2月27日更新 第12号

俳句×ショートショート 五七五の小説工房

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ようこそ。ここは「五七五の小説工房」です。
この工房では、皆さんからお寄せいただく俳句をもとに、俳人の堀本裕樹さんとショートショート作家の田丸雅智さんが、言葉の職人として、とっておきのショートショートを生み出します。

なお、今回は「五七五の小説工房」にお越しいただいている皆様に大切なお知らせがございます。ページの一番下をご覧下さい。

さて前回は、第5回俳句募集の選句結果を発表しました。お題は「河豚(ふぐ)」「冬の星」と自由題でした。

今回は、堀本裕樹さんによって特選と秀逸に選ばれた俳句のなかから二句を題材にして、田丸雅智さんがショートショートを生み出します。
はたしてどの句が、どのような小説に変わるのでしょうか。それでは田丸雅智さん、お願い致します。

題材の句
花占ひのやうにふぐ刺し食ひにけり かるかるか

占う料亭

田丸雅智


 朝礼で成績優秀者の名前が呼ばれはじめ、やっぱり今月も涼子さんが抜群の成績でトップになった。みんなからのいろんな感情のこもった視線を颯爽とかわし、涼子さんは何事もなかったかのように出かけていく。
 その姿が消えたのを合図にして、営業部は止まっていた時間が動きだしたかのごとくせかせかしだす。電話でアポ取りをはじめる人。飛びこみ営業に出ていく人――。
 涼子さんのことは、部の至るところでしばしば話題になっていた。ただ、その声のほとんどは嫉妬ゆえのものだった。
 何しろ、取ってくる契約の数自体は毎月四、五件ほどなのに、そのすべてが必ず大口契約なのだ。
 いったいどうやったら、こんな成績をあげられるのか。何か卑劣な手段を使っているに違いないという邪推が社員の間で飛び交っていた。
 収入のことを口にする下世話な社員もいた。歩合制のうちの会社は、成績に応じて収入が増えるようになっている。あれだけの成績なら、さぞ収入もすごかろう。露骨に金額を推測しあって、品のない笑いを浮かべる人たち。
 涼子さんのことを、まるで目の敵みたいにしている人間もいる。キャピキャピした女子社員たちだ。あの人みたいな仕事人間にはなりたくないね。恋とか結婚とかとは無縁じゃない。ああいう人がいるせいで、みんなのノルマも増えるのよ。そう囁きあう声が耳に入ることもある。
 わたしは絶対、そんな会話には加わらないと決めている。それよりも、若手の自分はやるべきことがほかにある。
 わたしにとって涼子さんは憧れの人であり、目標だ。寄り集まって余計な口を叩く時間があるならば、少しでも近づけるようにがんばりたいと常々胸に秘めている。
 ただ、そうは言いつつ結果が伴っていないのが痛いところだ。
 わたしはいつも、出社すると書類を整理して外回りへと出発する。あらかじめエリアを絞り、訪問する会社の名前をマークしておく。そして正面玄関からドアノック……をするのだけれど、大抵が受付で門前払いされてしまう。名刺だけでもと無理やりそれを置いてきても、連絡をもらえたことなど一度もない。
 そんなだから悲しいかな、成果なしで帰社をするのが習慣みたいになっている。ごくまれに取れる小口の契約のおかげで最低限は維持しているが、成績は中の下か、下の上あたり。そして月に一度、朝礼で成績優秀者の知らせを聞いて、ふがいなさに落胆する――。
「どうしたの? 暗い顔して」
 わたしが朝礼からの外回りを終え、契約を取れずに帰社した夕方だった。どっと疲れて休憩スペースに座っていると、不意に声を掛けられた。
「りょ、涼子さん!」
 その姿を認めると、わたしは恥ずかしさで咄嗟に俯く。涼子さんとは何度も仕事上のやり取りをしたことはあったけれど、いつも憧れと情けなさが相まって、面と向かって話したことはほとんどなかった。ましてや、声を掛けられたのなんて初めてで、どうリアクションをしたものか戸惑ってしまった。
「なになに、急に挙動不審になったりして」
「あ、いえ……」
 言葉が出ないままでいると、涼子さんはコーヒーでも飲まないかと誘ってくれた。頷くと、自販機から出てきた温かい缶を渡してくれる。
「で、どうしたの。なんか悩みでもあるんじゃない?」
 ズバリと心の内を見透かされて、なおさら困った。
 けれど、またとないチャンスじゃないかと奮い立ち、迷った末に腹をくくる。
「あの……」
 わたしは涼子さんに思い切って吐きだした。
 自分の営業成績のこと。空回りする仕事への思いと、冷ややかな周囲からの視線。そして、涼子さんに憧れる気持ち……。
 缶コーヒーを傾けながら静かに聞いてくれたあと、涼子さんは口を開いた。
「そんなに思い詰めることじゃないよ。まだまだ若いんだしさ」
「でも……」
 しばらく溜めて、口にする。
「わたしこの仕事、向いてないんじゃないかって……涼子さんを見てても、経験じゃ埋められない差があるんじゃないかってすごく感じてしまいますし……」
 涼子さんは何も言わずに聞いてくれる。
「何をしても、いつまでたっても、涼子さんみたいにはなれないなって」
 すでに自制は利かなかった。ただの情けない愚痴だと自覚しつつ、溢れてくるものを止めることはもはやできない。
「もう、わたし、どうしたらいいか……」
 最後は意図せず、嗚咽混じりになっていた。
 気まずい沈黙が場に満ちる。
 やがて涼子さんが、ぽつりと言った。
「……まあ、教えてあげてもいいかな」
「えっ?」
 小さい声だったので、空耳かと錯覚した。
 涼子さんは、今度ははっきりした声で言う。
「えっとね、あなたになら教えてあげてもいいかなって。なんか、ほかの子たちとは違って気も合いそうだし」
 わたしは尋ねる。
「教えるって、何をですか……?」
「わたしの営業成績が、トップな理由」
 あっけらかんと言い放つ涼子さんに、わたしはきょとんとしてしまう。
「ある意味、期待を裏切ることになっちゃうんだろうけどね。別にわたし、実力だけでここまで来たわけじゃないからさ」
 途端にわたしは不安になる。となると、飛び交う噂は本当で、涼子さんは何かよくないことをしているのだろうか……。
 固まっていると、すかさずつづけた。
「ま、いかがわしいことじゃないから安心して」
 そして涼子さんは悪魔的な微笑みを浮かべて言う。
「ふふ、気になる?」
「……はい」
「素直でよろしい」
 涼子さんは、くしゃくしゃっとわたしの頭を撫でた。
「そういうところ、嫌いじゃないよ。ってことで、行こっか」
「行くって、どこにですか?」
 立ちあがった涼子さんに、慌てて尋ねる。
「秘密、知りたいんでしょ? だったらほら、すぐに帰る準備ッ!」

