておきたいという思いもあったんです」
 遼太の痛みを他人ごとと思えない人たちが、全国から川崎へと集まってきたのである。こうした人たちは一緒に清掃をしたり、河川敷で立ち話をしたりしているうちに、いくつかのグループをつくっていくようになった。
 山中や佐伯とよく一緒にいたのが、竹内七恵(事件当時三十三歳)だ。彼女はボランティアのグループについてこう語る。
「いくつのグループがあったという明確な区切りはありませんでした。自然とつながる人はつながる感じかな。定期的に川にやってくる人たちっていう意味でいえば、最終的には数十人はいたんじゃないですかね。
 毎日あらかじめやることを決めていたわけではないので、それぞれ来たら川辺に立っておしゃべりをしていることが多かった。お互いになんでここに来たのかとか、遼太君の話とかを語り合っていたんです。そうすれば自然と話が合う人や、そうでない人でわかれていきますよね。いくつかのグループができたのは、そういう自然の流れでした」
 清掃ボランティアのメンバーは長時間河川敷にいたことで、遼太を知る中学生と言葉を交わすことが度々あった。小学校時代の同級生、バスケ部の仲間、慕っていた先輩たち。彼らは川辺にしゃがみ込み、遼太との思い出話をポツリポツリと語った。清掃ボランティアのメンバーは、そうした話を聞いているうちに、より遼太の存在を身近に感じるようになっていった。
 たとえば、七恵のグループの中で、「そりゃないぜ、先輩」という言葉が口癖になった。何かに失敗したり、うまくいかなかったりすると、そう言ってみんなで笑うのだ。この言葉は、同級生の一人から遼太の口癖だと教わったものだった。それで彼らは真似をして同じ言葉を口にするようになったのだ。
 七恵は語る。
「私たちの間で一時期流行ったものに、『遼太マジック』がありました。たとえば、河川敷に集まる人の中には、近所に住んでいて自転車に乗ってくる人もいたんです。結構たくさんいたので、誰かしら鍵をなくしてしまう。そんな時、私たちは『あ、これって遼太マジックじゃない? 遼太が私たちに帰ってほしくないから鍵を隠したんだよ』なんて話し合っていました。もちろん、後で不思議と鍵は出てくるんですけどね。
 『遼太コーラ』っていうのもありましたね。事件があった二〇一五年って日本コカ・コーラ社がボトル誕生百周年キャンペーンで、ペットボトルに人の名前をつけて発売したんです。私がたまたまスーパーで『Ryota』と書かれているボトルが売られているのを見つけた。私たちはそれを『遼太コーラ』って名づけて、お店を回って買い集めたんです」
 他にも、花を植えるプロジェクトを呼び掛けたことがあった。遼太の笑顔がひまわりに似ていたことから、河川敷にひまわりの花を大量に植えようとしたのである。
 残念ながら、自治体から河川敷が公共の場であることを理由に中止を求められた。メンバーはそれならばと、ひまわりの種を持ち帰り、それぞれの自宅で植えることにした。これは「ひまわりプロジェクト」と呼ばれ、メンバーの中には遠くに暮らす実家の家族に頼んで植えてもらい、プロジェクトを全国に広めようとする者もいた。夏になって咲いたひまわりは、「遼太ひまわり」と呼ばれたという。
 このように、河川敷に集まった人々の間では、新しい遼太の物語が独り歩きをはじめていた。事件に衝撃を受けた人々が、それぞれの事情から何かせずにはいられなくなり、河川敷にやってきては、自分たちなりの形でかかわろうとしたのである。
 なにが彼らをそうさせたのか。簡単に答えを出すことはできないが、たしかなのは、清掃ボランティアのメンバーだけでなく、ここに献花に訪れた一万人を超す人々がそれぞれある思いを抱えて全国から集まってきたということだ。それだけ、彼らはこの事件に他人事とは思えない何かを見い出したのだろう。
 後日、七恵たちはグループの仲間たちと話し合い、自分たちを「Team R(遼太)」と名づけた。つくったお揃いのブルーのTシャツがある。そこには、チームの名称とともに、次のような言葉を刻み込んだ。

