花火の音だけ聞きながら 第29回





 また年が明けてしまいました。仕事始め直後に、アシスタントがひいたカゼを、その日のうちにもらってしまい、正月早々ダウン。私はカゼをひいても、めったに熱は出ないのですが、今回は38.2℃まで行きました。アシスタントは39℃まで行ったとか。インフルエンザだと思って病院に連絡したら、インフルの場合、発熱してから24時間経たないとはっきりしないと言われ、連休前の週末だったこともあって、しょうがないからその日は寝てるしかありませんでした。
 こんな熱は20年ぶりぐらいで、ベッドの中でウトウトしても、目を醒ますと、「あ、寝てたんだ」という感覚があるものなのに、今回は、目が醒めても頭の中が真っ白の時がありました。寝ていたというよりは、ホワイトアウトしていたというか、気を失っていたのかもしれない。怖い怖い、なんだか気持ちも悪くなったので、無理して起き上がって、朦朧としたままテレビ観てたりしました。実は、これを書いている段階でもまだ治り切っていなくて、咳だけは出ます。
 私はカゼをひくと、最低2週間は治りません。3週間ひくのはふつうで、いつだったかはひと月以上、ハナをかんだり、咳をしたりしてました。さすがにその時は、医者に行きましたが、「いつひいたんだ」と聞かれて、「一ヶ月ぐらい前」と言ったら、いつも小声でボソボソ物を言う医者が、そのあとは、さらに小声になってしまい、難聴者の私の耳には声さえ聞こえなくなりました。
 そうそう、今回はめずらしくマスクをしましてね。私はメガネを掛けているし、両方の耳に耳掛け型の補聴器もしているので、その上にマスクすると、たいへんなことになります。マスクかメガネか補聴器のどれかひとつをを外すと、他のものも全部絡まって来る。いつだったか、映画館に行って、3Dメガネまで掛けたら、耳がもげそうになりました。
 それでマスクには二の足を踏んでいましたが、どうも咳が治まらないので、ひさしぶりにしてみたら、なんだか好ましい。なにより、いつも午前中は鼻が詰まっている日が多いんですが、それがなくなりました。とは言っても、それはマスクの影響とばかりとも言えなくて、年が明けたら仕事場のエアコンも壊れたので、不動産屋に電話すると、「たぶんすぐには直らないので、応急処置としてストーブと石油を持って行きます」と言う。つまり、今は石油ストーブで暖をとっているんですね。ひさしぶりです。
 化石燃料なので、エアコンよりは空気の乾燥がない。それもよかったんでしょうか、なんにしろ鼻が詰まらないのはいいことなので、今もマスクをしたままです。そうなるとマスクも手放せなくなり、すでに軽いマスク依存症に。マスクしてないと落ち着かない人の気持ちもわかります。一番着け心地のいいマスクまで研究したりして。マスク代だけでもう3千円ぐらい使いました。
 去年のこの欄の文章を調べてみたら、正月早々、パーティ―とかやってたんですね。そうそう。あれからもう1年たったとは。確かその文章に「潮目が変わった気がする」と、書いたと思って確認したんですが、そんなことどこにも書いてない。書いたあと消したのかもしれませんが。
 1年ぐらい前から、なにか「変わったな」と感じるものがありました。それは安保法制がどうとか、テロだらけとか、イギリスがユーロ離脱するとか、トランプが大統領になったとか、ドゥテルテがガム噛んでるとか、そういう問題ではなくて、あくまで個人的な感覚みたいなものです。その、潮目が変わった感覚はどうなったのかというと、まだします。継続中というか、さらに悪くなったというか。
 実は、こんな感覚にとらわれたのははじめてではない。一番最初は、今から30年ほど前、私が結婚する直前の頃、当時、飼いはじめたばかりの子猫が体調を崩してしまい、医者に連れて行ったその夜に、私の手の中で死んでしまった時にも感じました。まるで世界には私とその猫しか存在しないような時間でしたが、唐突に、「最近リアリズムに囲まれて来たなぁ」という言葉が、私の頭の中に浮かんだ。ネコとはなんの脈絡もない言葉だったので、ちょっとびっくりしたんですが、その頃、どうも自分の頭の中でなにかが変わった感があった。それはなんというのか、いろんなことのクオリアを感じなくなったというか、う〜ん、これをどう説明すればいいのか。まったく言葉というか、「他者」というのは厄介です。なにをどう言おうが、人は「自分」のことしかわからないのに。
 クオリアというのは、「感じ」と言えばいいんでしょうか。人は、赤をイメージすると浮かんで来る「感じ」があるわけなんですが、それがみんな同じかどうかはわからないし、「そんなものない」という人もいるでしょう。私の場合は、緑をイメージした時の「感じ」はいつも不変なので、これは動かしがたいものなんですが、その「感じ」を、他のみんなも感じてるかどうかはわからない。私に言わせれば、クオリアこそ人の記憶そのものです。なぜって「他者」には絶対にわからないものだからです。