 涼子さんに連れられて立ったのは、一軒の小さな店の前だった。
「さ、入って入って」
 雰囲気のある暖簾には【福々亭】と書かれてある。それをくぐると、和服姿の女性が待っていて、丁寧に頭を下げて迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
 その所作は、いかにも料亭といった感じの洗練されたものだった。
 女将と思しきその人に案内されて、座敷の部屋に通される。襖に描かれた山々が美しい。
「それじゃあ、いつものコースでお願いします」
 涼子さんは女将に告げた。
 女将は下がると、しばらくしてから前菜を運んできた。
「おいしい……」
 わたしは文句なしの味に舌鼓を打つ。
 ただひとつ、気になったのは涼子さんの考えだった。
 涼子さんは、営業成績が良い理由を教えてくれると言っていた。ここに連れてこられたのは、その秘密がこの店にあるからなのだろう。でも、いまのところ変わった点は見つからない。
 まさか涼子さんに担がれていて、要はおいしいものでも食べてリフレッシュしろということだろうか? それともこの店に、やはり別の何かがあるというのだろうか……。
 答えは後者であることが、間もなく分かる。
 やがて運ばれてきた一品を見て、わたしは思わず小声をもらした。
「うわぁ……」
 涼子さんと自分の前に、小皿がそれぞれ差しだされた。載っていたのは、花のように盛られている半透明の薄いもの。間違いない。それはフグの刺身だった。
 フグを食べるのなんて、いつぶりだろう……。
 女将が下がると、涼子さんが口を開いた。
「これがね、わたしの秘密」
「フグが、ですか……?」
「そう、ここの店のフグ刺しは絶対、あたるからね」
「あたる!?」
 わたしは叫ぶ。
「あたるって、えっ、毒にですか!?」
 フグに猛毒があることくらいは知っている。正しく調理しないと命の危険もあるはずだ。
「まさかまさか」
 涼子さんは笑った。
「あたるのは毒じゃなくて、占いね。これでね、フグ占いっていうのをやるってわけ」
「フグ占い?」
「昔やったことない? 花占いを」
 花占い……何十年ぶりに聞いた単語だろうと思いながらも、頭の中に小さいころの記憶が浮かんできていた。
 マーガレットやデージーなんかを摘んできて、花びらを順番に千切ってやるのだ。たとえば、好きな人のことを想像しながら。
 好き、嫌い、好き、嫌い……。
 そうして最後に残った花びらがどちらになるかで、相手の気持ちを占ったものだった。
「花占いって、あの、ですか?」
「そう、あの」
 涼子さんは頷いた。
「これはね、大人版の花占いみたいなものなの。こうして盛られたフグ刺しって、なんだか花みたいでしょ? 要領は花占いとおんなじで。営業がうまくいくか、いかないかを、この刺身をひとつずつ食べていって占うわけ。大口契約が狙えそうな会社名を頭に思い浮かべながらね。最後のひと切れで吉と出れば、飛びこみ営業をかけてしまう。ダメだと出れば、やめておく。たったそれだけ。これが、わたしの営業術なの」
「……ほんとですか?」
 俄かには信じがたい話だった。営業の成否を占いで決めているだなんて。ましてや、フグの刺身などで。
「でも、なんでフグなんですか? 占うだけだったら、別に花占いでもいいような……」
「いい質問ね」
 涼子さんはこんな話を語ってくれた。
 どうやらこの店は、おもに女将と、その旦那さんである板前の二人で経営している店らしい。板前は下関をはじめとして、各地の名店で修業を積んでフグの調理法を会得した。やがて独立することを決め、開業したのがこの店だった。
 が、開店当初は客が入らず、すぐに経営が傾いた。
 ついに、もうダメかと精神的にも追い詰められた、ある日の夜。
 女将はまかないの――正確に言えば売れ残ったフグの刺身を前にして、不意に思った。このまま店をつづけていくべきかどうかを、花占いみたいにフグで占って決めようと。
 女将は、商売がうまくいく、うまくいかない、と呟きながら、ひと切れひと切れ、こわごわ口に運んでいった。そして最後のひとつで出た結論が、うまくいく、というものだった。
 客が増えはじめたのは、その翌日からだった。偶然訪れた客が広めてくれて、常連客もつきだしたのだ。以来、客は増え、今日まで安定した状態がつづいているのだという。
「いまでも女将は大事なことを決めるときは、フグ占いで決めてるみたいね。でも、ほかの店のフグ刺しだと、どうもうまくいかないらしくて」