 The light R lit still shines with us

 この言葉には、「あなた(遼太)がいたから笑顔になれるし、やっていける人がいる。君が私たちを照らして支えてくれるんだ」という意味が込められているという。いつしか遼太は、彼らの心を支えてくれる存在になっていたのだろう。
 七恵は語る。
「遼太君が亡くなったのはたしかです。でも、事件をきっかけに私の中では生きはじめたんです。私は大変なことがあって心が折れそうになった時、遼太君を思い出して勇気をもらったり、晩御飯を何にするか悩んでいる時に『今日何食べたい?』って遼太君の写真に話しかけたりしています。そういう意味では心の支えみたいになっているのかもしれません」
 河川敷に集まる人々の間で、遼太は宗教のように偶像化されていったのかもしれない。
 その一方で、警察は地に足をつけて捜査を進めて証拠を積み上げ、逮捕に踏み切っていた。警察の手が加害少年三人に伸びることになるのは、事件から一週間後のことだった。
捜査
 事件から逮捕までの約一週間、虎男、剛志、星哉の三人はたまにLINEで連絡を取ることはあっても、直接顔を合わせることはなかった。下手に会ったり電話をしたりすることで、周りに事件との関係性を疑われるのが怖かったのかもしれない。
 警察やマスコミだけでなく、地元の少年たちも三人を犯人だと見なして行方を追っていた。事件を知った時のことを、黒澤勇樹(事件当時二十歳)は言う。
「二十日に近所で殺人事件があったって話は知ってたけど、被害者の名前が出てなかったでしょ。だから、なんかやばいねみたいな感じでしかなかった。
 二十一日は、俺は、遼太の先輩の中村正たちと五人で川崎モアーズのマックで飯食ってたんだ。そしたらLINEのニュースにいきなり、見つかった遺体がカミソンだって流れはじめた。『おい、殺されたのカミソンだよ!』って言って、みんなでケータイ見た。カミソンがマンションに帰ってないっていう話は聞いてたけど、まさかとは思った。
 みんなハンバーガーとか食べる気なくなってじっと黙ってた。前の日、オールしてたけど家に帰りたいとも思わなくなった。それから犯人は誰なんだろうって話になったんだ。俺たちはそこにいた五人以外のメンバーを一人ひとり消していって考えていった。そしたら、虎男と剛志の名前が出たんだ。絶対、あいつらのどっちかだろうってことになった。星哉とはあんまり仲良くなかったので、名前は出なかったかな。でも、ニュースが出た時点で犯人はわかってたよ」
 同じく友人の木村幹夫(事件当時十七歳)も、事件発覚と同時に犯人の予想がついたという。
「カミソンが死んだってわかった時点で、俺らの間では犯人は虎男しかいねえべって話になってました。いくつか理由はあります。
 まず、カミソンはたくさん友達がいたって言われてましたけど、中学も行ってないし、転校生だから、夜中に遊ぶメンバーは決まってるんです。その中であんなことをする奴はかぎられている。日吉でフルボッコにしたこともありましたしね。仲間ならすぐにわかりますよ。
 殺害場所だってもろ、虎男の地元でしょ。多摩川の土手はK中学の連中がたむろする場所だし。ここらへんに住んでいる人間じゃなきゃ、真夜中に行こうと思わない。よその人間がつれていったり、通り魔が潜んでいたりする場所じゃないんです。
 決定的だったのは、事件後に虎男とぜんぜん連絡が取れなくなったことかな。みんなカミソンが死んだって騒いでいるのに、あいつだけが家に引きこもって沈黙していた。いくら俺たちが連絡を取ろうとしても、返事がないんです。隠れてるのバレバレ。犯人じゃなきゃ、そんなことしないですよね。
 だから俺らの中では、虎男にまちがいないって話でした。マスコミとか警察に訊かれて、それを話した奴もいましたよ」
 吉岡兄弟のグループも、ニュースで遼太が殺されたことが明らかになって間もなく、虎男が犯人ではないかと疑った。日吉での暴行事件を考えれば虎男は十分に疑われるべき存在だったし、そのことを理由に脅しをかけていたことから、虎男が逆上して殺害に及んだと考えたにちがいない。
 吉岡兄弟はLINEのメッセージを虎男に送り、「おまえがやったのか」と尋ねた。何度送っても、虎男からの反応はなかった。ますます怪しい。彼らは虎男が犯人だと確信し、そのようなことを吹聴しはじめた。
 この時期、虎男は一体何をしていたのか。彼は自宅に籠城したまま、知り合いとの連絡を遮断していた。誰からのメッセージにも返信しないばかりか、仲のいい知り合いとのLINEですらブロックするなどしていたのだ。
 家に閉じこもっていたのは、すでにインターネット上に自分の名前や写真が流出していたことが大きかっただろう。地元の人々から流れた情報が瞬く間に拡散し、事件から四日後にはあちらこちらのSNSで、「こいつが犯人だ」「早く捕まえろ」という声が上がっていた。彼は、そうした声がどんどん大きくなっているのを戦々恐々として見ていることしかできなかったはずだ。自宅の周りも、記者たちが取り巻くようになっていた。カメラやマイクを手にした報道陣が入り口をふさぐように立ち、家族が出てくるのを今か今かと待っていたのだ。虎男が家を出れば、瞬く間に取り囲まれ、どこまでも追ってこられるのは明らかだ。
 父親はこうした状況を受けて、家に引きこもる虎男に対して事件の関与を問いただした。虎男は「知らない」「俺じゃない」と一切を否定した。父親は息子を信用することにした。家の外で記者に取り巻かれると、家長として強い口調でこう言い放った。
「うちの息子は犯人じゃない。話すことは何もない」
 息子や他の家族を守りたい一心だったのだろう。父親は弁護士を雇うことを決めた。
 同じ頃、星哉もまた家で身を隠して事態の鎮静化を図ろうとしていた。彼の親もまた息子の無実を信じてかばっていたのである。
 正反対だったのが、剛志だ。後述するように、母親は剛志が幼い頃から育児放棄しており、数カ月後にアメリカへ移り住むことを決めていた。日本に残るつもりだった剛志は事件前から自宅の他、仕事先の寮、友人の家、祖母の家を転々として暮らしていて、事件後も逮捕の不安に怯えながら友人とつるんでいたのである。
 友人たちは、事件後の剛志の態度の変化に気がついていた。木村は言う。
「事件の後も、剛志はいろんな人と会ってたみたいです。LINEとかツイッターとかでもゲームの話を普通にしていた。もしかしたら、俺は関係ねえってアピールするために、わざとやってたのかもしれませんけど。
 聞いたところでは、あいつは事件のことは自分から言わなかったけど、聞かれたら『知らない』とか『あの日は東京で遊んでた』とか話してたみたいです。カミソンが死んで悲しいとか言って涙ぐんでたって話も聞きました。
 みんな疑ってましたよ。話がその時々でちがうんだもん。ある友達には事件の日は虎男と一緒だったって言うのに、別の友人には会ってないって言う。それに、仲のいい奴にはカミソンを殺したって話してたみたいで、それが人づてに広まってました。だから、あいつもやったんじゃないかって言われてましたね」
 中学の同級生だった比嘉賢斗(事件当時十七歳)は、剛志が事件にもう一歩深く関与したとほのめかすのを聞いている。
「俺が会ったのは二月二十三日だったと思う。ベネクス(ベネクス川崎店)ってゲーセンで遊んだんだよ。俺は黒澤勇樹や中村正たちと『犯人は虎男か剛志じゃね』って話してたから、会ったついでにお前がやったのかって訊いたんだ。剛志はこう言ってた。『俺は関係してねえ。事件の時、コンビニに行ってたんだ。その間に、虎男たちがやったんだ』って。あいつは最後まで知らねえって言ってたよ」
 友人たちに何度も尋ねられたことで、だんだんと罪の重みにも耐えられなくなり、話が二転三転していたのだろう。
 やがて取材陣が剛志を見つけ出し、直接インタビューを試みるようになる。「週刊新潮」の記者が彼を見つけ出したのは、事件の四日後のことだ。記者が事件とのかかわりを問うたところ、事件当時のことについて次のように答えたという。
 
