花火の音だけ聞きながら 第30回





 え〜、なぜか最近は人類の負の歴史の本ばかり読んでいました。発端はたぶん「暴力の人類史」(スティーブン・ピンカー)という本だったんですが、人類が有史以来、どれだけの人間を虐殺して来たかということを、上下に分けて、これでもかこれでもか、と書いています。とは言え、聖書に出て来ることまで書いているので、日本人はちょっと面食らう。ひとまず、上の半ばまで読んだんですが、なんだかこれは人類の暴力を糾弾しているのではなく、「暴力好き」の人向けに書かれた本のような気がして来て、ちょっと趣旨がちがうんじゃないかと思い、読むのをやめました。帯の推薦文をビル・ゲイツがやってたんでイヤな予感がしたんですが。
 次に読んだのが、「ブラッドランド」(ティモシー・スナイダー)。これも上下の大書です。もううんざりするぐらい、スターリンとヒットラーがやった残酷虐殺阿鼻叫喚の地獄絵図を書いています。少し鬱気味になったぐらいです。
 それから「奴隷船の歴史」(マーカス・レディカー)。アングロサクソンというか、ヨーロッパ人というかが、アフリカ大陸に渡って、黒人を追い回し、捕らえ、監禁し、虐待し、奴隷化し、なにをして来たかを書きつくす、上下2冊ではなく、上下2段の大書。上下2段の本など、最近は最後まで読んだことなかったんですが、これは読破しました。なぜ読破したかというと、この種の本はもう二度と読まなくてもいいようにと思ったからです。とかなんとか言いながらも、今は「虜囚」(リンダ・コリー)という、移民や侵略や戦争で、異国に囚われてしまった人々が、どんな目に合ったかを書いた本まで読んでいるのはどういうわけか。
 私は人類の暴力癖に憑りつかれてしまったんでしょうか。その勢いが止まらず、名古屋闇サイト殺人事件を描いた「いつかの夏」(大崎義生)まで読んでしまう。この事件のことが忘れられず、新刊が出た時に買ってはいたのですが、読むのに怖気づいていた。読んだら、心底うんざりしました。罪を憎んで人を憎まず、とか言いますが、そんなことを言ったのも人間です。自分で言うのは勝手過ぎると毒づくのは、まだ「勢い」が止まっていない証拠かもしれませんが。
 私が憑りつかれるのは、虐殺し殺しまくった人間の方ではなく、殺された側の人間です。誰にも知られずに、誰にも見取られることもなく、なんの記録も残されないまま死んで行った人間が、有史以来どれだけいたことか。人類の90パーセント以上がそんな人だったはずで、ましてや虫や魚や他の生き物のことまで考えると、まったく絶望的な気持ちになります。命や生命はほんとに尊いものなんでしょうか。尊いなどと言っているのもまた人間だけなんですが。
 マーチン・スコセッシの映画「沈黙」も観ましたが、信仰がどうのこうの以前に、名も知れぬ農民たちの絶望的な暮らしぶりの方に目を奪われてしまいます。ドロドロにぬかるんだ道、隙間だらけの掘っ立て小屋、食う物さえなく、ただ寒さに震えて、信じられるものなどなにもない人生。どうせ信じるなら、天国を来世を神様をと思うのは当然です。まさしく信仰はこういう世界からはじまったのでしょう。
 私は、常々、この世に生まれて来たこと以上の奇跡はないと思っている者ですが、それは、1955年の日本に生まれ、2017年の日本で生きているからだとも言えます。世界を見渡すと、この世に生まれた奇跡どころか、生まれて来たことさえ呪う人々で溢れているはず。この前、そば屋で、嫁さんと娘に向かって「なにがラッキーって、今の時代の日本に生まれたことぐらいラッキーなことはないよ」と説いたことがあります。二人とも口にそばを含みながら、うなづいていました。
 たとえ日本であっても、これが江戸時代だったらどうか、ましてや戦争中の日本だったら。まったく70年以上戦争をしなかった国というのはたいへんなものです。まるでガラパゴスです。ガラ国です。日本人は、その価値と意味を忘れ、ヘロヘロしがちですが、それでもヘロヘロ出来るだけマシなんじゃないでしょうか。3.11と福島原発のその後、劣化し続ける政治家、世界に溢れるテロ、相模原障害者殺傷事件、広がるばかりの格差、トランプだのドゥトルテだの金正恩だの正男暗殺だの、そうした時代においてもヘロヘロしていられるのか、私はヘロヘロしててもいいと思います。ヘロヘロ出来るうちは。
 我々の目指すべき世界などあるのでしょうか。私は、ジョン・レノンが歌うところの「イマジン」の世界を、いい世の中だとは思いませんが、ただひとつ、戦争だけはしてはならないでしょう。戦争するぐらいなら逃げるしかない。だから難民は受け入れられなければならないと思いますが、移民と難民の受け入れを拒否している日本人だけに、トランプを責められない。アメリカ人は、ひとまず移民や難民となんとかやっているとして、私はあまり自信がないです。移民や難民が入国して来たら、ヘロヘロしていられなくなる恐れがある。あぁ、いつまでもヘロヘロしていられたら。漫画なんか描いていられたら。