 刺身というのは、刃の入れ方で性質がまったく違ってくるものだ。
 女将が旦那さんに尋ねると、彼には刃を入れるべき自分流の「目」が見えるのだと言った。それを聞いて女将は思った。正確なところは不明だけれど、きっとその刃の入れ方が関係して、店のフグ刺しに不思議な力が生まれているのだろうと。
「で、その話が口伝えに密かに広まって、いまではここは知る人ぞ知るフグ占いの店でも通ってるの。じつはわたしにもね、あなたみたいな時代があって。何をやっても空回りしてたっていうか。そんなときに、いまは退職した憧れの先輩に教えてもらったのがこの店だったの」
 そう言うと、涼子さんはビールを呷って口を拭った。
 わたしは話についていくのでやっとだった。
 けれど、ちょっと待てよと口にした。
「あの、涼子さん……無粋かもしれませんけど、これって、はじめから刺身が何枚あるか数えておけば結果をどうにだっていじれるんじゃないですか……?」
「もっともね。でも、これ見てちゃんと数えられる自信ある?」
 涼子さんは皿を差す。
「……なるほど」
 わたしは遅れて理解した。刺身は皿の模様が透けるほど薄く、しかもそれぞれが重なりあっている。これでは数え間違いをする可能性大で、それなら二分の一の確率で占うことと大差ない。
 涼子さんは口を開いた。
「ま、あんまりおしゃべりしてるとフグが乾いちゃうから、とりあえず食べましょう」
 箸を持つよう促される。
「あなたも営業なら、自分なりの新規顧客リストくらい頭に入ってるでしょ? その中で大口契約が見込めそうなとこを思い浮かべながら、ひと切れずつ食べてって。うまくいく、いかない、うまくいく、いかない……こんな感じで」
 目の前で刺身を食べはじめた涼子さんの真似をして、わたしもフグを口に運ぶ。
「うまくいく、いかない、うまくいく、いかない……」
 結果ばかりが気になって、どんどん箸を進めてしまう。
「ちょっとちょっと、そんなに早く食べちゃったら、せっかくのフグが台無しじゃない」
 そう言われて赤面する。
「でもまあ、初めての占いだったら味わう余裕なんてないか」
 笑われながら、わたしは再び食べはじめる。
 うまくいく、いかない、うまくいく、いかない……。
「あー」
 やがて涼子さんが声をもらし、同時にわたしも肩を落とした。
「残念!」
 最後の一枚になったところで、占いは「うまくいかない」というほうを示してしまったのだった。
 落胆するわたしに向かって、涼子さんが励ましの言葉をかけてくれる。
「こういうときは、切り替えが大切ね。その会社に行ってもダメなことが先に分かったんだから、プラスにとらえて浮いた時間で別の会社を回ればいいよ」
 そう言いながら、涼子さんもゆっくり刺身を食べていく。
「うまくいく」
 おいしいなぁとひと口ずつ顔をほころばせながら、平らげる。
「うまくいかない」
 またパクリ。
 しかしわたしは、そのうち途中で気づいてしまった。刺身を数えるのが難しいのは、最初だけだということに。
 つまりは食べ進めて数が減ってきたいま、残った刺身を数えるのなんて簡単だった。
 残りは六枚。このまま行けば、最後の一枚は「うまくいかない」になってしまう。
 これで涼子さんもアテにしていた会社がダメだと分かって、別の会社を訪問するってことなんだな。
 そう思った瞬間だった。涼子さんは素早く動いて声をあげた。
「うまくいくッ!」
 そう言うと、涼子さんは残り六枚のフグの刺身を箸で一気に、サァッとさらって口の中に放りこんだ。
「うまーいッ!」
 呆気にとられているわたしの前で、涼子さんはおいしそうにフグを頬張る。
 こちらの心情を察したように、涼子さんは笑顔で説明してくれた。
「ふふ、その手があるなら先に言ってよって顔してるね。まあ、初心者への洗礼ってことで。せっかくここまで来て高いお金を払うんだから、ただ占って失敗を事前に防げました、ってだけじゃつまんないでしょ?」
 そういえば、と、わたしは花占いのことを思いだす。たしかに占っている途中で結果が望ましくないものだと判明すると、自分に都合のいいようにまとめて花びらを千切ったりしたものだ……。
「これでいっちょ、大口契約のできあがり。ズルだなんて言わないでね」
 フグを平らげた涼子さんは、満足そうにお腹を撫でる。
「ちなみにね、うちの会社は成績がいいと報酬も増える仕組みでしょ? その増えたお給料でこうやって、またおいしいフグを食べに来られるってわけ」