「LINEでカミソンから“オールしませんか”って来たので、“合流しようか”と答えたんです。で、どこで会うかという話になって、“TSUTAYA”で合流しようと自分が言ったんです。店にはカミソンが先に来ていて、そこで23時から30分ほど過ごし、自分が“この後、用事があるんだ”と言って別れました。自分が一緒にいてやれば良かったな……って今、思ってるんですよね」
 ――そのLINEでのやり取りを見せてもらえるか?
「間違ってLINE消しちゃったんですよ」
 ――念のため聞くが、君自身は事件とは関係ない?
「はい」
(「週刊新潮」二〇一五年三月十二日号)

 苦し紛れの説明であることは明らかだ。一体、なぜこんなちぐはぐな回答になったのか。
 事件を起こした後、虎男、剛志、星哉の三人は、マンションにもどってから「殺したことは黙っていよう」との口約束に留まり、実際に捜査が及んだ時にアリバイをどうするかについてはほとんど決めていなかった。人を殺して遺体を河川敷に放置しておきながら、衣服を焼いただけで、口裏を合わせることすらしなかったのだ。
 剛志が記者から質問を投げかけられ、狼狽しながらその場しのぎの返事しかできなかったのはそのためだろう。友人たちに事件について訊かれた際も、多かれ少なかれ似たようなものだったにちがいない。
 剛志はもはやどうすれば逃げ切れるかわからなくなっていた。彼はわざとLINEに次のようなメッセージを書き込んでいる。
 〈何でこうなったんだよ(泣)もう俺のせいだよ‼ もう会えないと思うとめっちゃ悲しいよ(泣)色々教えてもらうことだってあるのによ‼(泣)本当にごめんな(泣)〉
 これを見るだけで、彼の混乱ぶりが読み取れる。ある時は、自分のせいで遼太が死んだと言い、ある時は悲しくて仕方ないと言う。自らの言動が支離滅裂であることすらわからない精神状態にあったのだろう。

 一日一日と経つにつれ、事件の犯人が虎男たち三人だということは公然の事実となっていった。マスコミは彼らをクロと見なして取材をしており、ネットでは彼らの個人情報が毎日のように更新されていく。世間では、なぜ警察は逮捕に踏み切らないのかという声が日増しに高まっていた。
 もどかしい思いをしていたのは善明も同じだった。彼は依然として川崎の町を歩き回って犯人を捜していたが、発見することができずにいた。警察からも、未だに捜査の進展状況については教えてもらえていなかった。
 事件後、警察はマスコミに対して逮捕に至っていない理由を次のように説明していた。
「防犯カメラに三人の容疑者らしき人物が映っているのを確認しました。ただ、その映像が鮮明ではなく、顔や年齢が特定できていません」
 警察が入手した防犯カメラの映像は複数あったし、LINEや携帯電話の履歴も手に入れていた。虎男たちが犯人であることは確信していたはずだ。それでも逮捕に踏み切れなかったのは、容疑者が未成年だったからだろう。ここまで世間の注目を集めている事件で誤認逮捕が起きれば、警察の信用は失墜する。万事抜かりない状況をつくる必要があったにちがいない。
 善明はこの時の心情を語る。
「いろんな苛立ちが限界まで募っていました。警察に対する不信感、自分への無力感、犯人に対する怒り。自分で自分の気持ちをコントロールできないほどでした。
 僕がよくぶつかった相手は母でしたね。母は事件があってから一時的に東京で暮らす親戚のところに身を寄せていました。報道が過熱していたから心配だったんでしょう、しきりに僕のところに連絡をしてきてはいろんな質問を投げかけてきました。『なんであんな事件が起きたのか』『犯人はなぜ捕まらないのか』……。その時思いついたことを、何も考えずにぶつけてくる。
 神経質になっていた僕にはこたえました。僕だってわからないし、母よりも知りたい気持ちは強い。それなのに母が次から次に尋ねてくるので頭にくることもありました。『そんなこと知るか! 一番知りたいのはこっちだ!』と声を荒らげたこともありましたね」
 かわいい孫を殺されながらじっとしているわけにはいかなかったのだろう。
 母親は事件について質問をする傍ら、多摩川の河川敷に行ってもいいかと善明に尋ねた。せめて線香の一つでも上げたいと切望していたのだ。善明は、そんな母親に「マスコミがいるからダメだ」とくぎを刺した。マスコミにつかまることで事態がより複雑化することを懸念したのである。
 再三制止したにもかかわらず、ある日、母親は河川敷へ行ってしまう。善明はその事実を本人からでなく、マスコミを通して知った。二月二十五日の新聞に、マスコミが母親にインタビューをした記事が掲載されるのである。
 次は、地元の神奈川新聞の記事だ。
 ■島根の祖母献花「犯人許せない」
 上村遼太君の遺体が見つかった川崎市川崎区港町の多摩川河川敷に24日、島根県在住の上村君の祖母が訪れて献花した。「まだ13歳。あんな残酷な殺し方をするなんて。犯人を許すことはできない」と手や唇を震わせながら憤りをあらわにし、「悲しい涙しか出ません」と語った。
 花束を置くと、しばらくしゃがみ込んだまま。祖母は「本当にかわいくて。遠く離れていたけど、一番大事な孫なんです。もう戻ってこないんだから」と話しながら涙をにじませた。上村君はよく「ばあちゃんに会いたい」と言ってくれたという。
 上村君は小学6年で川崎市に引っ越す前、島根県・隠岐諸島の西ノ島に住んでいた。
 祖母は「こっちに来て1年か2年で、なんでこんなことに」と話した。