 その頃の、クオリアを感じなくなったという状態は、子どもの時から、あらゆるものに感じていたクオリアを、あまり感じなくなったと言えばいいのでしょうか。山を見れば山の感じ、空を見ると空の感じ、水の匂いを嗅ぐと水の感じ、どこかの風景を思い浮かべると、そのクオリアもはっきりと感じるし、ましてや好きになった女の子のことを思うと、めちゃくちゃリアルなクオリアに翻弄されます。
 クオリアは、恋愛だけではなく旅情とも密接に結びついていると思うのですが、それもまた他人のこととなるとわかりません。私は、どこかの街角を思い浮かべると、そのクオリアに突き動かされて、フラフラとそこに行ってしまいたくなるし、今すぐ行こうと思えば行けるところだと、ほんとに行ってしまったりします。行ってどうするかというと、「あぁ、あった」とか、「さっき考えてたあそこに今いる」とか思うだけなのですが、その時、世界のインタラクティブさに気がつきます。世界は不思議です。よくもこんなものを創ったものだと思います。誰が創ったんでしょう、こんな世界。誰かが創ろうと思って創れるものではないですが、誰かが創ろうとしないと創れないものじゃないでしょうか。
 と、そんなことを思いながら生きて来たわけですが、その強烈なクオリアをあまり感じなくなった時、なんだか喪失感がありました。それが「リアリズムに囲まれて来たなぁ」という言葉に繋がったのだと思います。それが1度目。2度目はそれから5年ぐらいして、子どもが生まれた頃でしょうか。
 遠くに見える山の姿は、私にはいつも「未来」として見えていたのですが、いつからか「過去」になっていた。なんのことかわからないでしょうね。しかし、ほんとなのです。私は山を見ると、いつでも「行く方向」と捉えていたのですが、それがいつからか「来た方向」になっていて、この時も、ちょっとショックでした。今ではどんな山を見ても「来た方向」にしか見えません。なんだか恣意的というか、わざとらしいですが。
 それで今回が3度目。いや、4度目かも。ちょっとした3度目もありました。その3度目というのは、家やビルや街の灯りを見ると、「あそこには誰がいるんだろう」的なクオリアがあったのですが、10年くらい前からそれがなくなった。10年前になにがあったのかももう思い出せませんが。
 それで今度が4度目、今回はどうなったかと言うと、それまでは好きでやっていたこと、映画を観る、サッカーを観に行く、どこかへ行く、音楽を聴く、そういう欲求がなくなっています。一番劇的だったのは、フィクションに対して興味がなくなったことです。映画、小説、漫画、なんだか全滅に近い。それは自分の仕事を考えると、マズいんじゃないかと思うんですが、自分で作る分にはまだまだムキになります。むしろ、最近はあまりムキにならないようにしているぐらいです。
「潮目」とか言っていますが、要するにこれはただの老化現象なのではないか。だとしたら、ダメになるものはダメになるし、失うものは失う。そこから逃げられる人はいないし、私も逃げようとは思いません。そのうち漫画を描けなくなるどころか、描こうとさえ思わなくなくなるんでしょう。
 しかし、希望はあります。毎朝起きると、ストレッチし、ヨガの真似事をし、瞑想のようなことをします。その瞑想のような時間に、自分の中から言葉を追い出してしまう。その時、あらゆるクオリアが受信可能のような状態になります。それは自分の頭が世界でただ一人になるというか、自分と世界が一対一の状態です。その時に窓から見える夜明けの空は、生まれたばかりの言葉さえ知らなかった頃に見たそれのようです、と言うと、私の気のせいかもしれませんが。
 思えば、人の一生というのは、「自分」からはじまって「他者」へと向かう、その物語のことではないでしょうか。しかし、年をとると、また「自分」へ帰って行く、なんだかそう思います。私も自分へと帰りつつあるのかもしれません。


 

いがらしみきお

1955年、宮城県生まれ。仙台在住。1979年、漫画家デビュー。『ネ暗トピア』『さばおり劇場』などの過激なギャグで圧倒的な支持を得て、83年日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。86年から開始された『ぼのぼの』は、ベストセラーとなる。ほかの著作に『忍ペンまん丸』、『Sink』、『かむろば村へ』、『I(アイ)』など。

■受賞暦
1983年:
第12回日本漫画家協会賞優秀賞 (『あんたが悪いっ』)
1988年:
第12回講談社漫画賞 (青年一般部門 『ぼのぼの』)
1998年:
第43回小学館漫画賞 (児童向部門 『忍ペンまん丸』)
2009年:
平成21年度宮城県芸術選奨
2011年:
カルチャー誌『フリースタイルVol.17』の「このマンガを読め!THE BEST OF MANGA 2012」に『 I (アイ)』が第一位に選出











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