終わり
題材の句
冬星や残り香は餞のごと 夕子

香りの保存師

田丸雅智


 両親を駅まで見送ると、青年にとって生まれて初めてとなる一人暮らしがはじまった。地方の高校を卒業し、進学のため上京したのである。
 しかし、新しい部屋に戻ってくると、途端に寂しさに襲われた。そこここにまだ、先ほどまで引っ越しを手伝ってくれていた両親の気配が感じられる。二人が部屋に残していった実家の香りは、かえって別の場所にやって来たのだという実感を強めさせた。
 がんばりよ。しんどくなったら、いつでも帰ってきたらええけんね。
 母親の言葉を思いだし、青年はその残り香を胸いっぱいに吸いこんだ。励ましの声が、寂しい気持ちを上回った。

 青年が進んだのは化学系の学科だった。彼は数多の新入生に交じり、シラバス片手に慣れないキャンパスを右往左往した。
 サークル勧誘の嵐の数日をやり過ごすと、穏やかなキャンパスライフがはじまった。ただ、それに慣れはじめたころ、青年も例にもれず五月病に見舞われた。実家が恋しい。その気持ちは膨れあがり、連休がくると彼はいそいそと帰省した。
 実家の香りは、青年を深く安心させた。
 一人暮らしをはじめたいまだからこそ、分かることもたくさんあった。食事や掃除、お金の管理の大切さ。自分はこれまで両親に守られていたんだなぁと、感じざるを得なかった。深い感謝の念と同時に、実家で暮らすのが当たり前だった日々は、もう二度と戻らないのだな。そんな考えが湧いてきて、自然とベッドに涙がこぼれた。
 東京に戻ってしばらくすると、母親が洗濯してくれた衣類に残っていた香りも、やがて消える。それに伴い、青年はキャンパスライフになじんでいった。
 彼はサークルには所属せず、同じ学科の友人と遊ぶことを好んだ。そのうち初めての恋人もでき、楽しく充実した大学生活を送っていった。
 夏休み、冬休み、春休みと、青年は長い休みがくるたびに帰省した。
 ただ、高校までの友人とは卒業してからほとんど連絡を取っておらず、帰省しても何をするわけでもなく、単に実家でぼんやり過ごすだけだった。同級生の中にはその暇に嫌気がさし、帰省を見送る者もだんだん多くなっていった。けれど青年は実家での穏やかな時間を好み、夜行バスに揺られながら故郷を目指した。
 実家の香りに包まれると、幼いころの思い出がありありとよみがえってくる。それもまた、彼が帰省を大切にする一因だった。
 両親が買い物に出かけてひとりきりになった、小学生時代のある夜。宇宙人に誘拐されるんじゃないかと本気で怖く、家の鍵が開いた瞬間にほっとして、一目散に玄関に駆けていったものだった。
 勉強をサボり漫画ばかり読んでいた中学時代は、階段の音に敏感だった。誰かが二階への階段を上ってくる気配を感じると、慌てて漫画を手放し机に向かう。両親が子供部屋を覗いてくる機会は年齢と共に減っていったが、いま思うと、サボっていたのなんて、きっとバレていたんだろうなぁと、青年は心の中で苦笑する。
 自分の生まれ育った家の香りなど、他人にとっては異質なものでしかないだろう。
 逆もそうだ。
 友人の家に遊びに行ったときに感じる、独特な香り。その根底には、部外者である自分を拒む何かがあるような気がしてしまう。
 けれど自身の実家の香りだけは、まるでタイムマシンのような機能を果たす――。