 地元紙だけでなく、テレビニュースでも母親がインタビューに応じるシーンが流された。河川敷には大勢の記者たちがアリ地獄のように待ち受けている。母親は彼らに取り囲まれて、遼太との関係をしゃべってしまったばかりか、次々に投げかけられる質問に答えてしまったのだ。
 善明はそれを見て母親に怒鳴り散らした。
「勝手なことするな! もう島に帰れ!」
 母親としては、殺された孫を供養したい一心だったのだろう。マスコミがそれにつけ込んで記事にしただけで、彼女が責められることではない。
 善明はそんなことすら冷静に考えるゆとりがなくなっていた。悲しみのどん底に突き落とされた遺族が、混乱の中でお互いを傷つけ合うようになっていたのである。

 二月二十七日、日本中が固唾を飲んで見守る中、警察はいよいよ三人に対する事情聴取に踏み切ることになった。
 前日の朝、二冊の週刊誌が発売されていた。「週刊文春」と「週刊新潮」である。これまでテレビや新聞といったマスメディアは、三人の少年を取材しつつも、未成年ということもあって、記事の中で犯人だと名指しすることを控えていた。逮捕を注意深く進めたい警察への配慮もあっただろう。事件の背後に少年グループの存在があることはほのめかしていたものの、具体的に虎男たち個人のことについては触れていなかった。
 この週刊誌二誌は、他のマスメディアとはちがった。虎男を主犯と決めつけ、大々的に事件の全体像を報じたのである。見出しは次の通りだ。
 〈川崎中1上村遼太君全裸殺人 「8人組グループ」の首謀者〉(「週刊文春」2015年3月5日号)
 〈「イスラム国」を真似した「中1男子」リンチ殺人の凶悪少年たち〉(「週刊新潮」2015年3月5日号)
 記事では、虎男の友人や父親にまで取材して事実に迫るものだった。それまでネットの世界に広まっていたことが、初めてプロの記者の綿密な取材によって裏打ちされた格好になったのだ。
 警察がこの記事に気がつかないわけがない。週刊誌の記事は、前日には印刷されて関係者のもとに届く。記事が出たことで、警察が逮捕を早めざるをえなかったことは想像に難くない。
 テレビ局の記者は次のように語る。
「警察はもう何日か慎重に捜査を進めたかったんだと思います。少年事件の場合は、誤認逮捕は絶対に許されない。それに、逮捕したところで数日以内に自白させなければ、世間の批判が自分たちに向くことも考えられます。しっかりとした確信を持つまでは踏み切らないのが普通なんです。
 だけど、週刊誌が事件の全容を書いた記事を出してしまいましたよね。これまで遠慮していたテレビがそれを引用する形でバンバン報道するのは目に見えています。そうなれば、警察の面目は丸つぶれ。それで彼らは予定を前倒しにして三人の事情聴取に踏み切ったんじゃないかって言われていました」
 雑誌が発売された翌日の夜、警察は少年三人のもとへ行って、それぞれ署への任意同行を求めた。剛志と星哉の二人はその場で同意して警察署へと赴いて事情聴取を受けた。一旦釈放されたのは夜遅くだった。
 虎男だけは警察に行くことはなかった。代わりに父親がつけた弁護士が川崎警察署へ赴いて捜査本部の刑事に対して次のように言ったという。
「事件の当日、少年(虎男)は自宅にいたと主張して、事件の関与を否定しています。明日、少年自身に出頭させてそのことを説明させます」
 翌日の八時すぎ、虎男は白いジャンパーに白いマスクといった格好でタクシーに乗り込んだ。同四十五分、川崎警察署に到着した時、待ち受けていた記者たちが一斉に彼を取り囲んでマイクやカメラを向けた。彼は弁護士に付き添われながら、一言も発さずに警察署へと入っていった。
 この時、父親は出頭に同行しなかった。まだ息子の無罪を信じていたのである。彼はマスコミに対して次のようなコメントを出した。
 上村君の事件につきましてはあってはならないことであり、ご遺族の気持ちはいかばかりかと察してあまりあります。また、犯人には事件相応の罰を受けてほしいと思っております。これを前提に、息子は上村君の殺害とは無関係です。ただ、上村君と息子とは面識がなかったわけではないので、事件の真相解明に協力できることがあれば協力したいと思っております。