 先日、朝の散歩から帰って来たら、自宅の玄関のところに、鳥がうずくまっていました。なんという鳥かはわかりませんが、鳩よりはちょっと小さいぐらいの鳥です。
 ケガでもしたのかと思い近づくと、バタバタともがくだけで、飛べそうにない。見ると、園芸用の細かいネットが体中に絡みついています。体を転がしながら逃げて行く鳥を、なんなく捕まえると、手袋をした私の手をくちばしで突き、必死に噛んで来る。ネットはどこがどう絡んでいるのかわからないぐらいグチャグチャで、相当長い間もがいていたのか、肉にさえ食い込んでいるように見える。ひとまず羽の根元のところのネットを外してやると、その途端にバタバタと私の手から逃げて行く。まだ飛べそうもないので、難なく追いかけて捕まえると、鳥がもがいた拍子に、ついシッポを掴んでしまった。すると、その尾羽は、捕まるぐらいならシッポなんかいらないとでもいうように、もろい飴細工の如くポキポキと折れてしまうのでした。
 私がギョッとひるんだ隙に、鳥は飛び立ち、低空ながらもフラフラと家の間を飛んで行ってしまう。手に残った尾羽を持ちながら、私は呆然と鳥を見送っていました。ネットが絡まった体と、ちぎれてしまった尾羽では、どこまで飛べるものではない。きっと近所の家の庭や路上にまた落ちてしまう。一瞬、探しに行こうかと思いましたが、面倒なのでやめました。まだ2月です。2、3日は生き延びられても、そのうち死んでしまうでしょう。昼に死ぬにしろ、夜死ぬにしろ、鳥は時々もがきながら、だんだんと動かなくなり、そのうち、口を開けたまま、瞬きもしなくなる。
 いったいその時の鳥はどんな感じなのか、想像するだけでも、胸が詰まります。私はいい人ではないし、いい人でありたいとも思わない人間ですが、その瞬間のことを考えると、生き物の持つ「必ず死ぬ」という運命の過酷さは圧倒的です。何年だろうが、何日だろうが、この世界に生きていたものが、ある日、死体という痕跡以外、なにも残さず消えてしまうというのは、不思議でしょうがない。生まれて来たのと同じぐらいの奇跡のように思えます。そして、そんな奇跡が、いったいいくら繰り返され、これからまた繰り返されて行くのか。まったくこの星はとんでもないところだと思います。
 生き物は、なぜ生きているのか。死にたくないから、と言うのは一番ありうる理由ですが、では、なぜ死にたくないのか。人は幸せではなくても、どれほど悲惨でも、余命3ヶ月だと言われても、死んだ方がマシだ、と言いながらも、まだ生きている。やり残したことがあるのかもしれないし、誰かを悲しませたくないのかもしれない。しかし、それ以外の自律的な衝動があるのではないか。
 人を本にたとえる人はいます。一日一日がページをめくるということに対応しているとして、朝、目を醒ますことは、新しいページをめくるようではある。しかし、自分がその本を書いているという気はしないものです。我々が、毎日生きることによって、その本が書かれて行くという感覚ではなくて、すでに書かれてある一冊の本のページを、めくるように生きているようである。つまり、我々は読者なのです。だから次のページがあるのなら、めくらずにはいられないし、きっとめくるでしょう。次からのページが、どんなにつまらなくても、地震の話でも、原発のことでも、たとえ戦争がはじまるとしても。
 そうであるならば、いったいその本を書いたのは誰なのか。私は、そのことばかり考え続けて来たような気がします。


 

いがらしみきお

1955年、宮城県生まれ。仙台在住。1979年、漫画家デビュー。『ネ暗トピア』『さばおり劇場』などの過激なギャグで圧倒的な支持を得て、83年日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。86年から開始された『ぼのぼの』は、ベストセラーとなる。ほかの著作に『忍ペンまん丸』、『Sink』、『かむろば村へ』、『I(アイ)』など。

■受賞暦
1983年:
第12回日本漫画家協会賞優秀賞 (『あんたが悪いっ』)
1988年:
第12回講談社漫画賞 (青年一般部門 『ぼのぼの』)
1998年:
第43回小学館漫画賞 (児童向部門 『忍ペンまん丸』)
2009年:
平成21年度宮城県芸術選奨
2011年:
カルチャー誌『フリースタイルVol.17』の「このマンガを読め!THE BEST OF MANGA 2012」に『 I (アイ)』が第一位に選出











≪前
トップに戻る