 そんな香りへの関心があったからに違いない。青年は嗅覚の謎を追究する研究室への配属を希望し、それが実現することとなった。
 研究をしていくうちに、青年は嗅覚と記憶のつながりについて学んでいった。
 五感の中でも、嗅覚は特に記憶との関係が深いとされる。嗅覚だけは大脳新皮質という部位を経由せず、記憶を司る大脳辺縁系という部位と直接つながっているのだ。ゆえにそれは、ほかのどの感覚よりも人の記憶に強く働きかけることができるのである。
 プルースト効果という現象が存在する。
 フランスの作家、マルセル・プルースト。彼の『失われた時を求めて』という作品の中に、主人公がある香りをきっかけに過去の記憶をよみがえらせるシーンが登場する。それにちなみ、香りが記憶を喚起する現象にプルースト効果という名がつけられた。
 雑踏の中で不意に鼻腔を抜けていったシャンプーの香りが、かつて好きだった人のことを鮮烈に思い起こさせるように――香りは記憶と、かくも結びついているのである。
 青年は講義や実験、学会での発表などから、香りに関する様々な知見を吸収していった。
 その中で調香師という仕事を知るに至り、やがて惹かれるようになる。
 調香師とはその名の通り、香りを調合する職業だ。香水の香りを生みだしたり、飲食料品の香りづけを担当する、香りに関するプロフェッショナルだといわれている。
 青年はその職業に憧れて、ますます研究に打ちこんだ。
 しかし、彼は思わぬ事態に見舞われた。
 両親が事故で他界したのだ。
 あまりに突然の出来事に、青年はただただ狼狽した。けれど、やるべきことはやらねばならない。彼には手助けしてくれる身内や親戚がおらず、すべてがその身にのしかかった。
 混乱の中、青年は教授へ休暇を申し出て、なんとか葬儀を執り行った。その後、数週間を費やして遺品の整理をし終えると、今度は相続の問題が降りかかった。
 実家を維持していくための蓄えは、彼にはなかった。青年は税理士や司法書士と何度も相談を繰り返した。そして苦悶の末、彼は実家を取り壊し、土地を手放すことを決断した。
 いよいよ家が取り壊されるという前日の午後。
 家具などはすべて処分され、すでに空っぽになった部屋の中で、青年はひとり佇んだ。
 事務的なことにひたすら追われ、これまで悲しみに浸る十分な時間は持てなかった。ここに来て、青年の感情はようやく現実に追いついた。
 実家が無くなる――。
 それが自分にとってどれほど大きな意味を持つのか。考えるまでもなく、圧倒的な虚無感に支配された。自分には帰る場所がなくなったのだ。無条件に頼れる存在が消え去ったのだ。
 そして何より、たくさんの思い出を内包している、この実家の香り。これも無論、家の取り壊しと共に無くなってしまう。
 青年は思った。たとえ実家が消えようとも、あるいはこの香りさえ保存しておくことができるならば……香りはいつまでたっても褪せることなく、この家での日々を青年の脳裏によみがえらせてくれるだろう。
 しかし、それは叶わぬ願いだった。
 青年は胸一杯、部屋に漂う空気を吸いこんだ。目を閉じて、よみがえるいろいろなことに身を委ねた。そこは、明るく優しい光に満ちた世界だった。十数年間、変わらず温もりを与えつづけてくれた場所だった。父親と日曜大工をしたことを思いだす。母親と朝食をつくったことを思いだす。そのすべては、いまこの瞬間に起こっていることのようだった。それほどに、記憶は鮮やかに浮かんできていた。