 メディアがこのコメントを報じた直後、ネット上で父親に対するバッシングの声が上がった。まだ息子の罪と向き合わずに、かばいつづけるつもりなのか、と。
 父親がこうした意見を見聞きしていたかどうかはわからない。だが、息子から事実を知らされていなかった彼にとっては、上記のようなコメントを出すのが精いっぱいだったのではないだろうか。
 川崎警察署では、この朝から刑事たちによる事情聴取が行われた。警察はストレートに事件の関与を問いただしたにちがいない。証拠は、言い訳の余地がないほど揃っていた。殺害現場付近の防犯カメラには、遼太を含む四人で河川敷に向かう様子が映し出されていたが、帰りは遼太だけがいなくなって三人になっていた。逮捕前夜には、剛志と星哉が現場にいたことを認める証言をしていた。また、携帯電話のLINEの記録には、遼太を「フルボッコ」にしようなどというやり取りが生々しく残っていた。
 これだけの証拠を突きつけられれば、虎男はどうすることもできなかっただろう。彼は「何も話さない」と言ったきり、下を向いて口をつぐんだ。もはや沈黙を守るしか術がなかったのだ。
 刑事はそんな虎男の態度を見て、同日の午前十一時頃に逮捕状を取り、正式に虎男の逮捕に踏み切った。起訴にまで持っていけるという絶対的な自信があったにちがいない。同じ午後には、昨晩一旦帰宅を許していた剛志と星哉の逮捕状も取り、身柄を拘束した。
 三人の逮捕が全国に報じられたのは、その日の夕方のことだった。
 
通夜
 少年三人のうち、最初に罪を全面的に認めたのは、意外なことに虎男だった。
 逮捕当日こそ、彼は口を閉ざして黙秘を貫いていた。だが、翌日には態度を一変させて、「一晩寝て整理がついて、話さなければならないと思った」と言いだし、殺害を示唆する発言をはじめたのである。
 彼はもともといじめられていたことからわかるように、気が弱い性格だ。屈強の刑事たちに囲まれ、逮捕状や多くの証拠を突きつけられたことで、抗う気力を失ったのだろう。ぽつりぽつりと事件にいたる経緯を語りだしたのだ。
 虎男が自白に転じたことで事件の概要が明らかになった。その中で彼が否認したのは殺意だった。河川敷に行った時は、文字通り「フルボッコ」にするだけだと考えていたものの、星哉にカッターを差し出されて引き返すことができなくなり、切りつけているうちに殺害せざるをえなくなったと語ったのである。
 剛志と星哉の取調室での態度はまったく異なった。剛志は当初、事件への関与を頑なに否定していた。遼太を殺害したのは虎男であり、自分は「その場にいなかった」と言い張ったのだ。
 刑事に証拠を突きつけられると、剛志は言い訳をするようにコロコロと証言を変えた。LINEの記録に河川敷に呼び出された記録があることを指摘された時は、「カミソンが血を流して倒れているのを見ただけ」と簡単に証言を翻したという。やがて話の辻褄が合わなくなってきたのか、彼は言い訳をするのをあきらめ、事実を語るようになる。そして、虎男に脅されて複数回にわたって遼太の首を切ったことを認めた。
 最後まで一貫して否認をつづけたのは、星哉だった。逮捕直後、彼は刑事にすがりつくように「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝罪したり、机に突っ伏して大声で号泣したりしていた。反省している様子で、〝完オチ〟するまで大して時間がかからないだろうというのが大方の見方だった。
 予想に反して、彼は事件への関与を一切認めなかった。何を尋ねられても、泣いていた時とは打って変わって頑なな態度になり、「傍で見ていただけ」「一切手を下していない」「切りつけたふりをしていただけ」「上村遼太なんて奴は知らない」と言い逃れに徹したのだ。
 ともあれ、警察署の取調室で、彼らが語った殺害にいたるおおよその経緯は刑事から記者たちへとつたわった。メディアはそれらの情報を毎日くり返すようにして報じつづけた。凶器がカッターナイフだったこと、真冬の川で泳がせたこと、殺害の理由が逆恨みだったことなどが何度もつたえられたのである。それは、人々に事件の凶悪性をつたえるに十分すぎる内容だった。
 テレビ局の記者の言葉である。
「事件報道って犯人が逮捕されたら少しずつ収束していくものなんです。警察から漏れてくる取り調べの内容だってかぎりはありますからね。でも、今回の事件はそうじゃありませんでした。事件の残酷な内容がつたわるにつれて、人々の怒りに火に油を注いだ感じで余計に注目度が増した。特にバッシングがすごかった印象があります。
 ネットには犯人の少年の顔写真や経歴がすべて出ていたので、叩きやすかったというのもあるかもしれません。バッシングは本人だけじゃなく、最初にかばっていた父親などにも飛び火した。こちらも顔写真が流出していたことが大きかったと思います。メディアもそうしたことに便乗して、どんどんニュースを流していった面もあるんじゃないでしょうか」
 犯人に対するバッシングは、ネットを中心にして行われた。個人情報が掲載されたサイトがいくつもでき上っていたため、ネットで犯人たちの詳細を知った人々が、怒りに任せるようにして、掲示板などに書き込みをはじめたのだ。
 そうした発言の中には、人種差別的な内容がことさら多かった。加害少年三人のうち二人がフィリピン人とのハーフであることがことさら注目され、差別発言につながったのである。一例が次のような言葉だ。(原文ママ)
 フィリピーナは切れると暴れて頭がおかしくなるほどくるちゃうんだよ。
 フィリピーナと結婚した人や彼女がいる人がみんな言ってるよ。
 夫婦げんかすると物を壊したりやつあたりしらりひどいらしいよ!
 フィリピン人の遺伝子なんだよ。
 だから子供も切れたらおさまらなくなるんだよ。
 三鷹ストーカー殺人も母親がフィリピン人だよ。