 家は予定通りに取り壊されて、青年の実家は消失した。
 遺産には手をつけず、大学の残りの学費はアルバイトを増やすことでまかなった。
 やがて青年は、就職活動の時期を迎える。急に焦りはじめる周囲の者とは対照的に、青年は勉学の甲斐あり、かねてからの調香師の職を見事に射止めることができた。
 ただ、調香師といえども、その仕事内容は多岐にわたる。彼が志望し担うこととなったのは、一風変わった役目だった。
 香りの保存師――特定の香りを保存するという仕事である。そしてそれは、同時に記憶の保存師とも呼ぶべき仕事でもあった。
 嗅覚は、ほかのどの感覚よりも記憶と密につながっている。つまりは調合により特定の香りを再現し、保存できるようになったなら、それに紐づく記憶のほうも自ずと保存されるわけだ。
 青年の働きはじめた研究所の部署では、様々な香りを保存することを職務にしていた。
 就職して彼が最初に従事したのは、震災の記憶を香りとして保存するという大仕事だった。
 国を襲った大震災。その爪痕は、数年を経ても深く土地に残っていた。青年は、その現地の香りを入念に調査し収集した。何度も足を運んでは、空気に含まれた香りを研究所に持ち帰った。
 数年の歳月を要したが、青年らのチームはこの香りの完全再現に成功した。すなわち、調合された現地の香りを嗅ぐことで、人はいつ何時でもあの大惨事のことをありありと、まるでつい先日起こったことのように思いだせるようになったのである。
 これにより、人々は震災の記憶が風化してしまうことへの対応策を手に入れた。直接的な被災者でない者たちも、この香りを嗅ぐことで当時の記憶をよみがえらせることができるようになった。ただし、過度な吸引は強烈なフラッシュバックを引き起こし、心に重度の障害をもたらす危険性が指摘された。ゆえに吸引時間の制限が設けられ、学校や企業などの勉強会で重宝された。
 同じ手法は、いたましい事件の記憶を残すことにも役立てられた。青年ら保存師たちは重大事件の現場検証に立ち会って、現場の香りを保存することに携わった。
 人々はそうして再現された香りを嗅いで、事件を思いだしては心を痛めた。まだ見ぬ犯人を追う警官たちは、香りによって犯人逮捕への意識をいっそう高めた。一方、捕まった犯人には同じ香りを嗅がせることで、罪の重さを忘れさせないようにもした。
 青年らが保存する対象は、何も直近の出来事に限らなかった。多くの人々の記憶に残っていることであれば、多角的な証言をもとに、時間を超えてそのときの香りを再現することもできるのである。
 青年は、戦争の香りを保存するプロジェクトにも関わった。数多の犠牲者を生んだ世紀の戦争。それを実際に経験した世代の者たちは、すでに高齢化してしまっている。彼らが亡くなってしまうその前に、早急な香りの保存が求められた。
 青年らのチームは、生き残っている人々への入念な聞きこみを行った。同時に、他国の戦地や戦争遺跡に赴いて、焦土や硝煙の香りを収集し参考にした。
 サンプルをつくっては戦争体験者に嗅いでもらい、首を横に振られては、また改善に取り組んだ。
 そうした試作を無数に繰り返した末に、研究チームはひとつの香りへとたどりついた。
 青年の渡した試験管に、ひとりの老人は鼻を近づけ香りを嗅いだ。
 老人は、何も語ることはなかった。語らないことが、すべてだった。彼の閉じられた目から一筋の涙がこぼれ落ちたのを、青年は黙って見守った。
 
 ところで、世の中には「虚偽記憶」という概念が存在する。自分では体験していないはずのことを、後付けの経験によって、さも体験したことがあるかのように錯覚する現象である。
 この現象と相まって、保存師たちの仕事は後世にまで影響を与えうるものへと昇華していた。
 香りの保存師の職が生まれて間もないころは、各所から皮肉交じりの批判が相次いだ。香りを保存してみたところで、その香り自体を知らない者にとってみれば無意味なものでしかないだろう。いくら彼らに嗅がせても、単なる異臭で終わるはずだ。そんな自己満足的な研究に価値はあるのか。
 しかし、研究が進むうちに、それらが的外れな意見であることが示された。香りとつながる出来事を体験したことのない者にとっても、保存師たちの生みだした香りは特定の記憶を喚起することが分かったのだ。
 保存された戦争の香りは、戦争未経験者たちにリアルな戦争の記憶を思い起こさせた。震災時には生まれてすらいなかった子供たちも、香りを嗅ぐと当時の記憶が頭によぎり、みな一様に悲痛な面持ちになった。
 なぜそんなことが起こるのか。そのメカニズムは解明されていなかった。ただ、議論の末、学者たちはこんな仮説を立てるに至った。
 人間の脳には生まれながらにして、幾つもの世代を経て人類が経験してきた数多の記憶が刻まれているのではないだろうか。中には戦争や震災に類似したものもあるだろう。保存師たちの残した香りは、おそらくその本能的な記憶を呼び覚まし、嗅いだ者にかつて経験したことのある出来事として記憶をよみがえらせるのだ。