 ヒリピン乞食撲滅
 フィリピン売春婦が日本国籍欲しさにガキ作ったところで
 そんな売春婦がちゃんと教育できるわけねえんだから
 こういう雑種の出来損ないが街にはびこるんだよ
 だからこういう事件は今後も増えるだろう
 安部政権は外貨欲しさに入国ビザを大幅に緩和させてるが
 根本的な問題をもっと考えなきゃあかんよ

 加害少年たちの犯した罪は甚大であり、人々の怒りはもっともだろう。だが、こうした差別的な意見には根拠はまったくなく、時には誤った認識を広めることにもつながる。
 なぜ人種差別的な意見が多かったのか。先の記者は自論を述べる。
「犯行の残酷さがそうさせたんだと思います。報道では、虎男たちが殺すのをためらいながらカッターで切ったという話はほとんどありませんでした。殺すために何回も首を切ったという話になっていた。
 一般の人がそれだけ聞けば、犯人はどれだけ残酷な人間なんだろうと思いますよね。到底、人間のやることじゃないと思う。それでフィリピン人とのハーフならやりかねないという誤った発想になったんじゃないでしょうか。自分とはちがう頭のおかしな連中の所業のせいにした方が受け入れやすかった。それが人種差別的な物言いにつながったのではないかと思うんです」
 新聞社の記者は別の考え方をしている。
「報道の仕方に問題があったと思います。テレビや雑誌は、遼太君が首を切って殺されたことから、イスラム国との比較をしました。加害者がイスラム国に影響を受けてあれだけ残忍なことをしたのではないかって。
 でもこれにはもう一つ意味がある。イスラム国の多くは、外国からやってきた人間たちです。テレビや雑誌がどこまで意図していたかはわかりませんが、そういうイメージが重なったことで、加害者に外国人の血が混じっていることがことさら取り上げられ、差別的なバッシングにつながったんじゃないでしょうか」
 どれか一つというより、様々な社会背景の中で、こうした差別的な中傷が沸き起こったのだろう。
 問題は、犯人への中傷が、インターネットの中での書き込みだけでは収まらなかったことだ。一部の人たちが、ネットに流出した住所を頼りに加害少年の自宅に対して嫌がらせをはじめたのだ。家に中傷の手紙を送りつけるだけでなく、実際に家の入り口についていたポストを破壊したり、コンクリートの外壁に赤いカラースプレーで「フィリピンに帰りな‼(フィリピンに帰りたい)」と落書きをしたりした。
 また、中傷は母親の国籍だけでなく、祖母のそれにまで及んだ。虎男の祖母が韓国の血を引いているという話が広がり、「フィリピン人と韓国人の〝ハイブリッド〟だからこういう事件を起こした」などと言われ、自宅の駐車場に止めてあった乗用車に、ペンキで「KOREA」という文字が書かれた。
 地元の自治体職員は語る。
「川崎は昔から外国人が多かったことから、人権教育が抜きん出て早かったんです。市でも国籍に関係なく平等に生活や学習の機会が得られるようにいち早く条例をつくっていました。地元の住民の間では、目立った人種差別はほとんどありませんでした。
 でも、今回の事件がそれをかき回した感はあります。特に川崎大師の地区に関しては、マスコミがたくさん入って未成年にいろんなインタビューをしたばかりか、ネットでもひどい言われ方をしました。それが原因で小学校や中学校で外国人や外国人を親に持つ子供たちが肩身の狭い思いをすることが増えた。教育機関や福祉機関で、そうした相談が増えたという話も聞きました」
 虎男が通っていた定時制高校にも、在県外国人等特別募集の制度があり、外国人家庭には手厚いサポートが行われていた。決して自治体を含む地域全体が外国人家庭の子供を見捨てていたわけではないし、そういう子供たちだけが特別に問題行動を起こしていたわけではなかったのである。
 にもかかわらず、事件をきっかけに、地域における外国人への風当たりが強くなったのだとしたら、事件に対する不当な批判が外国人差別を生み、地域に悪影響を及ぼしたと言えるのかもしれない。
 
 世間からのバッシングの標的となったのは、加害少年三人だけではなかった。本来は被害者として憐れまれるべき遺族まで巻き込まれたのである。善明自身がそうだった。
 メディアによって加害少年三人の逮捕が報じられた時、善明はほっとすると同時に悔しい気持ちにもなった。それまで数日間、毎日のように町を歩き回って三人を見つけ出し、事件について問いただしたいと考えていた。犯人たちが警察に拘束されてしまえば、それをすることができなくなり、蚊帳の外から見守るしかなくなる。
 家庭裁判所の少年審判までは時間がかかるため、善明は逮捕の報を聞いてから今後の身の振り方について考えていた。その頃たまたま手に取った週刊誌の中に、自分を批判する言葉があった。そこには、「遼太の両親が離婚したのは、善明の暴力が原因だった」という島民の証言が紹介されていた。別の記事には、善明の暴力さえなければ、遼太は川崎に行って事件に遭うことはなかったというような論調で書かれているものもあった。
 こうした記事はネットニュースとして流れたり、一部が切り取られて掲示板などにさらされたりすることがある。ネットではこうした記事を受け、善明に対する批判の言葉も書き込まれた。
 善明は言う。
「西ノ島の社会はものすごく狭いんです。だから、離婚しただけで、あることないこといろんな噂が飛び交う。それは僕と雅子が離婚した時も同じでした。僕はそういうことにかかわりたくないと思う性格なので何を言われても放っておいていました。
 今回取材の人が島の人から聞いた話もそんな類のものだったのでしょう。何度でも言いますが、僕が妻に暴力をふるっていたという事実はありません。離婚したのも長男のことがきっかけです。それなのに、取材の人は事実を確かめずに、面白おかしく僕がDVをしていたと書き立てたのです。
 僕は今回のことがあって雑誌は逆に評価しているんです。特に週刊文春と週刊新潮はちゃんと取材しているなって思う。でも、他の雑誌はそうじゃない。取材した人が適当なことを言ったら、それを確認せずに載せてしまうことがある。彼らは商売でやっているんでしょうが、それをされて困るのは当事者なんです」
 家庭内で起きていたことが本当に家庭内暴力だったのか否か。家族全員の話を平等に聞かなければ、結論を出すのは難しい。
 はっきりと言えるのは、善明と雅子が離婚したのは、事件が起こる四年も前ということだ。善明からすれば、そんな昔の出来事を持ち出されて、なぜ批判されなければならないのかという気持ちになったとしても仕方ない。
 善明は反論したところで、状況が好転するとは思えなかったことから、沈黙を守ることにした。そんな彼の慰めは、長女の舞とのメールのやりとりだった。善明は語る。
「マスコミの心のない記事は、僕だけじゃなく、子供たちをも傷つけます。自分の家族が見も知らない人に文句を言われれば、誰だっていい思いはしないでしょう。特に、あんな事件があった後であればなおさらです。
 その中でも、舞については心配していました。舞はきょうだいの中でも遼太と一番近い存在でした。彼がなんで学校へ行かなくなったのか、夜遊びをするようになったのかということをわかっているはず。きっと誰にも言えないものを一人で背負っていることでしょう。
 僕は子供たちの中で唯一舞とだけはメールで連絡を取っていました。僕も苦しかったけど、舞も苦しかったはず。その中で、短い文字であっても、やりとりできたのは気持ち的にもよかった。
 メールの内容はたわいもないことばかりです。事件に言及したことはありません。『学校はどう?』とか『友達は?』みたいな、日常のことばかり。それでも、つながっていて無事にやっていると知れるだけでよかったんです」
 同じ悲しみを抱えている者同士。お互いにつながっていることを確認するだけで十分だったのだろう。
 そんな善明は雅子に対してだけは、子供たちに抱くのとは別の気持ちを持っていた。今回の事件報道で初めて、善明は遼太が不登校になっていて連日のように夜遊びをくり返していたことを知った。雅子が遼太の面倒をきちんとみていれば、虎男たちとかかわることもなかった。一体なぜ、こんな事態になるまで遼太を放っておいたのかという怒りにも通じる思いがあったのだ。保護者ならば、何かしらの説明があってしかるべきではないか。そう考えていたが、雅子からは説明どころか、何の連絡さえなかった。
 舞から一通のメッセージが届いたのは、二月の終わりだった。司法解剖が終わった遼太の遺体が返されたことで、葬儀を行うことになったのである。雅子は学校関係者や親戚には案内を送っておきながら、善明には何もつたえなかった。それを知ってか知らずか、舞が葬儀の日取りと場所を教えてくれたのだ。
 三月二日の夜、川崎にある斎場で通夜が行われた。善明は案内をうけていなかったが、息子を見送りたいという思いから弁護士に相談して赴くことにした。弁護士もついてきてくれることになった。
 斎場に到着すると、たくさんの報道陣がつめかけていた。「上村家式場」と記された入り口の横には、次のような立て看板があった。
 