 やがて青年は若さを失い、「青年」とは呼べない年齢となった。もはや「男」と呼ぶべき彼は結婚もし、息子を授かることもできた。
 男が仕事に忙殺されている間も、息子はぐんぐん成長した。
 たまの休暇になると、男はなるべく息子と過ごした。ときには、家族で妻の実家を訪れたりもした。
 妻の両親は、とても温かな人たちだった。こんな二人のもとで育てられたのだからこそ、いまの妻があるのだなぁ。そう感じる場面も多々あって、男はしみじみとした気持ちになった。
 けれど男は、妻の実家を訪れるたび、言いようのない孤独にも襲われた。その家の放つ香りはやがて馴染み深いものとなってはいったが、どこまでいっても微妙なズレが解消されることはなかった。
 この家で生まれ育った妻はたしかに、帰省するといつも安息の地に戻ってきたかのような表情に変わった。が、男にとって、ここはあくまで自分の実家――あのいまは無き、取り壊された家の香りを感じ取れる場所ではない。
 思えば実家を失って以来、過去の思い出がよみがえってくることも少なくなった。たとえ不意に思いだしても、少しずつ、だが着実にその輪郭は朧げになってきているようだった。
 あの、自分の実家の香りを再現できないものだろうか。男はそんなことを考えはじめた。
 いや、絶対に実現したい。そうして香りを残しておければ、自分の思い出も風化せず、いつだって好きなときに故郷での記憶を思い返すことができる――。
 男は日中の業務を終えると、ひとり残って密かに研究に着手した。無論それは、彼の実家の香りを再現するためのものだった。
 しかし、ことは容易には運ばなかった。何しろ、実際の現場や多数の証言をもとにできるほかの仕事とは違い、ヒントは自分の中にしかないのだから。
 男は頭を絞って遡り、実家にあったものを思い返した。香りを再現するためには、その周辺環境の情報が往々にして役に立つ。
 実家では、部屋でウサギを放し飼いにしていた。くたびれた黒いソファーが据えられていた。観葉植物が隅々に置かれていて、庭には椿や山茶花が植えられていた――。
 ときには終電を逃してまで、男は研究に打ちこんだ。彼の仕事とは無関係に、息子は変わらず成長していった。
 ただ、子供の素直な心は残酷な一面を見せることもあった。
 お父さん、なんか変な匂いがする。
 夜遅く帰ってきたところに起きてきた息子が、そんなことを口にしたとき、男は強い無力感に襲われた。
 自分のしている行為は、果たして意味のあることなのだろうか。息子と過ごす大事な時間を削ってまで、実現すべきことなのだろうか。
 他人の実家の香りほど、興味の湧かないものはない。
 男の生まれ育った家を知らない息子にとってみれば、彼の再現しようとしている香りは、いわば他人の実家の香りである。そんなものをつくりあげて、いったい何をしようとしているのか。自己満足以上の、何が得られるというのだろうか。
 だが、そう自問自答しながらも、男が研究を止めることはなかった。
 たとえ他人にとって、いや、妻や息子にとってさえも無意味なものになろうとも、自分にとってはかけがえのない香りなのだ。自己満足で終わってもいいじゃないか。男は自分を励まし、研究をつづけた。
 日中の保存師としての仕事は、負の記憶の保存に留まらなかった。
 男は誠実に仕事に取り組み、たくさんの成果をあげていった。
 時代の香りを保存するのも、男の大事な仕事だった。
 オリンピックで賑わう、国の香り。はたまた、ひと昔前の昭和の香り。
 ただ、それらの仕事の成功は、男をジレンマに陥れた。
 実家の香りの再現は、どれだけほかで成果を残しても、いまだ果たせていなかった。
 ときに絶望感に襲われながら、ときに希望の光を見出しながら、男は夜な夜な研究をつづけた。