「報道関係の皆様へ」
 通夜・葬儀式につきましては家族で温かく見守り執り行いたく存じます。
 誠に勝手ながら入場及び取材はご遠慮願います。  上村家

 報道陣は葬儀への参加を拒まれたため、正面に陣取って撮影をしていたのである。カメラマンたちが最前列に陣取り、同級生らしき子供たちが入っていく度にカメラのシャッターを鳴り響かせる。インタビューを取ろうと、マイクを向けようとする記者たちの姿もあった。弔問客は取材から逃れるように、小走りに会場へと入っていく。葬儀の邪魔になるのは明らかだったが、取材陣は離れようとしなかった。
 葬儀の邪魔をしようとしたのは、報道陣だけではなかった。遼太の知り合いの不良グループのメンバーが押しかけてきたのである。報道陣のカメラを意識してか、彼らは記者たちに向かって「おめえら、何やってんだよ!」と恫喝した。遼太の無念を晴らしたい気持ちを意図的に見せようとしたのだろう。記者たちと小競り合いになったことから、警察が呼ばれてパトカーが駆けつける騒ぎにまで発展した。
 新聞記者は語る。
「告別式の時は、事件とはまったく関係のない高校生がやってきて、式場の光景を撮影してニコニコ動画で配信したことがありました。式場に集まるマスコミや弔問に訪れた遼太君の同級生などを撮影したみたいです。報道陣に対する批判をしたり、その後撮影を中断させられたことで警察に被害届を出すとか言ってみたり。この高校生は、以前にも虎男の家を取り囲む報道陣の様子をニコニコ動画で配信してトラブルを起こしています。あの事件はインターネットでの犯人捜しだけではなく、こういう動画中継も含めて様々な問題を引き起こしていました」
 こうした騒ぎが起きている間、善明は弁護士とともに会場となった二階へ行ったが、遺族席に席は用意されていなかった。遠くには、懐かしい子供たちの顔や、義理の両親の姿が見えた。雅子を気づかっているのか、誰も声をかけにこない。
 過去に何があったとしても、こういう時くらいは挨拶くらい交わしてくれればいいのに。そんな思いがあったが、無理にしゃべりかければ子供たちにまで迷惑がかかるのは明らかだ。善明は一般弔問客に交じって見守ることにした。
 弔問客の中には遼太の同級生らしき制服を着た男女の姿も少なくなかった。何人かでやってきては嗚咽したり、涙をぬぐったりして、焼香台の前で手を合わせている。線香のにおいが悲しいほど漂う。西ノ島に暮らしているはずの親子の姿もあった。わざわざ川崎にまでやってきてくれたのだと考えると頭が下がる思いだった。
 そんな会場の空気を凍らせる出来事が起きたのは少ししてからだった。弔問客の女性がつかつかと雅子のもとへ歩み寄っていったかと思うと、唐突に平手で顔を三回殴りつけたのである。その場にいた人々は何が起きたのかわからずに固まった。
 雅子は叩かれた顔を押さえて叫んだ。
「何にも知らないくせに!」
 そして声を上げて号泣しはじめたのだ。叩いた弔問客の女性はそれを見て、今度は雅子をいたわるように抱きしめた。
 後に判明したのだが、この女性は雅子の知人だった。彼女は雅子が恋人と同棲することで家庭を顧みていなかったことが事件の原因だと考えていたようだ。彼女は「週刊新潮」(二〇一五年三月十九日号)の取材に次のように答えている。
「遼太君の母親に彼が出来たのは、去年の春頃です。そのうち、彼女が住んでいるアパートで半同棲みたいな状態になっているというから、彼女に電話して叱ったんです。“男とはせめて外で会いなさいよ! 子供たちの居場所がなくなっちゃうじゃないの!”と。(中略)それで段々疎遠になっちゃって、あの事件です」
 事件が起きて以降、雅子の保護者としての責任問題を指摘する人は少なからずいた。そうした意見は、雅子が被害者家族ということもあって比較的抑えられていた面もあった。しかし、この一件があってから、マスコミは母親の責任について容赦なく書き連ねるようになった。
 たとえば、葬儀の二日後には「週刊文春」が雅子を糾弾するような記事を出している。次がそれである。
 
 ■捜索願も出さず 上村君のSOSを見過ごした母親の責任
 母親は島で看護助手として働いていたが生活は苦しく、一昨年夏、子供を連れて実家がある川崎に舞い戻った。川崎では、子供たちを自宅から徒歩数分の実家に預け、昼は病院で介助の仕事、夜は再びスナックで働いた。
「気さくな人なのですが、採用面接時にジャージとサンダルで来たくらい常識がなかった」(病院関係者)
 遼太君が少年A(注・虎男)のグループと知り合ったのが昨年十一月頃。その頃から深夜の外出が目立つようになり、時には二、三日、家に戻らないこともあったという。
 彼らの夜遊びを度々目撃していた地元の女性が語る。
「平日の夜中によく見かけたので、『親は知っているの?』と注意したことがありました。そしたら上村君は、『親は何も言わない。ほったらかしだから』って」
 遼太君の妹の同級生の話。
「家に遊びに行くと、遼太君が、『ゆっくりしていってね』と優しく声をかけてくれた。その妹が今年になって、『お兄ちゃんが家に帰って来ない』と心配していました」
 社会部記者が言う。
「まだ十三歳の子供が、事件当日も朝まで帰らなかったのに、捜索願も出していない。気の毒ですが、母親にも責任の一端はある」
 遼太君の遺体が発見されたのは二月二十日午前六時十五分。捜査本部が遺体の身元を発表したのが、翌日の正午過ぎだった。
「遺体が遼太君だと判明した翌日の夜、母親と娘、母親と交際中の彼氏の三人が出歩いていたのを見た。ケロッとした様子だったのでビックリしました」(地元住民)
(「週刊文春」二〇一五年三月十二日号)

 事件の責任問題は、加害者少年三人から善明、そして雅子にまで飛び火することになったのだ。
 マスコミの追跡、世間からの批判、雅子は身も心もボロボロになり、祖父母や子供たちとともに川崎を逃げるように立ち去ることを決意する。公判での意見陳述によれば、彼女は子供たちとともに身元がわからぬように名前を変えて、川崎とは異なる土地でひっそりと暮らしているという。

石井光太Kota Ishii

1977年、東京都生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件など幅広いテーマで執筆。著書に『絶対貧困』『遺体』(ともに新潮文庫)、『祈りの現場』(サンガ)、『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)など多数。近著に『「鬼畜」の家~わが子を殺す親たち~』(新潮社)、『世界の産声に耳を澄ます』(朝日新聞出版)など。

石井光太 公式ホームページ
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本連載終了後 単行本化予定!

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