 ある夜のことだった。
 その日も男は、業務後に研究室にこもって実験をしていた。が、試験管の中、またしても生みだされた微妙に異なる香りを嗅ぐと、辟易した。
 自分は藁の中から針を探しだそうとしているような、とてつもなく愚かなことをしているのではないだろうか。証明の困難な数学の定理に人生を狂わせた人々の逸話は有名だ。自分も化学という分野において、同じ道をたどっているに過ぎないのではないだろうか。
 そんなことを考えながら試験管に薬を投じた、そのときだった。手元がゆらぎ、予定よりも多くの試薬を投じてしまった。
 まあ、いいさ。どちらでも大差のないことなのだから。
 そう思い、投げやりに試験管の香りを嗅いだ瞬間だった――。
 男は実家の二階、自分の部屋の中に居た。窓際に寝そべり、ビー玉を弾いて遊んでいた。西日が差して、肌が強い熱を帯びる。けだるい夏の夕暮れどき、男は人差し指でビー玉を弾き、別のビー玉を陽だまりから押しだした。
 シーンは変わり、男は父親と一緒に竹ひごの飛行機をつくっていた。ライターで炙りながら、ゆっくり竹を曲げていく。できた羽に和紙を張る。近所の空き地から大空へ解き放つと、それは放物線を描きながらゆらりゆらりと着地する。
 別の映像に切り替わり、男は母親と小さなビーズをいじっていた。それは、手芸の好きな母親が教えてくれた遊びだった。いろいろな色のビーズを組み合わせ、トンボの形をつくっていく。図鑑でしか見たことのない赤とんぼをつくりあげ、男は心が満たされる。できたそれを筆箱のジッパーに結びつけ、明日、友人に自慢するのを楽しみにしている――。
 男は溢れてくる記憶にすべてを委ねた。
 試験管から放たれる実家の香りは、否が応でも男の人生を形成した大切な思い出たちを、ひっきりなしに呼び起こした。
 不意に気がつき、時計を見た。最後に時間を確認してから、数時間が経っていた。
 男は動悸を抑えられないまま、実験結果をノートに記した。ついにやったのだと、男の興奮は高まっていく一方だった。
 帰宅してからも高揚はつづいた。寝ている妻を起こさぬように静かにしつつ、男はリビングのソファーに沈みこみ、祝杯のビールをひとり呷った。
 これからはいつでも、実家の香りがそばにある。誰からも理解されなくていい。時おりひとりで楽しむのだ。遠い記憶を。亡き両親との思い出を――。
 足音がして、扉が開いた。見ると、息子が立っていた。
 お帰り、と息子が言った。
 こんな時間にどうしたんだ、と男が尋ねる。
 宿題が終わらなくて、と息子は答える。
 男は不意に寂しくなった。この高揚を、この懐かしさを、血を分けた、たったひとりの息子にさえも伝えることができないのだ。香りによる虚偽記憶の形成には限界がある。戦争や震災などの大きな事象に留まるのみで、個人の記憶を他人に喚起させるほどの領域にまでは至っていなかった。
 息子にとっての実家とは他でもない、この家である。
 男は思う。息子もやがて高校へ行き大学へ行き、社会に出ていくことになるだろう。そのとき息子の救いとなり得るのは、男にとっての実家の香り、すなわち息子の知らないそれでは決してない。
 いつか息子が家を出ていく日の餞別のために、今度は我が家の香りを再現する研究にでも取り組もうかな。寂しさ混じりに、男がそう思ったときだった。
 立ったまま、息子が鼻をひくつかせ、ぽつりとこんなことを口にした。
 ねぇ、なんかいつもと違う匂いがしない?
 息子はなおも、鼻をくんくんさせている。
 なかなかやるな、と男は感心させられた。きっと研究室で服にしみついたあの香りを嗅ぎつけたのだろう。長年の研究の末に生みだした、自分だけにしか分からない実家の香りを。息子にとっては異臭に過ぎない、その香りを。
 男は、まだ何かを言いたそうな様子の息子に声を掛けた。
「どうしたんだよ、首を傾げたりなんかして」
 すると息子は、苦笑しながらこう言った。
 いや、この匂いなんだけどさ。
 しばらく間をあけたあと、息子は自分の気持ちを整理するように言葉を紡いだ。
「……ねぇ父さん、こんなことを言うのは自分でも変だって分かってるんだけど」
 そう言いながら、息子は男の隣に腰掛けた。
 ソファーに深く身を沈め、一息吐いたあとで息子はつづけた。
「父さんのほうのじいちゃんとばあちゃんは、ぼくが生まれる前に亡くなってて、家だって昔からないじゃない?」
 でも、この匂い……。
「なんだかさ、まるでじいちゃんとばあちゃんの家に遊びに来たみたいだ」

終わり

第6回目の俳句募集にたくさんのご応募を頂き、ありがとうございました。

引き続き、第7回目の俳句募集が始まりました。応募締切は4月24日(月)です。
なお、誠に勝手ながら、今回をもって俳句の募集はしばらくお休みさせて頂きます。

あなたの詠んだ一句が、言葉の職人お二人の手によって、素晴らしい物語に生まれ変わるかも知れない貴重なこの機会、ぜひお見逃しなく。

「俳句募集」のページから投稿できますので、ぜひご参加ください。
たくさんの皆様のご応募をお待ちしております。